2024年6月2日日曜日

東京異空間203:谷中を歩く2~谷中銀座から谷中霊園

 

谷中銀座

朝倉彫塑館を出て、谷中銀座から谷中霊園、そして日暮里駅まで歩いてみました。

1.谷中銀座

谷中銀座は、1950年代から続く昔ながらの商店街であり、下町風情を残した町並みで、飲食店なども並んであり、人気の場所となっている。最近は外国人観光客も多いようだ。

谷中銀座の入口は、階段になっていて、高台からは夕焼けがきれいに見えるということから、「夕やけだんだん」と名付けられている。名付け親はタウン誌『谷根千』編集者の森まゆみ。『谷根千』の創刊は、1984年、地元を愛する森まゆみなど3人の主婦が始めた。地元の人々からの聞き書きを中心とした編集で、地域誌を超えた人気を得るとともに、同地域(谷中、根岸、千駄木)を人気スポットにした。雑誌は、2009年に終刊となった。なぜこのような地域雑誌が人気を得たのだろうか。地元の「記憶」を「記録」にという編集のうまさもあるだろうが、時代背景として、高度成長からバブル崩壊、低成長へ、昭和から平成へといった転換期にあって、下町のような風情、人情を求めていたのかもしれない。例えば、あの映画「男はつらいよ」は、197090年代に人気を博し。柴又が有名になったが、これも下町の風情。人情が受けたのだろう。

ちなみに、森まゆみは、1973年、大学一年生の時に朝倉彫塑館でアルバイトをして、時給200円、一日行って1500円くらいの安いバイトであったが、そこで過ごす時間は夢のようだったと言っている。

(参考):

『谷根千のイロハ』森まゆみ 亜紀書房 2020

「夕やけだんだん」

谷中銀座

谷中銀座

2.谷中霊園

谷中銀座から戻って、日暮里駅近くから谷中霊園に入った。

明治政府は、明治5年に太政官布告で、寛永寺と天王寺の寺域の上地をして、明治7年に谷中新葬地(現・谷中霊園 )を開設した。これまでの寺請制度から、神道でゆく方針をとったことから、寺の墓地ではなく公共の墓地を造った。霊園は、甲と乙のエリアに分かれていて、甲のエリアは、かつての天王寺の境内で、五重塔が建っていた。乙は、もと寛永寺の境内であったエリアで、徳川家関係の墓がある。ほかにも有名人のお墓が多くある。

谷中霊園

(1)徳川慶喜の墓

徳川慶喜公墓所」が寛永寺谷中第二霊園に隣接する形で存在する。15代将軍・慶喜は、谷中霊園内に神道形式で埋葬された。これまで15代にわたる徳川将軍は、家康、家光が日光に、そして慶喜が谷中に、あとの12人は、ちょうど6人ずつ、増上寺と寛永寺に埋葬された。

なぜ、慶喜の墓は谷中なのか。慶喜は大政奉還後、14代までの徳川宗家と別家になり、明治政府(天皇)に恭順の意を示すため謹慎生活を送った。それによって徳川宗家は残り、16代に家達が就き、慶喜は明治天皇から公爵に叙せられた。明治政府の方針である神道により、天皇もこれまでの仏式の葬儀ではなく、神式となったことから、慶喜家は、故人の遺志をふまえて、「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため神式で行うこととした。慶喜が神葬を望んだのは、天皇(皇室)へに配慮とともに、父・徳川斉昭が廃仏論者であったこと、謹慎生活を送った大慈院で僧徒らに嫌な思い出があったこと、などがあげられる。

しかし、これまでの葬儀の慣例先である寛永寺は神式の選択に反発し、話し合いの結果、寛永寺の裏手にあった空き地に斎場を設けることで折り合いが付き、神式で葬儀を行い、その後、谷中墓地に埋葬された。その葬儀委員長は、慶喜の寵臣・渋沢栄一が執り行った。

ちなみに、16代当主・家達は、寛永寺に墓がある。「つまり、慶喜家の選択は、この面でも例外的な将軍であった慶喜にふさわしい措置であった」と 歴史学者・家近良樹は述べている。

(参考):

『徳川慶喜』家近良樹 吉川弘文館(人物叢書) 2014

徳川慶喜公墓所・葵の御紋

徳川慶喜公墓所・円墳

徳川慶喜公墓所

(2)渋沢栄一・敬三の墓

渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と称され 、その肖像を描いた新一万円札がこの7月には発行される。明治維新以降の渋沢の功績はよく知られているが、渋沢は一橋家・慶喜の家臣であった。そのためか、慶喜公の墓からそれほど離れていないところに渋沢栄一の墓がある(乙の11-1側)。

渋沢栄一の墓は、墓碑に「青淵澁澤榮一墓」と刻まれていて、大きく立派であるが、その横に、ほとんど一般の人と同じような大きさの墓がある。こちらは、栄一の孫にあたる渋沢敬三の墓である。敬三は、財界人としての活躍とともに、民俗学者としても多大な事績を残している。とくに宮本常一など多くの学者を援助した。この墓は、栄一とは違う、敬三の生き方、性格をあらわしているようにもみえる。敬三の墓には妻・登喜子の名も刻まれている。なお、両脇の大きな墓は、栄一の妻、千代・兼子二人 の墓である。

(参照):渋沢敬三については、

東京異空間24:保谷にあった民族学博物館Ⅱ~渋沢敬三の「博物館の夢」2020/07/07

渋沢家(中央・栄一、両脇の大きい墓は栄一の二人の妻)の墓

青淵澁澤榮一墓

渋沢家の墓(左・栄一、その横が敬三)

渋沢敬三・登喜子の墓

(3)有名人の墓

谷中霊園には、有名人のお墓が多くある。朝倉文夫の墓もここにある。朝倉彫塑館で観た作品《墓守》は、谷中墓地の墓守の爺さん・田辺半次郎をモデルにしたものである。この作品は、墓守のオーラがあふれていて、熟年の作家による作品に見えるが、朝倉が27歳の時の作品である。

霊園には、ほかにも、横山大観、牧野富太郎などの墓があるが、今回は見つけられなかった。わかったなかでは、浅草で有名な「神谷バー」の創業者、神谷伝兵衛の墓、俳優の長谷川一夫の墓碑、川上音二郎の墓、大きな石碑が建てられている初代大審院長・玉乃世履(たまのせいり)の墓などがあった。

神谷伝兵衛の墓

玉乃世履の墓碑

長谷川一夫の墓碑

川上音二郎の墓碑(この上に銅像があった)

3.天王寺

天王寺は、先に述べたようにその寺域を明治政府に上地されたことから、谷中霊園の中に入り組んだ形になっている。

寺は、鎌倉時代の創建とされ、感応寺という日蓮宗の寺院であった。江戸時代になると、法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派に属していたため幕府より邪宗として改宗を命ぜられ、住職が遠島されるなど、廃絶の危機に追い込まれた。 しかし、東叡山輪王寺の法親王が、由緒ある当山が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府に説いて認められた。天保4(1833)、感応寺から現在の護国山天王寺へ 改称した。

寺の経済的支援のため、享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。

また、「笠森お仙」でも知られている。お仙は、感応寺(天王寺と改称)の塔頭・福泉院境内にあった笠森稲荷社の門前にあった鍵屋という茶店の美女で、鈴木春信が描いた浮世絵が評判となり、今でいうアイドルとなった。

しかし、明治維新の上野戦争では、天王寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失した。その五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとされたが、昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失した。このとき、朝倉文夫は、五重塔の再建を提唱したが叶わなかった。現在は跡地となって、都の文化財に指定されている。

現在の天王寺の境内には、奈良の十輪寺を模したという優美な姿の本堂と、1690(元禄3)年に造られた釈迦牟尼如来坐像が鎮座している。この仏像は、「谷中大仏」といわれ戦前は谷中墓地の中にあったが、戦争中に門の中、本堂の前に移した。それは、戦争中の金属供出を避けるためであったという。

こうした戦時の金属回収について、朝倉文夫は文部省や陸軍、海軍にその不合理を説いて回り、ついには東条英機のところにいき直訴した。しかし、東条は朝倉の説得に対し「半年前にその話をきいていたらやらなかったろう」という返事をしたので、「私(朝倉)は天を仰いで嘆いた」という。(『私の履歴書』)

また、先に見た谷中霊園にあった川上音二郎の墓の銅像などは供出させられ、いまは台座部分が残るのみとなっている。


谷中大仏

谷中大仏

奈良・十輪寺を模した本堂

五重塔(ウィキペディアより)

4.日暮里駅前の銅像

谷中霊園から日暮里駅に向かった。駅前には、二つの銅像が立っている。ひとつは鷹狩り装束で弓を手にする「太田道灌騎馬像」 、もうひとつは山吹の花を差し出している乙女の像。これは「山吹の里伝説」をあらわしたもので、鷹狩の途中、急な雨にあった道灌が、農家に立ち寄り蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、何も言わず、一枝の山吹を差し出すのみであった。その「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は家臣から「山吹」の意を教えられる。 「七重八重花は咲さけども山吹の実のひとつだになきぞ悲かなしき」という古歌を引いて「実の」と「蓑」をかけ、蓑がないことをお詫びする気持ちを一枝の山吹に託したものだということを知り、以後、道灌は和歌の道に精進したという伝説である。

なお、朝倉文夫が制作した《太田道灌像》が有楽町の東京国際フォーラムに置かれている。この像は、かつて旧都庁に置かれていて、江戸・東京のシンボルでもあった。

山吹の花 一枝

太田道灌騎馬像

朝倉文夫《太田道灌像》東京国際フォーラム(ウィキペディアより)

谷中を歩いて、朝倉彫塑館の作品や庭園を観て、谷中銀座から谷中霊園では徳川慶喜の墓、渋沢栄一・敬三の墓などを見て、さらに駅前の二つの銅像を見て、一日、銅像や、石碑など彫刻を見る散歩となりました。また、銅像、墓などに表わされたぞれぞれの人物についても、より知ることが出来た歴史散歩でもありました。

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