2024年6月7日金曜日

東京異空間206:鳥居清長展と「回向院と美術文化」

 

回向院で開催された鳥居清長展に行ってきました。6月1,2日の2日間のみ行われる展覧会です。昨年の展覧会にも行きましたが、今年は、安村敏信氏の講演会もあることから初日の6月1日に行ってきました。

(参照);

東京異空間119:鳥居清長展~回向院2023610

1.回向院と鳥居清長

回向院については、昨年のブログでも書いたが、明暦4年(1657)に起きた「振袖火事」ともいわれる明暦の大火により10万人以上が亡くなったとされ、その多くは身元や身寄りのわからない人々であったことから、時の4代将軍・家綱が「万人塚」という墳墓を設け、法要を営むためにこの寺を建てたというのが始まりとされる。その後も安政の大地震、関東大震災などで犠牲となった、多くの無縁仏を供養するための石碑が建てられた。

関東大震災の供養塔

万人塚

力塚

正門

回向院で鳥居清長の展覧会が開かれるようになったのは、清長の墓所が回向院であったからだという。しかし、墓石は、関東大震災か、戦災か、いずれにせよ失われていて、過去帳のみにその法名の記録が残されていた。そこで、2013(平成25)年に、清長没後200年を記念して顕彰碑が建立され、また清長の作品の展覧会が開催されることとなった。 今年は、10回目ということで、回向院所蔵の鳥居清長の作品を中心に38点が展示されていた。

鳥居清長展

鳥居清長展

鳥居清長碑

2.回向院と美術文化

安村敏信氏の講演会は「回向院と美術文化」ということで、回向院で江戸時代に行われた、出開帳、見世物、相撲、という三つのイベントとそれに関する美術についての講話であった。安村敏信氏は、板橋区立美術館、北斎館の館長を経て、昨年、2023年、静嘉堂文庫美術館の館長となった。

講演は、それぞれのテーマに沿ったスライドによる映像を見ながら、次の3つのテーマについて説明された。

本堂(講演会場)

本堂(講演会場)

講演会・演題

(1)出開帳

回向院では、何度も出開帳が開かれている。天保91838)年には嵯峨清凉寺釈迦如来開帳が行われている。清凉寺の出開帳については、名古屋で行われた模様を、高力猿猴庵という浮世絵師が、詳細な記録と絵図を残している。高力猿猴庵(1756-1831)は、尾張藩士で、祭り、見世物、開帳など、娯楽や話題になった事件の記録を絵入り本で記し、城下の賑わいを生き生きと描写している。 よく知られているのは、葛飾北斎が文化14(1817)に名古屋へ来て達磨図を描いた際の記録 「北斎大画即書細図」で、120畳敷(縦約18m、横約11m)の紙に大だるまの半身像を描いた。その様子を詳細に記録している。北斎は、その絵の細密さに感心したという。

なお、回向院では、東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご供養と被災地の復興支援を目的として の「善光寺出開帳」を平成252013)年に行っている。

高力猿猴庵北斎大画即書細図名古屋市博物館蔵

歌川国貞「嵯峨ノ釈尊開帳ノ図 回向院境内ノ図」

「江戸名所図会 回向院開帳」

(2)見世物

天保91838)年に回向院の境内で、人形師・泉目吉が様々な変死体を作って見世物とした。女性の生首・獄門晒し首・土左衛門・棺桶の割れ目から飛び出た亡霊の首など、非常にリアルな作りものが高い評判を呼んだという。今でいう、お化け屋敷であったようだ。

万延元年(1860)には、回向院で、松本喜三郎の怪談の生人形が見世物として行われた。松本喜三郎(1825-1891)は、大坂で安政元年(1854)から、江戸の浅草安政2年(1855)から「生人形(いきにんぎょう)」といわれるリアルな人形を作り、見世物として興行をして評判となった。「生人形」は、実際に生きている人間のように見えるほどの精巧な細工をほどこした人形であることからこう呼ばれていた。

こうした生人形は、「美術」という概念から外されていたが、近年、もう一つの美術作品・彫刻として見直されている。2023年には、松濤美術館で展示されており、観ることができた。

(参照):

東京異空間141:美術展「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」を観た2023815


松本喜三郎「谷汲観音像」浄国寺(熊本)

歌川国芳「浅草奥山生人形」手長足長


(3)相撲

回向院で、相撲が行われたのは明和51768)年で、ほかに市ヶ谷八幡、深川八幡、蔵前八幡、神田明神などを巡回した。天明41784)年からは春、冬場所を回向院で行うようになり、天保41833)年以降は、回向院が定場所となる。明治に入り、常設の相撲場所として回向院境内に造られたのが初代の国技館である。角力は国技であることから名付けられたという。現在の新国技館は1984年に完成したもので場所も移されている。

相撲絵は、勝川春章などにより描かれた。門下の勝川春朗は、北斎の若き名であり、力士同士の取り組みを立体的に描いているところは、さすが北斎である。

なお、相撲絵のコレクションとしては、ホテル・ニューオータニの大谷米太郎の二男・孝吉のコレクションがあるという。

ところで、なぜ回向院がこうしたイベントの場所となったのだろうか。それについては、安村氏の講演では触れられていなかったが、次のように考えられる。

まずは、回向院が明暦の大火(1657年)により犠牲となった人々の供養の為にたてられたということ。その後も、安政の大地震(1855年)、関東大地震(1923年)などで亡くなった無縁仏を供養している。

江戸幕府は、こうした慰霊のため、回向院を建て、出開帳などを認めることによって、寺の運営を支援したと考えられる。

また、幕府は、防災対策として両国橋を建設した。それまで、幕府は防備のため隅田川への架橋は千住大橋以外認めなかったが、1657(明暦3)年の明暦の大火では、橋が無かったため、多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人ともいわれる死傷者を出した。このため、「大橋」が1659(万治2)年に架橋された。この橋は、武蔵国と下総国の両国に架かる橋であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれた。また、類焼を防ぐため、東西の橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られた。この「両国広小路」は、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになった。幕府は、そうした場所を人々の憩いの場、娯楽の場として使うことを認めたと考えられる。

回向院は、出開帳、見世物、相撲といったイベントを行うに最適な場所となり、寺の運営、経営にも寄与し、被災者の慰霊も継続したと考えられる。つまり、幕府にとって、回向院は災害復興のための場であったといえる。

現代でも、回向院で 東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご供養と被災地の復興支援を目的として の「善光寺出開帳」を平成252013)年に行ったり、2024年には、両国国技館で、復興のための義援金募集の一環として、「能登半島地震復興支援勧進相撲」が復興のための義援金募集の一環として行われている。

歌川広重「東都名所 両国回向院境内全図」

(4)隅田川の花火

さらに、先の出開帳、見世物、相撲に加えて、隅田川の花火大会も慰霊のためのイベントであった。

隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733年)の両国川開きにまで溯る。八代将軍徳川吉宗は、飢饉と疫痢の流行による死者の慰霊と悪疫退散のために、「川施餓鬼」という死者の霊を弔う法会を催し、それとあわせ両国の川開きの日に水神祭を実施し、その際に花火を打ち上げた。これが、現在の花火大会のルーツとされる。

歌川広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火

現代でも、さきの能登半島での大地震、コロナ感染など、災害などによる被害、亡くなる方は多くいます。回向院を訪れて、災害対策に力を入れるとともに、復興対策として、そうした人々の慰霊にも努めることも重要だとあらためて思いました。

供養塔の前に置かれた鳩たち

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