2026年4月20日月曜日

京の寺社10~泉涌寺

 


京の旅、4日目は泉涌寺に行きました。タクシーで門前に着きましたが、大門はまだ開いていませんでした。周りを少し歩いて、9時の開門を待ちました。

泉涌寺には、以前にも訪れたことがありますが、今回のお目当ては「大涅槃図」、ちょうど今日(3月11日)からの公開です。

1.泉涌寺

(1)由緒

空海が庵を結んだ地に、855年、左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称したのが始まりとされる。

1218年、俊芿律師が宇都宮信房からこの地を寄進され、本格的な伽藍造営に着手した。その際に清水が湧き出たことから「泉涌寺」と改めた。

俊芿(しゅんじょう、1166―1227) は肥後国に生まれ、若くして仏門に入り、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗を究めて帰国した。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律(ほっきょうりつ)の祖と仰がれた。 亡くなった後には「月輪大師(がちりんだいし)」という諡号(おくりな)を贈られている。

俊芿律師


(2)「御寺(みてら)」

大門の前にも大きく「御寺泉涌寺」と刻まれた石碑が置かれているが、泉涌寺は、次のような経過をたどって、皇室の「御寺」と呼ばれるようになる。

1242年、四条天皇が12才で崩御されると葬儀が泉涌寺で執り行われた。これを機に、後堀河天皇と四条天皇の陵墓が寺内に築かれ、皇室の菩提寺としての役割が定着した。泉涌寺で四条天皇の葬儀が執り行われることになった要因として、次のことが挙げられる。

泉涌寺は後鳥羽天皇、九条道家などが外護者であったが、四条天皇の摂政が九条道家であったことから強いつながりがあった。

律宗の僧侶は死、すなわち「ケガレ」を忌避しなかった。律宗は「戒律」を重んじるという「生き方」を大切にするため、死という「けがれ」とは距離を置く歴史的・教義的背景があった。 俊芿は、中国から当時の最先端の仏教である「北京律(ほっきょうりつ)」(南都の律に対し)を日本に持ち帰ったが、これには、土葬を基本とする新しい儀礼体系が含まれていた。それまで長く火葬が続いていたが、天皇在位中の崩御に伴い過去の桓武天皇などの例から土葬が行われるようになった。

四条天皇は幼くして即位し、12歳で在位のまま亡くなる。その幼い天皇が「自分は俊芿の生まれ変わりである」と口にしていたという話が広まっており、崩御後に他の有力寺院が幕府への忖度から葬儀を断る中、泉涌寺がその重責を引き受けた。四条天皇も在位中の崩御であり、土葬にされた。

その後、南北朝時代から安土桃山時代にかけて、さらに江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至るまで、歴代天皇の葬儀が泉涌寺で営まれた。

明治時代に入ると、神仏分離が行われ、神道が国教となり、天皇の葬儀等も仏教でなく神道で行われるようになる。

いっぽうで、政府の命により各地に散らばっていた歴代天皇の位牌が泉涌寺の霊明殿に集約され、皇室唯一の菩提寺、すなわち「御寺」となっていった。

(参考):

『天皇墓の政治民俗史』 岩田重則 有志舎 2017

(3)建物

俊芿律師は、泉涌寺の創建に当たり、留学して学んだ宋の寺院の規範に倣った伽藍を理想とした。三門閣、大仏殿、講堂などが回廊で結ばれる大伽藍が建設されたとされる。しかし、応仁の乱など創建以来幾たびも戦火にあい焼失した。大規模な再建が行われたのは、1664年、後水尾天皇の帰依により、四代将軍・徳川家綱の全面的な支援により行われ、現在とほぼ同じ寺観が整えられた。しかしその後、明治時代にも火災により霊明殿などが焼失したが1884(明治17)年に宮内省により再建された。

大門

慶長年間(1596-1615年)に京都御所の南門を移築し、伽藍の最も高い位置に建つ。 この大門をくぐると、坂の下に仏殿が見える「下り参道」という珍しい配置になっている。これは、修行に適した盆地の底に本堂を建てるという思想に基づいているという。



楊貴妃観音堂・心照殿

1575年(天正3年)に織田信長によって建立されたと伝えられている。安置されている楊貴妃観音像は、1255年に俊芿の弟子・湛海(たんかい)が南宋から日本へ持ち帰ったものとされる。

この像は、唐の玄宗皇帝が亡き楊貴妃を偲んで造らせたという伝承があり、極彩色が残る華やかな宝冠や、ふっくらとした美しい顔立ちから「楊貴妃観音」と呼ばれる。

観音堂の横には、心照殿という寺に伝わる文化財を収めている宝物館がある。








泉涌水屋形・清少納言歌碑

泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、1668年に仏殿と同時期に再建された。泉水はいまも尽きることなく湧き続けているという。

屋形の隣に清少納言の歌碑がある。

この地(東山月輪)は清少納言の父・清原元輔の邸宅があった場所であり、また彼女が仕えた藤原定子の陵墓も近いため、彼女が晩年を過ごした地と推定されている。

歌碑には、小倉百人一首にも選ばれた、清少納言の代表的な一首が刻まれている。

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
(夜が明けないうちに、鶏の鳴き真似で人を騙そうとしても、あの逢坂の関は決して通しませんよ = 私の心はそう簡単に許しませんよ )






仏殿

1668年(寛文8年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱によって再建された本堂で、唐様(禅宗様)建築の代表作とされる。






手前は舎利殿、奥が仏殿



本尊は「三世仏」といわれ、 高い須弥壇に、阿弥陀如来(過去)・釈迦如来(現在)・弥勒如来(未来)の3体が安置されている。この三世仏が揃う形式は国内では非常に珍しいものだが、 俊芿が留学していた宋時代寺院に流行していた形式とされる。天井に描かれた「雲竜図」壁に描かれた「飛天図」、「白衣観音」は狩野探幽の筆になる。







舎利殿

慶長年間(15961615年)に京都御所の建物を移築・改装したもので、寛永年間に現在の場所へと移された。

釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する。俊芿律師が熱願し、その弟子・湛海(たんかい)が1228年に中国(南宋)から持ち帰った。

舎利を守護する「韋駄天(いだてん)立像」と「月蓋(がつがい)長者像」が安置されている。これらは1230念い招来されたものとされ、特に韋駄天像は日本最古級のものである。

通常は非公開となっている。








本坊、御座所、霊明殿

本坊は寺務所や僧侶の生活拠点となる建物。

御座所は天皇や皇族が、霊明殿や境内の御陵へ参拝される際のご休息所として使用される建物。御在所の前には池や雪見灯籠を配置した庭が造られている。

1882(明治15)年に霊明殿炎上とともに焼失し、霊明殿の再建と併行して京都御所の「旧皇后御里御殿」を移築した。

霊明殿は、歴代天皇・皇族の御尊牌(お位牌)をお祀りしている、泉涌寺で最も重要な殿舎。火災により焼失したが、1884(明治17)年、明治天皇の命により宮内省により再建された。 宮中三殿の雛型になったとも言われ、皇室との深い繋がりを象徴する場所で ある。

海会堂は、泉涌寺の本坊内に位置し、歴代天皇・皇族の「御念持仏」30数体を奉安する極めて格式高い仏堂。明治維新の神仏分離の際、京都御所の「御黒戸(御仏間)」にあった仏像や仏具を安置するために、1873(明治6)年に宮中の恭明宮を移築した建物。

なお、 かつての海会堂は泉涌寺で最大規模の本堂建築であったが、現在の建物はその名称を継承したもの。

(参考):

『泉涌寺』古寺巡礼京都27 淡交社 平成20













雪見灯篭







2.大涅槃図

江戸中期の絵師・明誉古磵(みょうよこかん)によって描かれた、縦約16メートル、横約8メートルにおよぶ日本最大級の仏画である。

本来、お釈迦様の命日(旧暦215日、新暦では315日)に合わせた「涅槃会(ねはんえ)」の行事として公開されるが、東日本大震災以降、被災地の復興を祈願して震災の発生日である311日から前倒しで公開されている。ちょうど、その日にめぐり合わせた。

大涅槃図は、あまりに巨大で、仏殿の高さに収まりきらないため、上部は天井に沿って折り曲げ、下部は床に広げるという「コ」の字型で展示される。 この特殊な展示方法により、見上げる頭上には満月が、目の前にはお釈迦様と弟子、信者たちが、そして足元には悲しむ鳥獣たちが描かれた空間に包み込まれるような、独特の没入感がある。










(1)天井部分: 満月の空と沙羅双樹

お釈迦様の入滅は旧暦2月15日の夜、旧暦15日はまさに満月の夜であり、仏教では満月は「悟りの完成」の象徴で、お釈迦様の死は単なる終わりではなく、完全な悟りに至った(大般涅槃)ことを、この巨大な月が強調している。その下に描かれている沙羅双樹は、入滅のときに8本のうちの4本は瞬く間に枯れ、残る4本は栄えるように花咲いたとされ、枯れた木を黄色い葉で表している。これは「 四枯四栄(しこしえい)」と呼ばれ、肉体の死(無常)と、教えの永遠性を象徴している。





(2)垂直部分: 釈迦と弟子、信者たち

釈迦の死を嘆き悲しむ人々を見てみると、五十二衆といわれる、十大弟子、四天王、八部衆、観音、阿修羅などの神仏や弟子たち、国王、さらには一般庶民までがほぼ等身大で描かれている。五十二衆の 52という数字は、すべての生きもの(一切の衆生)を代表しており、釈迦の教えが種族を超えてすべての人や生きものに開かれていることを象徴している。

釈迦







描かれた人物

観音菩薩・阿修羅

左手に蓮華を持つのが観音菩薩 その斜め後ろに多面多臂の阿修羅



②勢至菩薩・弥勒菩薩

 勢至菩薩 は観音菩薩と対で描かれることが多く、合掌している姿で描かれる。

弥勒菩薩は、釈迦の死から567000万年後に現れるとされる未来仏で、宝冠に五輪塔が描かれることがある。

阿那律尊者(あなりつそんじゃ)

画面奥右側で、目を押さえて泣いている年配の人物。天界にいたお釈迦さまの母・摩耶夫人(まやぶにん)を呼び寄せたとされる人物である。


執金剛神

仏法を守護する神の分身で仁王のこと。涅槃図の下部左右に阿行吽行の対で描かれる。 筋骨隆々で力強い姿で描かれる金剛神が、釈迦の死に直面して、武器である金剛杵を握りしめたまま、がっくりと地面に伏して卒倒している様子が描かれている。




龍王(八部衆)

八部衆の一尊である龍王。この人物の肩や背後に龍が描かれているのは、龍族の王であることを象徴している。



疾鬼(そくしつき)

画面手前の速疾鬼。非常に足が速いことで知られる鬼。羅刹(らせつ)とも呼ばれる悪鬼であったが、お釈迦様の教えに触れて帰依したとされている。 「鬼の目にも涙」という言葉のように、恐ろしい姿の鬼までもがその死を深く嘆き悲しんでいる様子が描かれている。


純陀(じゅんだ)

貧しい在家信者であったが、心からの供養を行い、旅の途中の釈迦を自宅に招き、料理を供養したが、その食事が原因で釈迦が病を得て入滅したため、重大な責任を感じていた。釈迦は死の直前に「チュンダの供養は悟りを開いた時の乳粥と同じ功徳がある」と称え、彼を批難から守ったとされる。


優波離(うばり)

画面中、左側、優波離。「持律第一」と呼ばれ、戒律に厳格で理知的な人物でしたが、お釈迦様の入滅にあたっては、このように顔を覆って声を殺して泣く姿で対照的に描かれる。


阿難尊者(あなんそんじゃ)

十大弟子の一人。あまりの悲しみに失神して倒れ込んでいる姿が描かれている。


阿泥盧豆 / 阿那律(あにるづ / あなりつ)
青い頭巾を被り、右手を差し伸べている人物。涅槃図において彼は、悲しみのあまり気絶して倒れ込んだ阿難尊者を介抱し、「お釈迦様の教えは不滅である」と諭す役割で描かれる。 



梵天・帝釈天

女神のような優美な容姿の人物は、仏法を守護する主要な神である。



五部浄(ごぶじょう)・緊那羅(きんなら)

画像上部の、象の冠を被っている神さま。

緊那羅(きんなら)下側に描かれている、一本角があるのが特徴の神さま。美しい声で歌う神とされている。

優婆夷 

在家(ざいけ)の女性信者や天女たち。



鬱婆尸女(うつばしにょ)

画面右端、鬱婆尸女。在家で戒を受けた女性信者。貴人に対する最高の礼として、釈尊の足を拝そうとする姿が描かれる。貧しく、お供えするものが何もなかった彼女は、45年もの間布教のために歩き続けたお釈迦様の足を、感謝と悲しみを込めて一心にさすっている。お釈迦様の足には、彼女が流した涙の跡が消えずに残ったという伝説もある。



摩耶夫人(まやぶにん)の不在

一般的な涅槃図では、空から駆けつけるお釈迦様の母・摩耶夫人が描かれるが、泉涌寺の図には描かれていない 。これは、主に依拠している経典の違いよるとされる。 摩耶夫人を描くのは、『摩訶摩耶経』に基づいたもの。母・摩耶夫人が天界から駆けつけ、嘆き悲しむドラマチックな場面を強調する。いっぽう、摩耶夫人を描かないのは、より古い経典である『大般涅槃経』に基づいたもの。この経典には、入滅の場に摩耶夫人が登場する記述がないため、これに忠実に描くと彼女は登場しない。泉涌寺の大涅槃図は、後者に基づく。

(3)地面部分: 悲しむさまざまな鳥獣たち

描かれた動物等

お釈迦様の入滅を悲しむ鳥獣たち が非常に多く、細密に描かれている。 50種以上の鳥獣、空想の動物などが描かれている。これは、「一切衆生悉有仏性」、すなわち「生きとし生けるものはすべて仏になれる仏性を持っている」という仏教の教えを表している。人間だけでなく、普段は弱肉強食の世界で争い合う動物たちも、お釈迦様の死の前では等しく集まり、その入滅を悲しんでいる姿として描かれている。

迦陵頻伽(かりょうびんが)

仏教において極楽浄土に住むとされる、人頭鳥身(上半身が人間、下半身が鳥)の想像上の霊鳥。非常に美しい声で鳴き、仏の教えを讃え、法を説く存在とされる。



象(六牙の白象)

お釈迦様が誕生する際、母・摩耶夫人の胎内に入ったとされる神聖な動物とされる。お釈迦様の足元付近に大きく描かれている。

唐獅子ライオン

釈迦を象徴する聖獣として描かれる。釈迦の説法が、他のどんな教えも圧倒することを「獅子吼(ししく)」と呼ぶ。

ウマ(馬)・ウシ(牛)・サル(猿)

身近な動物たちも、お釈迦様の入滅を嘆き悲しむ姿で表現されている。

鳥類(クジャク、オウム、カラスなど)

極楽浄土を象徴する鳥(孔雀)から、日常的な鳥までが描かれている。 キジ(雉)は、ゾウと同じく画面下部の足元付近に描かれている。

空想の鳥獣(鳳凰、龍、麒麟など)

この世の理を超えた存在さえも、お釈迦様の入滅に立ち会っていることを示し、お釈迦様がいかに偉大な存在であったかを強調している。

海の生き物(タイ、伊勢海老、ウナギなど)

陸の動物だけでなく、海の生物までもお釈迦様の徳を慕っていたことを示している。

一般的な涅槃図には「猫」が描かれないことが多い。それは、ネズミを追いかけてお釈迦様の薬を落としてしまった、などの説があるためといわれる。しかし、泉涌寺のものを含め、東福寺など一部の涅槃図には猫が描き加えられている。「すべての生き物を救済する」という教えに基づき、猫も涅槃に参列したという解釈がある。









(4)裏書

大涅槃図の裏書には、次のようなことが書かれている。

寄進の目的
「泉涌寺の常楽会(涅槃会)では、仏殿に大涅槃図とともに仏牙舎利を祀り、参拝する人々がお釈迦様との尊いご縁を結んでほしい」という願い。

「この巨大な図を見る者が、お釈迦様と直接ご縁を結び、迷いの世界から救われるように」という、浄土宗の僧であり画僧でもある明誉古礀 の切実な祈りが込められている。

制作の経緯・記録

この巨大な絹本を完成させるために費やした年月や、協力者への感謝、そして彼自身の信仰告白が綴られている。享保2年(1717年)に完成した際、彼はすでに晩年(65歳)であり、文字通り命を削って描き上げた「遺言」に近い性質を持っていた。
文末にある「享保三年 仏降誕日 前住古洞上人」という署名から、寄進を受けてこの記録を記したのは、当時の泉涌寺の長老であった古洞上人である。日付の「仏降誕日」はお釈迦様の誕生日(48日)を指し、1718年のこの日に記された。



沙門古礀の落款

このあと、泉涌寺の塔頭のいくつかを訪れました。

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