2026年2月19日木曜日

東京異空間401:もっと浮世絵で行こ!@ふるさと文化館~小林清親

 

もっと浮世絵で行こ!@ふるさと文化館

歌川国芳に続いて、練馬区立美術館所蔵の小林清親の作品を観ていきます。

月岡芳年や河鍋暁斎などと並び、「最後の浮世絵師」と呼ばれた絵師の 1人である小林清親は、輪郭線を用いずに光と影を用いて明暗を強調する、「光線画」という風景画で知られていて、「明治の広重」とまで評されています。また、ポンチ絵や戦争絵も手掛け、数々の作品を世に送り出しています。

1.小林清親の略歴

清親は、1847(弘化4年に江戸の本所で生まれた。9人兄弟の末っ子で、幼名は勝之助。父の茂兵衛は徳川幕府の幕臣であった。 1862(文久2年、15歳の時に父が亡くなると、元服して家督を継ぎ、名前を勝之助から小林清親と改める。

幕臣となった小林清親は、1865(慶応元)年、14代将軍・家茂の「第二次長州征伐」に随行した。また1868(慶応4)年には、15代将軍・慶喜の下で鳥羽・伏見の戦いにも参加。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れたことで、江戸城の無血開城、江戸幕府の終焉へとつなが

清親は、その後「彰義隊」に参加し、新政府軍との間で発生した上野戦争にも加わった。江戸幕府がなくなると、母・ちかと共に徳川慶喜らを追って静岡に移住した

1874(明治7)年、27歳の時に母が亡くなり、それを機に、清親は東京に戻り、画業で身を立てるために活動を本格化させた。幕末期に記者として来日したイギリス人の風刺画家であるチャールズ・ワーグマンに師事していたという説があるが、明確な根拠があるわけでなく、むしろ、ワーグマンの影響下にあるとしても、ほぼ独学であったといわれる。また、河鍋暁斎、柴田是真、淡島椿岳、写真家・下岡蓮杖などとの交流もあり、それぞれから画技を修得したともされる。

上京して3年後の1876(明治9)年、浮世絵師としてデビューする。

小林清親肖像写真 




伝・下岡蓮杖 小林清親肖像写真



清親自画伝 

清親が最晩年66歳頃に生涯を振り返り、墨一色で描き止めた自画伝。誕生に始まり、江戸城開城後の後始末に奔走する青年の姿で完結している。



小林清親自画像 

清親晩年の自画像で、水彩で描かれている。




 

清親が実際に着用していたと伝わる裃。抱き茗荷の家紋は小林家の家紋である。江戸を生きた武士であることが感じられる。




(1)光線画(風景画)

デビュー作となったのは、東京五大橋之一 両国真景東京江戸橋之真景

その年には小林清親の代名詞とも言える「光線画」の表現で描かれた「東京名所図」が同じく出版され、人気を獲得した。

東京五大橋之一両国真景  



《東京江戸橋之真景》

石橋に架け替えられたばかりの江戸橋や近代的な建物の描線が西洋風に描かれる一方で、手前には和装の女性が描かれるなど、明治の開化期の風景。



《東京新大橋雨中図》

「光線画」として好評を得た最初の5枚のうちの1枚で、刻々と変化する空の気配、隅田川の水面に映った橋や船の微妙な影の動きなど巧みに表現している。



(2)ポンチ絵(諷刺画) 

その後、清親は「光線画」を封印し、新聞の挿絵を活躍の場とし、社会風刺の効いたポンチ絵を描いた。その背景には、幕臣であった清親にとっては、薩長藩閥による明治政府を批判的に見ていたということがあるとされる。




(3)戦争絵

また、同時期に日清戦争が始まると、戦争画の注文も多く手がけるようになった。日清戦争を題材とした《於黄海我軍大捷》は、1894年に発生した黄海海戦における日本海軍の勝利を描き、日清戦争における日本側の奮闘を伝える文章が記されている。日露戦争の際にも、戦争画は描かれたが、このときには写真報道が主流となり、日清戦争時ほどのブームには至らなかった。

《於黄海我軍大捷》1894(明治27)年


風景画・名所画から画家としてのキャリアを始めた清親は、ポンチ絵(諷刺画)、戦争絵など幅広いジャンルを手掛け、また光線画といわれる、遠近法、陰影法、明暗法など西洋絵画の技法に取り組み、晩年は英国で出版されたの「アラビアンナイト」を模写するなど、あくなき探求心を貫いた。

幕臣として生きた期間が長いため、浮世絵師としてのデビューは遅咲きであったが、その最期まで画業とともに生きた生涯であった。1915(大正4)年に、68歳でこの世を去る。

2.小林清親の作品

(1)名所絵・風景画

1876(明治9)年から14年に亘って出版された「東京名所絵」のシリーズは、光と影を巧みに描き、これまでの浮世絵とは異なる表現を生み出し「光線画」と呼ばれている。

これらは、江戸時代にもお馴染みであった名所に加え、機関車が火の粉を上げ、電信線が空を走り、ガス灯が夜を照らすといった近代化していく東京の街を描いている。

東京橋場渡黄昏景 1876(明治9)年

橋場の渡しは1914(大正3)年に白鬚橋が架かるまで、浅草の橋場から向島の寺島まで、隅田川を結ぶ大切な渡しであった。夕日を浴びてキラキラと輝く水面、船と人々の影が幾つもの色版で表現されている。





高輪牛町朧月景 1879(明治12)年 

1872(明治5)年に開通した鉄道が高輪築堤の上を走る様子。手前にも遠景にも海面が広がり、夕暮れに煌めく光、機関車の煙突からの赤い火の粉が勢いよく上がる。





東京両国百本杭暁之図 1879(明治12)年

隅田川は水量豊富な川で、とくに両国辺りは湾曲がきつく、流れが急なため、両国橋の北側あたりにはたくさんの木の杭(千本杭、百本杭と呼ばれる)を打ち、水流をやわらげ、川を守った。この様子は隅田川の風情として人々に親しまれ、浮世絵によく描かれた。






小梅曳舟通雪景 1879(明治12)年

隅田川東岸、向島の小梅村に流れる農業用水路、曳舟川の土橋、その雪景を描いている。

画面全体が黄色くテカっているのはニス引きと呼ばれる仕上げをしたため。当初はもっと透明感があり、油彩画のような効果を醸し出していた。





湯島元聖堂之景 1879(明治12)年 

湯島聖堂は、5代将軍・綱吉によって建立された孔子廟。明治初期には、幕府直轄の学問所から日本初の官設博覧会(1872年)の会場として新しい文化の発信地となる。タイトルに「元」とあるのは当時の行政上の名称変更や、かつての幕府の聖地としての面影を惜しむニュアンスが含まれているという。

聖堂前の相生坂を行き交う人々を描く。坂の下には、眼鏡橋こと、万世橋が見える。聖堂の築地塀と木々の緑、そして高い電柱が対比されている。






上野東照宮積雪之図 1879(明治12)年 

画面中央には和傘を差して歩く女性と一匹の犬が描かれ、モノトーンに近い雪景色の中に鮮やかな生命の鼓動を添えている。背景には、徳川家康を祀る上野東照宮の石灯籠や大鳥居が雪に埋もれるように佇み、江戸の面影を残す聖域の尊厳が漂っている。上野戦争では寛永寺の多くの堂宇が焼失したなか、東照宮は難を逃れた。幕臣であった清親は、この戦争に物見役として居合わせている。かつての名残りある場所に、降り積もる雪は、清親の絵師としての想いが込められているようだ。





江戸橋夕暮れ冨士 1879(明治12)年 

手前の江戸橋は、1875(明治8)年に西洋風の石造アーチ橋に改築された。画面左の松の陰から漏れるガス灯の明かりや、水面に揺れる民家の灯火が、薄暗い夕闇との対比で強調されている。

画面中央には、そびえる富士山のシルエットと、その傍らに広がる大きな入道雲。右下には人力車を引く男のシルエットが配置され、詩情漂う水辺の景観である。

「ガス灯」という文明開化の象徴と、古くから変わらない「富士山」や「川岸の舟」が共存しており、変わりゆく都市への郷愁と新時代の息吹が混ざり合った独特の抒情性が漂っている。





川崎月海 1879(明治12)年 

夜の川崎の海を舞台に、4隻の外国の軍艦(帆船)が停泊している様子が描かれている。画面中央に、 雲間から覗く月光の黄色い輝きが海面に反射し、波間に美しく映し出される様子が繊細に捉えられている。また、軍艦から放たれた空砲(礼砲)と思われるオレンジ色の閃光が夜の闇を鋭く照らしており、光と影の強いコントラストが強調されている。





九段坂五月夜 1880(明治13)年 

招魂社(現・靖国神社)を左手に見て、九段坂下を望む景色。画面左の常燈明台は1871(明治4)年に奉納された灯籠で、東京湾の漁船にとっての燈台の役割も果たしていたという。雨夜の闇の中に灯明と人力車の車夫や行き交う人々が手にする提灯が発する光が浮かび上がる。





大森朝乃海 1880(明治13)年

大森海岸は昭和30年代まで、およそ250年間に亘り、海苔の養殖が盛んに行われていた。二人の女性がヒビと呼ばれる雑木の枝を立て、そこに付いた海苔をベカ船に乗って採っているところ。遠景には、お台場や湾に停泊する帆船が見えている。





常盤橋内紙幣寮之図 1880(明治13)年 

明治9年に大手町の近く、常盤橋に建設された洋館の紙幣寮(国立印刷局)の工場を描いたもの。赤煉瓦で屋根に鳳凰像を頂く偉容のある建物。前面の道路に林立するのは電信線を繋ぐ電信柱で、明治2年には東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まった。大蔵省、内務省へと続く道路の描写に遠近法を扱う。





両国花火之図 1880(明治13)年

江戸時代、隅田川の川開き初日に花火が打ち上げられた。明治時代には両国以外にも花火が打ち上げられ大型で色彩の変化に富む花火になったという。清親の描く花火は打ち上げや炸裂する光の軌跡は描かず、闇を包み込む大きな光の半円を中央に描き、打ち上がった花火の放つ光により、輝く水面とシルエットとなって屋形船に乗る人々の姿に視点を誘導している。






従箱根山中冨嶽眺望 1880(明治13)年

箱根街道から愛鷹山と富士山を望む景色。輪郭線を用いずに淡い色面で構成されている。新文明である電柱は富士山より高く描かれる。しかし旅人の姿は籠に乗り江戸時代のよう。






第二回内国勧業博覧会内美術館噴水 1881(明治14)年

画面奥に描かれるのは、上野で第二回内国勧業博覧会の時に建てられたジョサイア・コンドル設計の博物館である。能楽の「猩々」をテーマにした酒甕から水が湧き出る噴水は、人気となり、「噴水の人物大きなれど版元の執心応して筆」と画中に清親が書く通り、実際よりも大きく描かれた。






日本橋夜 1881(明治14)年

日本橋の夜の賑わいを描いた作品。日本橋は1872(明治5)年に火災で焼け落ちたため、洋風の木橋が再建された。3車線で左右が歩道、真ん中が車道で人力車や馬車が走っていた。ガス灯が灯り、新しい乗り物が行き交う風景が描かれる。





亀井戸藤 1881(明治14)年

亀戸天神は、梅と藤の花の名所として江戸時代から親しまれ、歌川広重をはじめとする浮世絵の画題として用いられている。藤棚の下の池には鯉が泳ぐ。





大伝馬町大丸 1881(明治14)年

大伝馬町一帯は木綿や生地を扱う問屋が軒を並べ、なかでも1743(寛保3)年に開店した大丸呉服店はこの地を代表する大店であった。清親は、昔変わらぬ大丸店の外観を描く一方、洋傘や人力車、電柱といった文明のアイテムを画面に入れ込み時代の変化を表わした。画面右には、*「千金丹」の旗をもった薬の行商の一行が通り行く。

*「千金丹」は、江戸時代に対馬藩を経由して朝鮮半島から伝わったとされる和漢薬(胃腸薬) 。全国的に人気を博し、狂言に取り入れられるほどの独特な宣伝方法で知られていた。





隅田川中洲水雷火 1881(明治14)年

明治14年に隅田川の中洲付近で行われた、海軍の軍事演習(あるいは実験)で行われた水雷の爆発シーンを描いている。 爆発の瞬間に、水煙が吹き上がった様子を捉えている。





浅草寺年之市 1881(明治14)年

浅草寺の歳末行事、歳の市を描いている。仁王門と五重塔が遠くに霞んで見える。提灯の明かりが明るく闇を照らし出し、仲見世は大勢の人々で賑わう。画面の手前には、洋館、ガス灯、そして高い電信柱が描かれる。





(2)火事場の風景 

明治十四年一月廿六日出火 浜町より写 両国大火 1881(明治14)年

明治14年の両国の大火は、明治期最大の被害と言われ、神田・日本橋から隅田川を渡り本所、深川地域までを焼き尽くした。

清親は自分の家が燃えていることにも構わずに、火事現場の様子をスケッチし、それをもとにこの作品を完成させたという。この絵は、火事や戦争などの出来事を素早く伝える報道としての側面もあった。

「写」とあるのは、同じ場所を描いた過去のスケッチをもとに、炎が両国橋を超えた劇的瞬間を創造して、臨場感を演出したものだという。







明治十四年一月十六日出火 両国焼跡 1881(明治14)年

十六日は、二十六日の誤記とする説がある。ガス灯に火が灯されているので夕方の鎮火直後の様子か。瓦礫の中、亡霊のようにさまよう人影、低くたなびく青い霞が虚無感を深める。





清親は、この大火を題材に、上の二点のほかに下の二点、計四点制作している。

明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋 



明治十四年二月十一日夜大火 久松町ニ而見る出火 



(3)新しい技法・水彩画

清親の描いた水彩スケッチは、光線画を制作した画業を始めた初期から最晩年までにわたって制作されている。清親は、この水彩の技法を英国人画家・チャールズ・ワーグマンから学んだという推測がされている。ワーグマンは、日本人に初めて洋画を教えた人物であり、高橋由一、川上冬涯などが油彩画を学んだ。清親は、日本水彩画の先駆者のひとりと評価される。

清親にとって、水彩スケッチは画家として不可欠の要素であった。初期には、水彩スケッチとともに、光線画と呼ばれる新しい技法を展開したが、最晩年に描いた「アラビアンナイト」は英国で出版された本をいち早く入して、水彩により、正確に模写したものである。

写生帖 鉛筆・水彩

清親の写生帖は20冊ほどあったといわれるが、10冊が現存している。光線画といわれる「東京名所絵」のもととなったスケッチがこの中に散見される。例えば、先に見た「九段坂五月夜」「両国大火」など。






三囲神社 1903(明治36)年 水彩

三囲神社は、向島にあり、近江国三井寺の僧源慶が改修した際、土中から白狐にまたがる神像を発見し、その周りを白狐が3回まわって姿を消したという伝承から「三囲」の名が付いたという江戸時代、越後屋(現・三越)が守護神とした際、三井の「井」が「囲」の中にあることから「三井を守る」として厚く信仰された。 




梅若神社 1903(明治36)年 水彩

隅田川東岸に位置する梅若神社は、謡曲『隅田川』で知られる梅若丸の伝説にゆかりのある場所。

もともと梅若丸を弔う塚に始まる木母寺(もくぼじ )であり、明治に入ると、神仏分離に伴い、「梅若神社」となった。




枕橋 1903(明治36)年 水彩

枕橋は、本所あたりの隅田川にかかる橋。




アラビアンナイト 宮殿 甕 1912-15(大正元-4)年

清親が最晩年に描いた水彩画。英国の挿絵画家、ルネ・ブルが描き1912年に英国で発行された『アラビアンナイト』を写したもの。発刊早々に入手して丹念に模写したもので、最晩年まで衰えない、あくなき好奇心が窺える。





小林清親の生涯をふりかえると、前半生は、江戸から明治へという大きな時代の転換期において、刀を筆に持ち替えて、浮世絵師として新たな技法、新しい表現を追求していった。後半生は、清親の浮世絵は人気を得るものの、浮世絵自体の衰退に向き合わねばならなかった。それは、「最後の幕臣のひとり」であるとともに「最後の浮世絵師のひとり」の姿であった。

(参考):

『別冊太陽 小林清親』 吉田洋子監修 平凡社 2015


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