| 歌川芳藤 五十三次之内猫之怪 |
先に、「もっと浮世絵で行こ!」展のうち、歌川国芳と小林清親の作品を観てきましたが、その他の展示作品のうち、「遊び絵」や「諷刺画」といわれる作品を見ていきます。
葛飾北斎 六歌仙 1810(文化7)年頃
『古今和歌集』の序文に記された6人の代表的な歌人・六歌仙を描く。それぞれの衣装の輪郭線は「文字絵」になっていて、六歌仙の名前が隠されている。しかし、解説図を見ても、なかなか隠された文字を見つけるのは難しい。
六歌仙 文屋康秀
六歌仙 大伴黒主
六歌仙 小野小町
六歌仙 喜撰法師
六歌仙 在原業平
六歌仙 僧正遍照
歌川芳藤 子猫を集め大猫とする 1850(嘉永3)年頃
国芳の弟子、芳藤の作。「猫の子の子猫を十九あつめつつ大猫とする画師のわざくれ」と記されている。「わざくれ」とは「いたずら」を意味する。
歌川芳藤 五十三次之内猫之怪 1850(嘉永3)年頃
東海道の宿場町の一つである「岡崎」には、古寺に住む化け猫が若い娘を食らうという伝説があり、本作はその不気味さとユーモアを同時に表現している。また、当時人気のあった風景画などのパロディ(遊び絵)ともなっている。
歌川貞景 五子十童図 1833-40(天保年間)頃
「此図ハ古今に無図にて子供五人の頭にて四方より見れバ十人に成也」と説明書きがある。たしかに見方により、5つの頭で10人の身体が見える。
中国の新時代に制作された年画の影響を受けた構図で、子供がつながり子孫が繫栄していくことを表わているという。
三代歌川広重 幼童遊び子をとろ子をとろ 1868(慶應4)年
「子をとろ子をとろ」は鬼ごっこの一種だが、これは戊辰戦争の諷刺となっている。右が薩摩を先頭とする官軍、左は会津が先頭の幕府側だとされる。後ろのお姉さんは皇女和宮、官軍の最後尾が「がき大将の長松どん」は長州で、背負われているのは明治天皇であると。
歌川国輝 かわりけん 1847(弘化4)年
1847(弘化4)年に信州・善光寺平で起きた地震の際に出版された鯰絵。江戸時代には、大鯰が暴れて地震が起きると信じられていた。安政の大地震の際の鯰絵では、鯰の抑えは鹿島大明神だが、この図では、善光寺の本尊、阿弥陀如来となっている。
善光寺の阿弥陀如来に髭を掴まれた鯰男が、女と拳(じゃんけん)をしている。 「かわりけん」とは「変り拳」で、江戸時代に大流行したお座敷遊びで、手の形で勝負を競うもの。画の上部の文章は右頁が「とてつる拳」という 拳唄 の替え歌で左頁には災害の様子が記されている。
「鯰絵」は、単に地震の恐怖を伝えるだけでなく、地震によって破壊された江戸が、職人や商人の手によって新しく生まれ変わる(復興)ことへの期待も込められていた。
鹿島神宮に伝わる神話によれば、雷神タケミカヅチと海神フツヌシが「要石」を大地にうちたてることにより、大鯰を鎮めたとされる。これは、大鯰(動くもの)と要石(不動のもの)を統合することで、秩序をもたらしたことを意味するという。 実際に鹿島神宮に行くと、「要石」の実物が見られる。
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| 鹿島明神が鯰を抑える図 |
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| 「大鯰石像」鹿島神宮 (2020年12月撮影) |
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| 「要石」鹿島神宮 (2020年12月撮影) |
歌川広景 江戸名所道戯尽 十五 霞が関の眺望 1859(安政6)年
坂の手前で、馬が暴れたのか、積み荷の桶が倒れて中身がこぼれ、馬のわきにいる武士たちが、臭そうにしている。こぼれたのは下肥(糞尿肥料)で、農民がこの付近の武家屋敷で入手し、畑の肥料にするため地元に運ぶ途中の出来事のようだ。
広景の「江戸名所道戯尽」は、 師匠である歌川広重の『名所江戸百景』などの構図をパロディ化し、見る人を笑わせる工夫がなされている。
歌川広重『名所江戸百景』「霞かせき」
当時の霞が関は、大名屋敷が立ち並ぶ高級住宅街で、海を見渡せる景勝地であった。描かれているのは正月の風景、画面右手前には大きな門松、そらには凧が幾つも上がっていて、遠景は江戸湾に浮かぶ帆船が浮かぶ。
広重が正月の清々しい景色を描いた、その場面を、広景は、構図、遠景の江戸湾などはそっくりだが、画面中央に、馬がひっくり返り人々が混乱する様をユーモアたっぷりに描く。
(参考):
『ヘンな浮世絵 歌川広景のお笑い江戸名所』日野原健司 平凡社 2017年
先に見た歌川国芳の浮世絵もそうだが、これらの機知に富んだ浮世絵は、江戸の人々の、洒落、風刺、笑い、パロディへのあくなき欲求とともに、新しいものへの好奇心が感じられる。




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