2024年6月27日木曜日

東京異空間210:小石川御薬園~小石川植物園前史

小石川植物園・入口

白山神社の近くに小石川植物園があります。正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」とあります。さきに五月には東大の林学の研究・教育の施設である田無演習林を歩きましたが、こちらは植物学の研究・教育の施設です。

ここの歴史は江戸時代、後の五代将軍・綱吉の「白山御殿」につくられた「御薬園」に始まります。園内には、その歴史を語る遺構などがあります。遺構を手掛かりに、まずは、小石川植物園の前史として江戸時代に遡ってみます。

(参照):

「東京異空間199:緑のオアシス~東大・田無演習林」512

1.御薬園~養生所

(1)白山御殿日本庭園

小石川植物園の門から入り、左側をずっと歩いていくと、奥に池を中心とした日本庭園が広がる。今の時期、池の手前には花菖蒲が色とりどりの花を咲かせている。この日本庭園は、この地に後の五代将軍・綱吉が幼少期、徳松と呼んだ頃に御殿がつくられ、その庭園が由来であるとされる。小堀遠州の流れを汲む池泉回遊式庭園の面影が残されており、池を中心にいくつかの石橋が見事な姿で渡され、その石組、使われている石などが由来を感じさせる。いまは池の奥には旧東京医学館の赤い建物が、池面に映えている。

御殿の敷地の周りには総白壁の塀をめぐらし、その外回りに幅十間(18m)の塀を造りあたかも城塞のような造りであったという。御殿は、白山神社があったことから、「白山御殿」と呼ばれた。なお、御殿造営に伴い白山神社は、現在の地に遷座している。

五代将軍となった綱吉は、将軍の御成御殿として、後に述べる南薬園である地に白金御殿を造営している。そのため白金にあった南薬園が白山御殿内の御薬園に統合され「小石川御薬園」となった。

「御薬園」は、当時使われていた漢方を朝鮮半島や中国などからの輸入に頼らず自給すること、正しい薬草の知識の普及をさせることを目的として作られた。小石川御薬園は、漢方の製薬工場としての役割を担っており、国内の中心的な薬草・薬草木の供給地であった。

八代将軍・吉宗の時代には「享保の改革」の一環として、小石川御薬園の敷地内に「養生所」がつくられ、貧民救済の医療を施した。

しかし、幕末になると、小石川薬園の敷地は各藩の屋敷となり、日本庭園のあるエリアは、蜷川相模守屋敷に、養生所のあるエリアは松平駿河守下屋敷となった。幕末の動乱状況下、松平の下屋敷では銃砲の訓練が行われ、養生所にも影響を及ぼしたという

日本庭園・奥の建物は「旧東京医学館」

日本庭園・石橋と奥は旧東京医学館

日本庭園・形の良い石

日本庭園・石組

花菖蒲田

花菖蒲田

花菖蒲田

(2)御薬園」から小石川御薬園へ

小石川植物園には、太郎稲荷神社、次郎稲荷神社という二つの神社が祀られている。どちらも、わき道を入ったところにあり、太郎稲荷は見逃してしまった。こんなところに稲荷神社が祀られているのは、どうしてか、いつごろからか、とも思い、「御薬園」の始まりとともに、稲荷神社も、御薬園の歴史を語っているのではないかと調べてみた。

「御薬園」の始まり~白山と白金の坂の地名

「御薬園」の始まりは、三代将軍・家光の時代にさかのぼる。1636寛政13)年に、朝鮮からの使節が来日し幕府に薬草数種を献上した 。三代将軍・家光の治世であり、日光東照宮が完成した年でもある。このころ日本で薬草に対する関心が高まっており、幕府は江戸と京都に薬園を開設を計画する。

2年後、1638年、幕府は江戸の南北に薬草園を開設した。南薬園は「麻布御薬園」で、北薬園は「高田御薬園」で、後に護国寺の敷地となった。そのため、高田御薬園は、麻布御薬園に統合された。しかし、先に述べたように、麻布御薬園の地に綱吉の御成り御殿として白金御殿が建てられることとなり、麻布御薬園は小石川の白山御殿内の敷地の一部に移設された。結果として、麻布御薬園、高田御薬園、両薬園ともに白山御殿内に移転し これが小石川御薬園となった。

なお、麻布御薬園のあった地にはいまも「薬園坂」の地名が残っており、また白山御殿のあった地には「御殿坂」という名が残っている。

太郎・次郎稲荷神社

小石川植物園の敷地内に太郎・次郎稲荷神社が鎮座している。道が迷路になっていて分かりにくく、太郎神社のほうは見逃してしまった。次郎神社は鳥居があるが奥の祠は小さい。周辺には稲荷神社であることから狐の石像が何体か置かれているが、首がとれているなど、荒廃したものであった。地震などの被害を受けたものであろうか。

いつごろから、御薬園にこうした稲荷神社が設けられたのだろうか。詳しいことはわからないが、次のような記述をみつけた。

「先の南薬園(麻布御薬園)の中には長命山栄草寺と名付けた薬師堂があり、その薬師堂に付随するかたちの稲荷の小祠もあったらしい。この小祠が後に小石川薬園に移され、長命山稲荷大明神として祀られた。」

「太田南畝(蜀山人)は、文化4年1807年の春、小石川御薬園を見学している。そのとき、養生所の内部や所内に鎮座していた稲荷を垣根越しに覗き見ていた。」 

「吉宗のころの地図に、稲荷って書いてあるポイントがあるので、300年くらい前からあった

寺の名前、「長命山栄草寺」からして薬園の使命を表わしているようだ、さらに薬師堂に付随するかたちで稲荷神社が祀られたというのは、屋敷神を祀る社なのだろうか、屋敷神は、祖先神、農耕神を祀り、稲荷と結びつくことが多いとされる。

いずれにしても、300年以上前から太郎、次郎稲荷神社が鎮座され、薬園内に造られた養生所の人々も含め信仰されていたのだろう

いまの崖の谷間におかれているような次郎神社をみると、異様な雰囲気を漂わせているが、江戸から明治、さらに現代まで、さまざまな歴史を秘めているようにも見える。

次郎稲荷神社

次郎稲荷神社

次郎稲荷神社

次郎稲荷神社・奥の崖に社

次郎稲荷神社・石碑(明治以降のもの)

次郎稲荷神社・狐の石像

次郎稲荷神社・社

顔の欠けた狐


顔の欠けた狐

顔の欠けた狐


次郎稲荷神社の石碑と顔の欠けた狐

鳥居の脇に狐

鳥居の脇に狐



(3)享保の改革と御薬園

小石川御薬園は八代将軍・吉宗の時代に拡張され、薬草の栽培、薬草として効果が高いとされた朝鮮人参、さらに飢饉の救済対策として、サツマイモの栽培などが行われた。園内には、「甘藷試作地」という碑が設けられている。(これも見逃してしまった)

八代将軍・吉宗は「享保の改革」を行ったことで知られが、改革の中心となったのは当時3000万人といわれる国民の生活の維持・安定を目指すことにあった。その改革の場として小石川御薬園が活用された。吉宗の享保の改革の一つとして、御薬園は敷地を四万四千八百坪と当初の三倍以上拡張 して、朝鮮人参の栽培、サツマイモの栽培を試みている。

①朝鮮人参

朝鮮人参は当時、万能薬として人気が高く、非常に高価な輸入品であった。そこで、吉宗は朝鮮人参の国産化を目指した。 1721享保6年に、幕府の命令により対馬藩がはじめて朝鮮から生きた朝鮮人参を取り寄せ、これを献上した。この朝鮮人参の生品は最初吹上庭と小石川薬園に移植し栽培したが活着しなかった。再三試みたが、結局のところ小石川薬園は人参の栽培には向かなかった。その意味では吉宗の朝鮮人参の国内生産という目論見は外れたが、これで小石川薬園は廃園とはならなかった。朝鮮人参を栽培することに代わって、小石川では多種多様の薬草が栽培されることになった。

なお、幕府が人参の栽培に成功したのは1729享保14)年のことであり、それは種子によったものである。長年の試作から栽培には冷涼な気候が適していることが判り、日光周辺での栽培がおこなわれ、種子からの繁殖に成功した。将軍から下げ渡された御種は「オタネニンジン」と呼ばれて大切にされた。

②サツマイモ~ 「甘藷試作地」の碑

1735(享保20)年に、大岡忠相に取り立てられた、本草学者の青木昆陽が小石川薬園内で、サツマイモの試作をおこなった。サツマイモは熱帯起源の作物で当時はまだ薩摩藩領内のみで関東地方での栽培は行われていなかった。

昆陽は、享保の大飢饉(1732)が起こったことから、サツマイモを栽培して救荒食とすことを代将軍・吉宗に上書し、これが認められて試作地として小石川薬園、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町が選定された。

小石川薬園で試作畑が設けられたのは、後で述べる養生所近くの350坪で、現在この地に「甘藷試作地」という記念碑が立っている。

後世昆陽は「甘藷先生」と称され、墓所の目黒不動には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さま」として祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。

甘藷試作地の石碑

(4)養生所~井戸

吉宗の享保の改革の一環で、江戸の貧窮民のための医療施設として「養生所」が造られた。それがあった場所には養生所で使われた井戸されている。この井戸の水は、水質が良く、水量も豊かで、大正121923)年の関東大震災の時には避難者の飲料水として使用されたという。

また、養生所は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の舞台となったところとしても知られている。養生所の歴史をみてみる。

養生所の設立

「享保の改革」を進める吉宗と大岡忠相は、江戸の都市施策の一つとして、急増した貧民の救済のため、小石川薬園に「養生所」を設立した。そのきっかけとなったのは、町医者の小川笙船1672-1760)が目安箱に投書した施薬院(のちに養生所)設立の嘆願であった。投書から約一年後には、養生所が設立された。その背景には、地方から江戸に多くが流入してきたが、そのほとんどが、日雇人、奉公人等で、病気になると職を失い、また独り身で介護人もいないことから貧窮することになった。そうした人々の貧窮・病人救済のための医療救済対策が求められていた。

養生所は、町奉行の支配にあって、設立当初は、与力二人、同心八人が取り締まりに当たり、医師は本道(内科)二人であったが、外科二人、眼科一人の人が定数となった。収容人員は当初40人であったが、その後100人、さらに150人と定員やした。対象者は、最初は看病人のいない病苦に悩む貧窮者であったが、看病人がいても極貧の病者、さらに無宿非人、行倒人も収容するよう対象も拡大された。診療は無料で、投薬も幕府の経費で行われた。入院中は食事、寝間着などが支給された。

設立当初は養生所の趣旨が徹底していなかったことから、「薬園でできた薬の薬効を試すためにできたもの」「人参を使用するといっても和人参である」「看病人は非人である」といった悪評がたった。そのため町奉行は町名主を集め現地見学をさせ、風評を得ていないことを知らしめたり、入所手続きの簡易化を行うなどの対策をとり、先のように定員を増やし、それを上回る入所者となった。

しかし、時代を経るに従い、天保期(1831-45)のころには定員をはるかに下回るような状態となった。その原因は、医師の治療不行届き、看護にあたる中間の不正、それを取り締まる役人の怠慢等、悪弊が広まったことによる。それに対する町奉行の対策も適切に取られず、病人の生活実態は悲惨となり、養生所は腐敗した。そのため、死亡率も際立って高くなっていた。なお、養生所で亡くなった身寄りのない無縁仏は、両国回向院埋葬されたという。

幕末、養生所は、1865(慶應元)年に、町奉行の支配下を離れ、医学館の預かるところとなった。その後、幕府崩壊により、1868(明治元)年には明治政府により施設は接収され「小石川貧病院」と改称し、施療活動を継続していたが、その後まもなく廃止された。ここに養生所の歴史も幕を閉じた。

養生所の意義

徳川幕府の「仁政」という思想から生まれた都市政策の一つである養生所という慈善事業が幕末まで約140年続いたという意義は大きい。しかも火災地震といった一時的救民対策ではなく、平時の救民対策であったことも評価されることであろう。しかしながら、時代を経るに従い不正が横行し、腐敗していき、その対策も適切に取られなかったことに、徳川幕府の衰退をみることもできるだろう。さらに現代でも都市政策、医療政策に関して似たり寄ったりの問題がなくもない、といったら言い過ぎであろうか。

なお、明治になり、江戸幕府の救貧基金であった「七分積金」を設立資金として「養育院」が設立された(1872年)。その七分積金を管理を担当していたのが渋沢栄一であった。渋沢栄一は1876(明治9)年に養育院の運営代表者である養育院事務長に就任、1879(明治12)年には養育院初代院長となる。その後、1931(昭和6)年に亡くなるまで約50年間養育院院長を務めた。(現・東京都健康長寿医療センターの設立に引き継がれた)渋沢の公益という思想、信念、努力も江戸の養生所の遺産ともいえるのだろう。

赤ひげ

ところで、小石川養生所というと、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の舞台として知られ、さらに黒澤明監督により映画化され『赤ひげ』として、三船敏郎、加山雄三が主人公を演じて有名になった。小説の内容は、貧しい人から金をもらうことなく、親身になって診療をする理想的な医者と、患者とのさまざまな葛藤を描いたヒューマンストーリー である。こうした作品を生み出したことも養生所の文化的遺産といえるのだろう。

養生所の井戸

養生所の井戸


2.本草学(薬園)から植物学(植物園)へ

(1)ツュンベリーのマツ

次郎稲荷から、すこし上がったところに、ツュンベリーのマツがある。これはツュンベリー来日200年を記念して、スウェーデン大使館と日本植物学会が記念行事のひとつとして植えられた樹である。といっても、ツュンベリーが小石川御薬園に来たということではない。

江戸時代、長崎の出島に来た三人の学者がいる。三人ともに植物に精通していた植物学者でもあった。その一人がツュンベリーで、のちのシーボルトともに、日本の近代植物学の誕生に多大な貢献をした。

ツュンベリー(C.P.Thunberg,17431828)は、 スウェーデンの植物分類学者・医者で、
植物分類学の祖・リンネの直弟子となり、リンネの分類体系を発展させた。日本には、オランダ人として、1775長崎出島に到着、翌年、江戸参府に随行している。帰国後、日本植物誌(1784)」などを著して、日本の植物を広く世界に紹介した。

「出島の三学者」はツュンベリーと、ケンペル、シーボルトの三人で、いずれも植物学(博物学)に通じた学者であった。ただ、ケンペルはドイツ人、シーボルトもドイツ人で、三人ともオランダ人ではなかった。

・ケンペル(1651-1716)出島滞在期間1690-1692年:5代将軍綱吉の時代、著作:『廻国奇観』 『日本誌』『江戸参府旅行日記』

・ツュンベリー(1743-1828)出島滞在期間1775-1776年:10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、著作:『日本植物誌(Flora Japonica)』 『江戸参府随行記』

・シーボルト(1796-1866)出島滞在期間1823-1829年:11代将軍家斉時代 、著作:『日本」』 『日本植物誌』『江戸参府紀行』

三人のうち植物学に通じていたのはツュンベリーが突出してた。しかし、ツュンベリーも江戸参府の際に、箱根など、その地の植物を探求するなど、高い知的好奇心があったが、それは小石川御薬園には向かわなかった。

(参照):

時空トラベラー「「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト

時空トラベラー古書を巡る旅(16)ケンペル「日本誌」History of Japan 〜その書誌学的な考察を少々〜


ツュンベリーのマツ

(2)伊藤圭介~出島の三学者から日本の近代植物学へ

「出島の三学者」は、いずれも小石川御薬園との関わりは持たなかったが、日本において西洋の植物学の導入につながっていった。その中でツュンベリーの功績は大きく、その功績を讃えて先のマツの記念樹が設けられた。

ツュンベリーの植物学は、のちにシーボルト経由で本草学者の伊藤圭介(1813-1901)に繋がれていく。伊藤圭介は、シーボルトから譲り受けたツュンベリーの『日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)』を翻訳し、文政121829)年に『泰西本草名疏』を刊行している。また、東京大学の教授となり東大附属となった植物園で仕事に従事し、明治10年、植物園の植物の和名と学名を対応させた『小石川植物園草木目録』を編纂するなど、日本の植物学の誕生に大きな貢献をした。

(3)貝原益軒(1630-1714

「出島の三学者」により、日本の植物が発見され、名前を付け、ヨーロッパに持ち込まれた。いっぽう、日本においては本草学が中国から入り、貝原益軒が日本最初の本草学書とされる『大和本草』を著した。益軒は 80歳の時に『大和本草』を著し、さらに82歳の時に『養生訓』を著し、広く読まれた。

貝原益軒のあとも本草学者が続き、薬草のみならず植物、動物、鉱物など広く研究され、本草学は博物学に広げられた。吉宗はこうした本草学者を使い、各地で特有の産物を見出いし特産物として産業の発展につなげた。

この本草学は、小石川御薬園と「薬草」という点では共通するものがあり、深い関わりがあったように思うが、実のところ、ほとんど関わりはなかったという。なぜなら、本草学が植物などの幅広い知識を研究することにあったのに対し、薬草園は薬効が明らかになった薬草を増殖し、治療に供給することにあったからである。

しかも、御薬園は、幕府直轄であり、一般には入ることはできなかったことによる。たとえば、当時の本草学者である岩崎灌園(1786-1842)は『本草図譜』(96巻)を著したが、その際、小石川御薬園の近くに住んでいたにもかかわらず、薬園を利用することはなかった。また、ツュンベリー も、そしてシーボルトも江戸に来た時に、小石川御薬園を訪ねたこともないし、また言及したこともない。

本草学は、明治に入って西洋の近代的植物学に生まれ変わり、御薬園は東京大学の附属植物園となった。

いっぽう、貝原益軒の『養生訓』は、長寿を全うするための健康法、生活心得を優しく説き広く読まれ、「養生」の思想が広まった。小石川御薬園内に設けられた「養生所」が、最初は「施薬院」であったが「養生所」という名になったのは「養生」という考え方が広く受け入れられていたからかもしれない。先に述べたように養生所は明治になり廃止されたが、「養生」の思想は渋沢栄一の公益の思想に受け継がれたといも言えるだろう。

益軒は長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いている。例えば、まず自らの内にある四つの欲を抑えるため、次のものを我慢すること。

  1. あれこれ食べてみたいという食欲

  2. 色欲

  3. むやみに眠りたがる欲

  4.徒らに喋りたがる欲

さらに、季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調の管理をすることにより、初めて健康な身体での長寿が得られるものとする。

益軒の言われる欲を我慢するかどうかは別としても、いまでも『養生訓』は文庫になって読まれている。

益軒自身は、「老いて益々楽し」という名言を残して85歳で亡くなった。

貝原益軒

(参考):

『江戸の養生所』安藤優一郎 PHP新書 2005

『江戸の社会構造』南和男 塙書房 昭和44

『小石川植物園』東京公園文庫 川上幸男 郷学社 1981

『東京今昔 江戸散歩』山本博文 中経出版 2011

『江戸の植物学』大場秀章 東京大学出版会 1997

「小石川植物園前史」大場秀章


園内にある日本庭園、次郎稲荷神社、養生所の井戸、マツなどの遺構から、小石川植物園の前史、薬園から植物園になる歴史を追ってみました。その歴史は、薬草から養生と、いまでいうと医療福祉の取り組みが小石川御薬園で行われたともいえます。

続いて、小石川御薬園が小石川植物園となった明治からの植物園をみていきたいと思います。

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