2024年7月11日木曜日

千葉公園の今昔物語~思い出を忘れないために

 

千葉公園

千葉公園の近くに実家があったことから、自分の少年時代には、ここでよく遊んだものでした。今回、大賀ハスを観にこの公園に来て、周りを歩いてみると昔の思い出があると同時に、いまはその施設はなくなって、景色は大きく変わっていました

また、調べてみると、千葉公園には戦前の軍の遺構がのこっていて、軍隊の町・千葉の姿がありました。

そうした千葉公園の今昔を自分の思い出も交えながら書いておきたいと思います。

1.軍隊の町・千葉~千葉公園にある戦争遺構

千葉公園には、鉄道第一連隊の演習作業場があり、演習に使われたコンクリートの大きな土管のようなトンネルや、分厚いコンクリートの橋脚が残っている。また、公園には、荒木山があるが、これはやはり鉄道第一連隊の荒木大尉に因むものである。

(1)鉄道第一連隊

江戸時代には、綿打池(今の千葉公園)あたり一帯は、千葉寺・寒川村と作草部村との入会地でヨシが生える沼地同然の場所であった。この地に、1908(明治41)年大日本帝国陸軍が鉄道聯隊を設け、演習場となる。その後、1918(大正7)年、津田沼(習志野市)に鉄道第二連隊ができると共に、名称も鉄道第一連隊と変わった。鉄道第一連隊は周辺一帯の演習作業場で、鉄道の保守、新設、修理をはじめ、敵地での鉄道破壊訓練も行っていた。先のトンネルや鉄橋を造るための橋脚は訓練のために使われたもので、遺構として公園内に保存されている。

この鉄道連隊が東京・中野から千葉町(現・千葉市)に移転した背景には、日露戦争後の町の発展をかけて、千葉町が軍隊誘致に熱心であったことがある。当時の町長は、土地の提供を募るなど誘致運動を先頭に立っておこなった。また、当時の千葉県知事も陸軍との交渉に当たった結果、鉄道連隊の千葉への進出が決まった。この鉄道連隊が誘致されたことによって、千葉町は大きく発展していった。

鉄道連隊は、千葉町椿森に連隊本部や兵舎、轟に材料廠、現在の千葉公園に作業場という構成で、その軍用線は旧千葉駅(現在のJR千葉駅の場所より東にあった)から北へ、材料廠のある轟まで延びていた。

『今は昔』:自分の記憶では、作草部郵便局の近くに軍用線の廃線の一部が残っており、自動車などは、ここで一旦停止をしていたものである。それを見ていて、あそこは列車は通らないよ、などと知ったかぶりをしていた。しかし、なぜ通らないか、なんの線路なのかは知らなかった。また、この近くに駄菓子屋があり、時々来てはメンコやベーゴマ、駄菓子などを買っていたのを思い出した。

(2)荒木山 

公園の池の横には、荒木山と呼ばれる小高い丘がある。荒木山は、連隊の喇叭手が訓練をしていた場所だったことから 「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれていたが、殉職した荒木克業(かつのり)大尉を偲んで山の上に銅像を建てたことから荒木山と呼ぶようになり公園として整備された。荒木大尉(1907-1932)は、鉄道第一連隊に所属し、満州事変における英雄として祭り上げられた。

銅像は、戦争中に金属供出され、台座も壊された。戦後、ここには展望台が建てられた。

『今は昔』:この展望台は高さ28メートルもあり見晴らしがよく、晴れた日には遠くに富士山を眺めることもできたようだ。ただ、自分たちはそうした展望よりも、展望台に隠れたり走り回って遊んでいたように覚えている。

その展望台も老朽化により平成5年に完全に撤去され、そのあとには、荒木山の由来の説明版などが設置されている。

荒木山のふもとにある 昭和8年に建立された石碑

荒木山への階段

荒木山の頂上にある石碑

荒木山の由来の説明版

(3)鉄道連隊演習跡 ~橋脚・トンネル

鉄道第一連隊が架橋演習に使用したコンク リート製の橋脚や、トンネル工事演習に使用したコンク リート製ドーム、ウインチ台といわれるコンクリ ート塊などが遺構としてある。

『今は昔』:分厚いコンクリートでできた橋脚にボールをぶつけて遊んだ覚えがある。そのころもこれは軍隊の射撃練習のためにできたんだ、と言って戦争のために造られたということは知っていたが、鉄橋をつくる演習に使用した橋脚だといった正確なことは知らなかった。

大きな土管のようにも見えるトンネル工事演習用のドームは公園のはずれ(モノレールの公園駅の近く)にあるので気に留めたことはなかった。、昭和6年に造られたものだという。また、ウインチ台といわれるコンクリ ート塊は池のモノレール側の脇にあるようだが、今回は見逃した。

コンク リート製の橋脚

コンク リート製の橋脚

橋脚のプレート

コンク リート製の橋脚

コンク リート製の橋脚


鉄道第1連隊の鉄道敷設作業の様子

トンネル工事演習用のドーム

トンネル工事演習用のドーム

トンネル工事演習用のドーム

戦跡の説明板

トンネル工事演習用のドーム

モノレールの千葉公園駅

(4)気球連隊の格納庫~ダイヤモンドトラス

軍隊の町・千葉には鉄道連隊とともに陸軍気球連隊が作草部にあった。気球隊は陸軍の航空基地であった埼玉県の所沢飛行場にあったが1927(昭和2)年に千葉の都賀村作草部に移転してきた。作草部には二つの巨大格納庫があった。このうち旧第二格納庫は1934年(昭和9年)に完成し、立体構造材の「ダイヤモンドトラス」が使用され、かまぼこ屋根をもつ巨大な建物だった。

この旧第二格納庫は民間に払い下げられ、倉庫として使用されていたが、老朽化が進み、また2019年の台風により天井が破損したため、2020年に解体された。解体された骨組みは、ダイヤモンドトラスと呼ばれる昭和初期の高度な建築技術であり、その部材を使用し、復元したものをモニュメントとして千葉公園のお花見広場に設置された(2022年)。

『今は昔』:このお花見広場に設置されたモニュメントはパブリック・アートのようにも見え、もはや戦争の匂いはしない。ここには多くの桜の木が植えられており、花見の時期以外にも、ひと休みの場所として利用されている。当然のことながら、桜の木は昔より、みな大きくなって枝を伸ばしていた。

民間の倉庫として使用されていた旧気球連隊第二格納庫・2020年に解体

九五式偵察気球と気球連隊第二格納庫

お花見広場に設置されたダイヤモンドトラス

お花見広場に設置されたダイヤモンドトラス

(5)忠霊塔

お花見広場から桜の木越しに高い塔が見える。忠霊塔で高さは20メートルもあり、堂々とした塔である。

忠霊塔の建設は、戦前、昭和16年頃に企画され建設が始まていったが、工事途中で終戦となり、戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年に建立された。

建設場所は、明治41年に、鉄道連隊兵士の墓として、陸軍墓地が造成されたところに建てられ、日清・日露から大平洋戦争に至る戦没者を追悼するとともに、恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。

忠霊塔

忠霊塔

忠霊塔

忠霊塔

忠霊塔の敷地の一角には次のような慰霊碑が置かれている。

日中戦士鎮魂碑

昭和14年、佐倉51聯隊に於いて第32師団管下の部隊として編成された楓425部隊(歩兵212聯隊) の鎮魂碑。日中国交正常化を機に永久不戦を誓い両国犠牲者の鎮魂のため「日中戦士鎮魂碑」を昭和524月建立。

日中戦士鎮魂碑

日中戦士鎮魂碑

千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑 

若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、「平和の翼」の碑を建立。 昭和47年。

陸軍少年飛行兵慰霊之碑

陸軍少年飛行兵慰霊之碑

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊 

この聯隊は北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ、昭和13年中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体とし、東京、埼玉、山梨その他の各府県出身者により構成されていた。昭和54年建立。

慰霊碑

愛馬慰霊碑

愛馬慰霊碑

鎮魂 シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑「大地」

第2次大戦は、日本が連合国のポツダム宣言を受諾して終結したが、多くの将兵は酷寒のシベリアなどに抑留され、長期にわたり、労役に就かされた。 1996年 建立。

鎮魂 シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑「大地」
鎮魂 シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑「大地」

鎮魂 シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑

『今は昔』:忠霊塔の前は広い敷地になっているが、さすがに子供のころもここでは遊ばなかった。高い忠霊塔のもつ厳かさであろうか、戦争で亡くなった人々を慰霊するものだと分かっていたのだろう。

今は塔の周りは、柵がめぐらされているが、当時は柵もなく自由に石段に登ったりしていたように思い出す。なお、慰霊碑の中にシベリア抑留で亡くなった人の慰霊する「大地」と題した女性像が建てられているが、自分の父親もシベリア抑留者であった。ただ、抑留時の様子などを話すことはなかった。

(6)千葉県護国神社

忠霊塔に並んで、護国神社があっ多賀、今は若葉区へ遷座している。

護国神社は、明治11年(1878年)、明治維新で亡くなった霊を祀るため「千葉縣招魂社」として創建された。当初の鎮座地は千葉県庁公園内→千葉神社境内(明治22年)→「千葉縣護國神社」と改称(昭和14年)→亥鼻山(昭和18年)→戦災により社殿消失→弁天町(昭和42年)→若葉区(令和4年)と遷座している。

『今は昔』:護国神社は、一番近くの神社ということから初詣などでお参りしたことがある。しかし、神社は若葉区へ遷座して、いまは全くその面影もなく、マンション建設工事が行われていた。忠霊塔と並び、戦没者を慰霊する神社がなくなって、マンションになるという。これも時代なのだろうか。

護国寺跡のマンション建設工事

(7)軍隊の町

鉄道第一連隊の演習場所であった現・千葉公園は地名は弁天町である。その周辺の町にも軍の施設が置かれていた。公園のガイドマップにより、軍隊の町をみてみる。

公園のガイドマップ

〇弁天町:鉄道第一聯隊の作業場、陸軍墓地(跡に忠霊塔)があった。それらの遺構はすでに見た。

弁天町は、公園の綿打池の池畔に祀られた弁財天の名をとり、1922(大正11)年にできた町である。千葉公園の地名であり、実家のあったところである。

弁天町

〇作草部町:陸軍歩兵学校、気球聯隊があった。気球聯隊のダイヤモンドトラスについては先にみた。

作草部町は、六世紀ころは皇室の直轄領であったと推定され、王朝時代でも相当の村落であったとされる。三枝部(さきくさべの部民の居住地だったので、地名も「さきさべ」と名付けられ、それが「さくさべ」となまり、作草部の字があてられたという。


気球連隊第二格納庫

〇椿森町:千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院があった。

陸軍病院は、1908(明治41)年に千葉衛戍(えいじゅ)病院として創設された。1936(昭和11)年、千葉陸軍病院となる。戦後は、1945(昭和20)年、国立千葉病院として発足2004(平成16)年、独立行政法人国立病院機構千葉医療センターとなる

『今は昔』:父親はこの病院で亡くなった。当時の病院には、陸軍病院時代のものと思われる古い建物があったことを覚えている

椿森町は作草部町の一部であったが、昭和11年(1936)町名改正のとき、作草部町から分離した。神社の森があり、椿の大木が社をとり囲んでいたので、椿森と呼んでいたことから、椿森の名を町名にしたという。

〇轟町:陸軍兵器補給廠、材料廠があった。現在は千葉経済学園

戦前この町は、、軍靴の音も賑やかであったことから轟町と名付けられたという。

明治41年に鉄道連隊材料廠として建設 。県指定文化財


〇都村(現・若葉区若松):陸軍下志津飛行学校があった。現在は、陸上自衛隊下志津駐屯地となっている。

都村は1937(昭和12)年、千葉市に編入され、都町と若松町と改称された、

〇穴川町:千葉陸軍戦車学校があった、その跡地が京葉工業高校となっている。 

穴川の名は、地下水が自然に湧出して流れとなり、黒砂、谷津に流れた小溝があったことから付けられたという。


〇小中台町:千葉陸軍防空学校があった。 現在は、千葉県立女子高となっている。

小中台町(こなかだいちょう)町の名はこの地の地形から名付けられたとされる。

〇『今は昔』:この辺りの思い出

昭和30年代には、現在の東千葉駅から椿森、作草部にかけて水田が広がり、作草部の川というヨシの生える自然の川があり、ドジョウ、メダカ、フナ、亀までいた。亀を捕まえて水槽で飼っていたこともある。湿地にはアメリカザリガニがいて、これを釣りに行ったこともある。餌はイカの足かニボシ、それをタコ糸につけて釣ったものだ。

2.千葉公園~かつてあった施設

千葉公園は、1946(昭和21)年に決定した戦災復興計画に基づいて、陸軍の鉄道第一連隊跡地に整備された。総合公園として、体育館、野球場、競輪場、プールなどの運動施設とボート池(綿打池)、ミニ動物園などがつくられた。

(1)千葉公園体育館

千葉公園体育館は、1956(昭和26)年に県営の体育館として竣工し、1972年、千葉市に移管された。2023年に新しい体育館が竣工し、「旧千葉公園体育館」は老朽化により廃止となり、解体されることとなり、いまは跡形もなくなっていた。

当初の建物は、下志津陸軍飛行場の格納庫を転用して造られたものであった。

『今は昔』:この体育館では、体操、バレーボールなどの競技大会が行われており、応援を兼ねて見に行ったこともある。そのほか、吹奏楽の演奏会、さらには力道山時代からプロレス興行がよく打たれており、周辺にはプロレス開催のポスターがあちこちに貼られていたのを覚えている。ただ、実際のプロレス観たことはない。

旧・千葉公園体育館


千葉公園体育館は解体され跡形もない

(2)千葉公園プール

千葉公園の水泳プールは、1960(昭和35)年に開設した。公認50mプール(9コース)や子供プール、徒渉プール(赤ちゃんプールと言っていた)が設けられている。しかし、このプールも、建築から60年以上が経過し、施設の老朽化が著しいことから解体される予定になっている。

『今は昔』:このプールには、夏休みになるとほぼ毎日のように行っていた。家から海パンをはいて行き、プールでは着替えることもなく、帰りもシャワーを浴びてそのまま帰ってきた。市営なので料金も安かった(今も大人220/2となっている)

今も当時のままの男子と女子の入口が分かれてあり、男子入口を入ってすぐにシャワーを浴びプールに飛び込んだ泳ぎ終わってプールを出ると売店(今もある)があり、アイスなどを買って食べながら家に帰ったものである。

水泳プール・赤ちゃんプール


プールの窓口

プール・男子入口

プール・売店

50mプール(9コース)

(3)千葉公園野球場

野球場は昭和24年に完成した、公認の野球場であり、プロ野球の公式戦も行われたことがある。しかし何といっても夏の高校野球の大会が花であった。この球場も、2020年に廃止となり、いまは影も形もなくなって、新しく「芝庭」という広場となっている。

『今は昔』:中学の時、市の野球大会に出場し、準決勝まで進んだのが、この球場であり、自分の一番の思い出である。

旧・千葉公園野球場

芝庭

芝庭

(4)千葉競輪場

千葉競輪場は1949(昭和24)年に開設され、市直営の公営競技(公営ギャンブル)として「千葉競輪」が始まった。売り上げの一部は市の一般会計に繰り入れられ、市の財政運営にも貢献した 。しかし、売り上げは1995年度をピークに、年々減少し、歯止めがかからず、入場者数の減少と施設の老朽化により、ついに2015年、市は事業を廃止する方針を打ち出し2017年に閉場し全面的に解体された。

この競輪場は、2021年よりTIPSTAR DOME CHIBA(ティップスター ドーム チバ) として新たに生まれ変わった。

『今は昔』:この競輪場は、実家の二階からレースの一部を見ることができた。友達が遊びに来た時には、レースを見ながら、「よく見てて、スタートして最初に一番を走る選手は、最後はビリになるから」と言って得意げに話をしていたことを思い出す。競輪のレースについては、いまもよく知らないが、スタートして先頭を走るのはペースメーカーのような役割なのかもしれない。

また競輪が開催されると、多くの人が来て中には、帰りには賭けに負けて全てを摩ってしまった人もいるから、物騒だから家の戸締りをしっかりしておきなさいと言われたこともある。駐車場には、たくさんの外れ車券が散らばっていた。

駐車場は、競輪の開催がないときには、野球をするのに絶好の場所であった。といっても、三角ベースの野球であったが。

旧・千葉競輪場

TIPSTAR DOME CHIBA

TIPSTAR DOME CHIBA

競輪場の駐車場・今

競輪場の駐車場・昔(奥に忠霊塔が見える)

(5)陸上競技場

競輪場と併設されて陸上競技場があった。昭和24年に完成され、数々の全国大会がおこなわれたこともある。昭和31年には、メルボルン・オリンピック派遣の日本代表選手がこのグランドで約3週間に亙って最後の仕上げを行ったこともある。しかし、この陸上競技場も昭和60年(1985)に廃止された。

『今は昔』:やはり、中学の時、この陸上競技場で行われた市の大会に、中学校の代表として走り幅跳びの選手としての参加したことがある。

(6)ミニ動物園

現在のアガパンサスの花壇あたりに、ミニ動物園として、サルの小屋と、アヒル ・カモ・クジャクなど鳥小屋のある小動物園があった。鳥小屋には、金鶏、銀鶏 といった美しい鳥もいた。

『今は昔』:その頃、家で伝書バトを何羽か飼っていたが、いつの間にか戻ってこなくなった。多分、公園にたくさんいた鳩の群れに吸収されてしまったのだろう。そんな思い出もある。

このミニ動物園は、昭和31年(1956)建設されたが、いつなくなってしまったのか。若葉区に新たに千葉市動物園が1985年に開園しているので、廃止されたのは、その前だろうか。千葉市動物園はレッサーパンダの立ち姿が人気となったことで知られる。

この広場に、蒸気機関車が置かれている。これは、かつて川崎千葉製鉄所(現JFEスチール)構内で、貨車の入れ替え用に使っていたものを譲り受けたものだという。機関車の運転席にも入ったりできるので、ほかの遊戯とともに子供達には人気のアイテムとなっている。

ミニ動物園

アガパンサスの花壇

アガパンサスの花壇と蒸気機関車

アガパンサスの花壇

蒸気機関車

アガパンサスの花壇


アガパンサスの花壇

(7)広場

蓮池の横には、広場があり、野球のバックネットが作られている。

『今は昔』:この広場では、よく野球をしたものだ。人数が足りないときには、三角ベースにしてやっていた。ときどき、大人が野球の試合をやっていたりしたので、よく見ていた。

広場・バックネット

広場

広場・バックネット

(8)ボート池(綿打池)

このボート池は綿打池と呼ばれている。その由来は次のように書かれている(千葉市のH.Pより)

「江戸時代に池周辺は、作草部村と寒川村との境界になっていました。ある時、池の所有をめぐって争いが起きましたが、役人が確認に来る前日、寒川村の住人で、綿打の仕事をしていた太郎兵衛が村内の弁天の石碑を移しておいたところ、役人がその石碑を見て、池を寒川村のものとしたということです。以来、太郎兵衛の気転を褒め称えて、「綿打池」と名づけられたと伝えられています。」

ボート池は昭和27年(1952)に完成し、市内で唯一ボートに乗れる池となっている。いまも130分以内200円 で乗れるようだ。

『今は昔』:その当時も格安なので、従兄弟が遊びに来た時など、このボートに乗って遊んだことを覚えている。ボートを漕げるようになったのもこの池だと思う。

ボート池(綿打池)・奥は蓮華亭

ボート池(綿打池)・中島・上はモノレール

ボート乗り場

大賀ハスを見に千葉公園に行った際に、その周辺にある戦争遺構などと、公園にある施設も見てまわりました。そして、その歴史についてしらべてみると、「あっ、そうだったんだ」ということが分かりました。千葉がこれほどの軍隊の町だったこと、また、戦後造られた公園の施設が大きく変わってしまっていることに驚きました。

それにしても、自分の少年時代は、この公園とともにあったのだと、改めて思いました。

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