2026年10月26日月曜日

函館を歩く3~五稜郭


五稜郭タワー

五稜郭跡

函館の人気観光スポットNo1の函館山の夜景に次いで、人気の五稜郭に行ってきました。五稜郭を上から眺められるタワーに上り、その後、五稜郭跡の箱館奉行所を見学しました。

1.五稜郭タワー

五稜郭タワーは、1964年(昭和39年)に五稜郭築城100年を記念して初代タワー(高さ60m) が誕生し、2006年(平成18年)に現在の2代目タワー(高さ107m) へと建て替えられた。

(1)展望

五稜郭タワーからは、星形の五稜郭が眺められるとともに、函館が一望できる。

①五稜郭

タワー90mの展望台からは、五稜郭の星形の美しいラインがはっきりと見られ、また五稜郭の中心に造られた箱館奉行がよく見える。








五稜郭の復元模型(1/250スケール)


②函館一望

展望台をぐるりとまわると、函館空港を飛び立つ飛行機や、昨日上った函館山から、その遠望までが見渡せる。

・津軽海峡、空港、函館競馬場、方面





・函館山(334m)、函館港、方面







展望台からの眺め





(2)歴史回廊

展望台には、箱館戦争の歴史を16景のジオラマで解説する展示や、その代表的人物、土方歳三の銅像などが置かれていて、幕末の函館の歴史を垣間見ることができる。

①歴史回廊(ジオラマ)

「五稜郭歴史回廊」には、フィギュアを使った全16景が展示され、ペリーの来航や箱館開港から、五稜郭の築造、箱館戦争の勃発、旧幕府軍の入城、土方歳三らの戦い、そして五稜郭の開城(降伏)と戦後までを時系列で再現している。

16景(ジオラマ)

1.「亜墨利加船箱館来航」



2.「開港場での交流」



3.「北の大地を拓く箱館奉行」



4.「幕末の高等教育 箱館諸術調所」



5.「蝦夷地経営の拠点五稜郭築城」



6.「旧幕府軍 鷲ノ木上陸」



7.「五稜郭入城と箱館占領」



8.「松前攻略 館城の戦い」



9.「旗艦開陽 餌志向に沈む」



10.「蝦夷全島平定 仮政権の樹立」



11.「明治新政府軍 反撃開始」



12.「一進一退の攻防」



13.「箱館総攻撃」



14.「戦時下の赤十字精神」



15.「五稜郭開城 終戦」



16.「静穏」



②土方歳三(1835-1869)

土方歳三は、武蔵国多摩(東京都日野市)の農家に生まれ、天然理心流の道場で近藤勇らと出会い、幕末に「新選組」の副長として活躍したが、 箱館戦争で最期を迎えた。

榎本武揚らと蝦夷地(北海道)へ渡り、箱館・五稜郭で旧幕府軍の指揮を執ったが、1869年(明治2年)、箱館総攻撃の最中に一本木関門付近で銃撃を受け、34歳(または35歳)で戦死した。

展望台の一角に土方歳三の座像が置かれている。 土方は、この展望台から、今の日本をどのような想いで見ているのだろうか?





③1階アトリウムの銅像

2階の展望台の土方像だけでなく、1階のアトリウムには、五稜郭にかかわる3人の銅像などが置かれている。

・土方歳三:長刀を差し、乗馬鞭を持った洋装で、馬上から降り立った凛々しい姿を再現している。





・榎本武揚:フロックコート(洋装)を身にまとい、サーベル(刀)を手に携えた凛々しい立ち姿である。




・武田斐三郎:和装姿で、手には羅針盤や設計図のような書物を持ち、知的な学者・技術者としての雰囲気を醸し出している。





・「若き星たち」:五稜郭に行く手前にあるブロンズは、幕末の戊辰戦争(箱館戦争)において、日本の未来を夢見て命をかけて戦った新政府軍(官軍)と旧幕府軍の名もなき若い兵士たちを表現したモニュメント



2.箱館奉行所







タワーを降りて五稜郭跡にある箱館奉行所に向かう。橋を渡ると、この五稜郭を設計した武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の顕彰碑が置かれている。彼の英才にあやかろうと、碑の顔を撫でる修学旅行生や観光客が絶えないことから、その顔の部分だけがピカピカに光り輝いている。



(1)武田斐三郎(1827- 1880)

①生涯

1827年(文政10年):伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)の藩士の家に生まれる。

青年期(修学時代):大坂(大阪)の緒方洪庵の「適塾」で蘭学・医学を学び、塾頭を務める。その後、江戸で伊東玄朴に師事し、さらに佐久間象山のもとで西洋の兵学、砲術、航海術、築城術を修める。

1853年(嘉永6年):ペリー艦隊(黒船)が浦賀に来航した際、師の佐久間象山らとともに現地へ赴き、調査・見聞を行う。

1854年〜1864年:幕府の命により蝦夷地(北海道)へ赴任。「諸術調所」の教授として山尾庸三や前島密などの人材を育成。同時に五稜郭や弁天台場の設計・建設を指揮する。

明治維新後:新政府に出仕。開成所(現・東京大学)の教授や陸軍大佐、初代陸軍幼年学校長などを歴任し、陸軍士官学校の創設・開設に尽力する。

1880年(明治13年):病のため54歳で死去。



②なぜ星形なのか?

五稜郭は、外国からの防備や役所の移転を目的として、幕末の1864年に江戸幕府が蝦夷地に築いた日本初の西洋式星形要塞である。これは中世ヨーロッパで発展した「稜堡式(りょうほうしき)」という構造で造られた、

武田斐三郎はフランスなどの西洋の築城書(蘭書)わずか一冊を頼りに、ほぼ独力で設計を進めた。大砲の技術が進歩していた当時、従来の日本の城(四角い石垣や高い天守閣)は、大砲の的になりやすく、死角も多いという欠点があった。これに対し、星形の形状を持つ五稜郭は次のような利点を持つように設計された。

死角をなくす: 星の尖った部分(稜堡)同士が互いをカバーし合えるため、攻めてきた敵をどの角度からでも側面から狙い撃ちにできる。

砲撃の衝撃を逃す: 土塁を低く、傾斜を持たせて厚く造ることで、敵の砲弾の衝撃を吸収・受け流すことができる

1857年(安政4年)に工事が始まったが、当初斐三郎が計画した「二重の堀と総石垣造り、5箇所の台場」を縮小し、「一重の堀と土塁」へと変更し、着工から約7年をかけた1864年(元治元年)に完成させた。

しかしながら、後にこの五稜郭は、皮肉にも幕府の崩壊に伴う「箱館戦争」の舞台となり、榎本武揚や土方歳三らが率いる旧幕府軍の拠点として歴史にその名を刻むことになった。

(2)箱館奉行所の歴史

五稜郭の中に建てられた箱館奉行所は、次のような変遷をたどっている。

第1次設置(1802年〜1821年):

ロシア帝国の南下政策への警戒から、江戸幕府が享和2年(1802年)に箱館山(元町)のふもとに設置した。その後、文政4年(1821年)に松前藩へ返還され一度廃止される。

第2次設置(1854年〜):

ペリー来航や日米和親条約締結を受け、安政元年(1854年)に再設置され、外交交渉、蝦夷地の統治、沿岸警備を担当した。

箱館山(元町)の麓にあった奉行所


五稜郭への移転(1864年竣工):

元町の旧奉行所は外国軍艦からの砲撃に対して防衛上不利だったため、内陸の亀田村柳野(現在地)へ移転が計画された。

武田斐三郎の設計による西洋式の稜堡式城塞である五稜郭が築かれ、文久2年(1862年)に着工、元治元年(1864年)に箱館奉行所の新庁舎が完成・業務を開始した

箱館戦争(1868年〜1869年):

明治元年(1868年)、戊辰戦争の最終局面となる箱館戦争では、榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭を占領し、箱館奉行所を拠点とした。

明治2年(1869年)の新政府軍による総攻撃を経て旧幕府軍が降伏し、箱館奉行所はその戦火の中で大きく破壊された。

解体(1871年):

明治4年(1871年)、旧幕府の象徴として大半が解体され、建材の一部は遊郭などに転用された。誕生からわずか7年ほどの短い幕引きであった。

復元工事と公開(2010年):

古写真や文献資料、当時の実測図面を元に調査・検討が重ねられ、平成18年(2006年)に着工。平成22年(2010年)に、当時の建物の約3分の1の規模(大広間や役所の詰所など)が忠実に復元され、一般公開された。





井戸跡

大広間

大広間

一之間・違い棚



土塁


奥・ブラッケリー砲、手前・クルップ砲









五稜郭を巡って、幕末の激動する時代を感じることができました。榎本武揚や土方歳三については、よく知られていますが、とくに五稜郭を設計した武田斐三郎について興味深く知ることができました。

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