2024年7月17日水曜日

千葉神社と小さな社~いまさらですが

 

千葉神社

千葉公園の大賀ハスをみて、公園の昔を思い出しながら、千葉市美術館から千葉神社に寄ってきました。

千葉神社は名前の通り、千葉を代表する神社であり、千葉氏ゆかりの神社です。千葉神社にお参りに来たのは、もう半世紀以上も経つかもしれません。昔と全く景色が違いました。赤い立派な社が建っていました。

その他、小さな社にも出会いました。

(参照):

千葉公園の今昔物語~思い出を忘れないために

「千葉公園に大賀ハスを愛でるの巻2024年版」

1.千葉神社(妙見本宮)

千葉神社は、千葉氏の守護神である北辰妙見尊皇王を祀る寺として1000年に中興開山し、1869(明治2)年に神仏分離により千葉神社へと改称した。

社殿は上下二つの拝殿を有する重層社殿で、日本初とされる。楼門は、尊星殿(そんじょうでん)といわれ、神社開創1000年を記念して2000(平成12)年に竣工した。神社建築では類例のない楼門と社殿の複合建築物となっている。 どちらも、赤く塗られた建物で、どこか異国風も感じられる。

かつての社殿は、このとなりに移設され「千葉天神社」の社殿となっている。自分が見覚えのある千葉神社は、こちらで懐かしさを感じた。

この旧社殿は、1945(昭和20)年の7月7日、七夕空襲により焼失し、1954(昭和29)に

再建された。

千葉神社・尊星殿

千葉神社・尊星殿

千葉神社・尊星殿

尊星殿前の狛犬(制作・青木三四郎)

尊星殿前の狛犬

尊星殿

千葉神社・重層社殿

千葉神社(妙見本宮)

千葉神社

妙見延寿の井

千葉天神社(旧・社殿)

千葉天神社(旧・社殿)

千葉天神社(旧・社殿)

境内にある亀石は「亀」が玄武を象徴するもの
四神の玄武は北を守るとされる。玄武は北の守護神である妙見の乗り物であるという。

千葉天神社・末社

千葉天神社・末社前の狛犬

千葉天神社・末社前の狛犬

千葉天神社

妙見池・神橋


(1)妙見信仰

千葉の妙見さま、といわれるほと、千葉には妙見信仰が広まっていた。妙見信仰は、仏教の菩薩信仰が中国の道教の北極星・北斗七星信仰と習合したもので、北辰・北斗信仰ともいわれ、日本へは飛鳥時代に伝わったとされる。北極星は天帝とみなされ、それに菩薩の名が付けられ「妙見菩薩」と称するようになったという。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということから妙見菩薩は軍神として崇敬される 。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図ったという。

江戸時代、葛飾北斎の画号「北斎辰政」は妙見信仰によるものとされ、たとえば「西瓜図」は、美術史学者・今橋理子によれば七夕の見立図と解釈され、星に対する高い関心が制作動機になっているとされる

先に述べたように、旧社殿が「七夕」空襲により焼失したというのも、妙見の因果だったのだろうか。

葛飾北斎「西瓜図」


(2)千葉氏

千葉氏は、その名の通り千葉市・千葉県の生みの親といえる。千葉氏は桓武天皇の血を引く名族といわれる。平安時代後期の1126年に、千葉常重が大椎(現在の緑区大椎町)から現在の中央区亥鼻付近に本拠を移したことにより、千葉市の都市としての歴史が始まったとされる。ただ、館はこれまで亥鼻とされてきたが、近年では、現在の千葉地方裁判所あたりであったという。なお、千葉市は、2026年を「千葉開府900年」と位置づけ、イベントを企画している。

常重の子、常胤(1118-1201)は、1180年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝(1147-1199)が海を渡って房総に逃れてきた際に、いち早く頼朝の味方に付くことを決めた。その後、常胤は一貫して頼朝を支え、鎌倉を本拠とするよう進言するなど、常胤は鎌倉幕府の成立に大きく貢献した。頼朝も常胤を父のように(歳の差29歳)慕っていたといわれ、また頼朝の妻・政子の腹帯を新調したのは常胤の妻で、頼朝はこの帯を受け取ると自ら結んだといわれる、など常胤と頼朝の信頼関係は私的生活にまで及んでいたようだ。

常胤は息子たちとともに源平合戦や奥州合戦に参加し、その功績によって、北は東北から南は九州まで、全国に所領を獲得した。千葉六党と呼ばれる常胤の6人の息子たちは、所領を分割して引き継ぎ、それぞれが本拠とした所領の地名を名乗り、千葉氏はその後も、分家を繰り返しながら、全国各地に広がっていった。

長男・胤正は千葉一族の統率者。二男・相馬次郎師常は、相馬御厨(現・東葛飾から茨城・守谷市)を所領。相馬野馬追いで知られる相馬氏の始まりとされる。三男・武石三郎胤盛は、現在の京葉道路武石インター付近に館を構えた。四男・大須賀四郎胤信は成田市周辺を領地とする。五男・国分五郎胤通は、市川市国分町付近に館を構えた。六男・東六郎大夫胤頼は、香取市小見川から東庄町、銚子市周辺を領した。

また北は東北、岩手は東北千葉氏、福島は先の相馬氏、東京・板橋区は武蔵千葉氏、南は九州・佐賀は九州千葉氏など各地に広がっている。九州千葉氏は、蒙古襲来の際、出陣した千葉頼胤が負傷し没すると子の宗胤(むねたね)が出陣した。そして弘安の役の後も、三度目の元の来寇を危惧した幕府によってとどめ置かれたことから肥前千葉氏となった

なお、武蔵千葉氏については、拙ブログ東京異空間100:板橋の文化を歩く~板橋区立美術館・郷土資料館・植物園の武蔵千葉氏の菩提寺「松月院」を参照。

また、岩手には新渡戸氏があり、明治時代の新渡戸稲造の系譜である。新渡戸氏は千葉常胤の長男・胤正の二男・境常秀が先祖であるという。新渡戸稲造は、『BUSHIDO-The Soul of Japan』を著し、世界に日本人の普遍的な道徳意識や思考方法を知らしめた。 千葉氏という東国の武士の系譜に連なる新渡戸稲造により『BUSHIDO』が著されたということになる。

なお、新渡戸稲造の『BUSHIDO』については、時空トラベラー古書をめぐる旅(51)Bushido The Soul of Japan:「武士道」Inazo Nitobe:新渡戸稲造著を参照。

(3)だらだら祭り

千葉神社の祭礼として、通称「だらだら祭り」が毎年8月16日から22日にかけれ行われている。 歴史は古く、千葉家7代・千葉常重が1126年に、一族の守り神である北辰妙見菩薩を亥鼻城(千葉氏館)から遷し、翌年、1127年から『妙見大祭』が始まり、以来、一度も途切れることなく開催されているという。

このお祭りでは、初日である816日にお神輿が神社を出て、亥鼻山の麓の御仮屋に一週間逗留し、最終日である822日(22日は妙見様のご縁日)に再び神社へと戻ってくる。お祭りが七日間に及ぶのは、妙見様のお姿の一つである北斗七星に因んで、その七つの星の一つ一つに願いを掛ける願掛けのお祭りだからとされる。そこで、この一週間は「何か一言願をかければ、その願いは必ず達成される」という言い伝えが残っており、別名「一言妙見大祭(ひとことみょうけんたいさい)」とも呼ばれている。

だらだら祭りと通称されるのは、祭りの期間が長いからではなく、神輿の先導を務める大太鼓が「二段打ち」という特殊な叩き方で、その音が「だらん、だらん」と聞こえることからだという因みに東京・芝大神宮のお祭りは10日間にわたることから「だらだら祭り」 と呼ばれている。

このお祭りの期間の土・日曜日には、「親子三大祭り」というのが開催され、神輿や山車、踊りなどのイベントが行われている。親子三代祭りは、1976(昭和51)年に千葉開府850年を記念して始まったものである。

親子三代祭り(友人のフォトアルバムより)

2.千葉常胤の像~通町公園

千葉神社を出ると通町公園となっていて、その隅に千葉常胤の像がある。制作者は安西順一(1908-1990)は、千葉県君津市出身の彫刻家で、その名は祖父、父から聞いたことがある。

安西の作品は、千葉県内に多くの野外彫刻が設置されている。

また、これまで千葉氏の拠点とされていた亥鼻山(猪鼻山とも)には城の前に常胤の騎馬像がある。制作者は田畑功(1955-)、2000年建立。田畑が制作した有名人・著名人等の像は全国各地に1千体余りあるという。

千葉常胤像(制作者・安西順一)

千葉常胤像(制作者・安西順一)

亥鼻城前の千葉常胤・騎馬像(友人のフォトアルバムより)

なお、この場所は、戦前までは千葉氏の菩提寺である大日寺があったが、空襲により焼失し、いまは轟町に移っている。平常重が1126年、千葉に本拠を定め「千葉」と名乗るようになり、大日寺を菩提寺とした。

同じ公園の隅に、小さな社があり、「出世弁天」が祀られている。これも戦災で焼失し、昭和33年に再建されたもの。

境内の由緒書きによれば、「この弁財天は昔から小茶園弁天様と呼ばれ其の霊名は広く傅へられてゐます 小茶園とは地名です 此所に古刹あり創建は不詳なるも傅へられる処に依ると弘法大師が巡錫の杖をこの地に留め弁財天像を彫し池畔に来村せりと 故に此地は一千有余年前よりの霊地だつたのです それから約三百年程たったので源頼朝千葉常胤の活躍となつたのですが源氏再興の祈願はこの弁財天でせう 頼朝は有名な弁財天信仰者だつた」 とある。

小さな社は、元は大日寺の境内にあったものだろうか、いまは猫がこの社を守っているようだ。

千葉市は、この通町公園と中央公園を連結し、一体的な歴史的空間にすることを計画している。こうした小さな社はどのように扱われるのだろうか。歴史的空間のひとつとして大切にしてもらいたいものだ。

出世弁天

出世弁天

出世弁天

出世弁天の猫

3.宗胤寺

千葉競輪場の近くに宗胤寺がある。この名前は寺が経営する幼稚園とともに記憶に残っている。幼稚園の屋根には千葉氏の紋、月星がのっている。

宗胤寺は、千葉宗胤の開基で、宗胤の父・頼胤は元寇で負傷して亡くなっており、 頼胤を始めとする一族の戦死者の菩提を弔うために寺を創建した。宗胤もあとをついで九州に出陣し蒙古の来襲に備えた。2度の元寇のあとも、幕府は博多湾の警備のために関東御家人たちの帰郷を認めず、宗胤は下総国に帰ることができなくなり、肥前国小城(現在の佐賀県小城市)で、1294(永仁2)年に没した。宗胤寺の境内には千葉宗胤の墓碑として伝わる五輪塔がある。

宗胤寺は、元は現在の千葉地方裁判所の地(千葉県庁から都川をはさんだ向こう岸)にあったが、1945(昭和20)年の空襲で焼失し、戦後の都市計画で現在の弁天町に移転した。千葉地方裁判所あたりは、徳川家康の館が あったことから御殿跡と呼ばれ、未だ所在が明らかになっていない千葉氏の館の候補地とされている。

宗胤寺幼稚園・屋根の上には千葉氏の月星紋


4.巖島神社登渡神社

千葉公園の入口の横に巖島神社がある。巖島神社としたのは明治以降のことで、元々は弁財天の碑石が鎮座していたことから、「弁天さま」と呼ばれていたのだろう。

境内の石碑には次のように書かれている。

「明治以降、池のほとりに、ひっそりと佇む弁天碑に祠を作り、祭祀を行い、社会の福祉に貢献した村人数名の顕彰碑で知ることが出来る。又、千葉家が隆盛時代、千葉常胤の六男胤頼の館が存在し、爾来この地を吾妻台と呼ばれる。」

千葉常胤の六男は、東六郎大夫胤頼と呼ばれ、この「東」が「吾妻」となっている。ただ、胤頼の領地は、先に述べたように香取市小見川から東庄町、銚子市周辺であったことから、ここからはかなり離れている。

弁財天は、水の神として信仰されているが、千葉妙見をめぐる神仏は、水に縁が深いとされる。千葉氏の守護神が、先の通町公園の「出世弁天」と同じように、ここ千葉公園の弁財天にも及んでいるのだろうか。

巖島神社・鳥居

巖島神社

巖島神社・狛犬

巖島神社・狛犬

巖島神社

巖島神社・摂社

巖島神社・弁財天の石碑

千葉公園の外れ、忠霊塔に入る道の脇に、小さな祠があった。中の石像は赤い帽子と前掛けを付けているので、てっきりお地蔵さんと思ったが、よく見ると、独鈷と数珠を持っているので弘法大師像であろうか。祠の横には「弘法大師1150周年記念供養塔」という石碑が建てられている。この石碑は1984昭和59年ごろに建てられたのだろう。こうした小さな祠にも、人々の信仰を見ることができる。

小さな祠・弘法大師1150周年記念供養塔

小さな祠・弘法大師像?


今回は訪れることはできなかったが、自分が通った登戸(のぶと)小学校の前に登渡神社(とわたり)がある。自分たちは登戸(のぶと)神社と言っていた。お祭りの時には屋台が並び、綿菓子や型抜き、といって数センチ四方の中に花などの絵柄を針の先などでくりぬき、割らずに成功すると景品がもらえるものをやった覚えがある。

この登渡神社も千葉氏と関係があるという。由緒によれば、1644年に、千葉氏の系譜につらなる、登戸権介平定胤(33代目当主)が祖先を供養するため千葉妙見寺(現在の千葉神社)の末寺、白蛇山真光院、通称登戸妙見寺として妙見大菩薩を安置したのがそのはじめであると伝えられている。その後、やはり明治の神仏分離に伴い、社号を登渡神社と改めた、とされる。

(参考):

『千葉一族の歴史』鈴木佐 編著 戎光祥出版 2021

登渡神社・御祭礼2023/9/5(友人のフォトアルバムより)

千葉公園で大賀ハスなどを見たあと、千葉市美術館から千葉神社に寄ってきました。千葉神社には、その昔には、家族で参拝に行った思い出があります。その時の社殿は、いまは隣にある千葉天神社となっていました。千葉神社のお祭り、そして登戸神社のお祭りにも思い出があります。

この機会に、いまさらですが、千葉氏の歴史を知り、東北は、相馬野馬追や、新渡戸稲造も千葉氏の系譜であり、九州には、蒙古襲来の戦から肥前(佐賀)にも千葉氏の系譜があることに、千葉出身者として何か嬉しくなるような気持になりました。

千葉駅に戻って、帰宅しました。充実した一日になりました。

千葉モノレール

千葉駅前の交番

JR千葉駅前


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