前回に続いて、早稲田會津記念館で展示されていた會津コレクションの企画展を観ていきます。富岡コレクションでは、「禅書画ーかたちともじ」が開かれていました。これまでも、ここでは白隠などの禅書画を展示していて時々観に来ていました。今回の企画展では、道具のみを描いてその主体を示す人物等がいない、まさに「留守模様」の禅画や少ない文字数で禅の境地を示した書が展示されていました。 白隠の禅書画を中心に、会場に置かれていた解説書をもとにまとめてみました。
(参照):
東京異空間258: 美術展を巡るⅪ~「館佛三昧」@早稲田會津記念館
東京異空間257: 美術展を巡るⅪ~早稲田會津八一記念博物館
1.白隠慧鶴 (1685-1768)
白隠は、臨済宗の中興の祖とされている。白隠はまた、広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いている。その総数は1万点以上とも言われる。白隠の書画は弟子たちのそれを含め、禅書画のジャンルを形成している。
自由奔放な作風の書画だが、禅ということから、現代人にはすぐに理解しがたい面がある。とりわけ画には「賛」が記されていて、絵「かたち」とともに書「もじ」に、禅の教えなどを理解していかなくてはならない。
2.白隠の禅画
《渡唐天神図》
菅原道真が時空を超えて中国の無準師範に師事したという伝説を図像化したもの。もちろん、歴史上の菅原道真は中国に渡っていない。むしろ遣唐使の中止を提唱した。以来、遣唐使は廃止されることになった。これを「894(白紙)にしよう遣唐使廃止」 と覚えた経験もある。
中国風の衣服をまとうことが多いが、この天神は「南無天満大自在天神」(上から南、天、大、満、神、在、天、自、無)という文字を身に纏っている。賛には道真が詠んだとされる和歌をふまえ、「梅たにあらは/われな/たつねそ」と記されている。
手に持つ梅の花は、天神(菅原道真)のトレードマークである。
《のゝ袋》
「のゝ」は「布」をあらわし、「のゝ袋」とは「布袋」を指している。袋と団扇と杖は、僧・布袋を象徴する持ち物とされる。主人公など人物を描かず道具や背景だけで、有名な物語や歌の世界を想像させる方法を「留守模様」という。この留守模様が成立するためには、誰もが知っているという共通認識がなければならないが、現代人にはそうした共通的認識、教養を持つのは難しい。
布袋とは、唐末ごろに実在した人物で、衣をだらしなく羽織って太鼓腹を見せ奇妙な言葉を吐いたり、大きな布ぶくろを担いで誰彼かまわず物を乞うてはそれに蓄えたという。そこから、「布袋」というあだ名がついた。本来の名は契此(かいし)という 。亡くなると、実は弥勒菩薩の化身であったという伝説が広まり、大いに崇められることになる。日本では七福神の一柱として信仰されている。
《宝槌図》
宝槌は、おとぎ話の一寸法師にも登場する打ち出の小槌で、これは大黒天の持ち物とされ冨を表わす。画面一杯に豪快に宝槌を描き、左上の余白を埋めるように短歌で見るものの強欲を戒めている。
大黒天は、元はヒンドゥー教のシヴァ神の異名で、これが仏教に取り入れられた。日本では大国主命と神仏習合し、頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌を持つ姿で知られ、やはり七福神の一柱となっている。
3.白隠の書
《常念》
白隠の書も、絵を描くように大胆に書かれている。特徴として、一文字目が大きく、最後の文字に近づくにつれ文字が小さくなる。
濃墨で大きく「常念」を書かれ、その両側には「朝念講中/福貴延命」と「観音菩薩」が書かれている。これは白隠が普及に努めた「延命十句観音経」をふまえたものだという。
《紅葉》 白隠
画面中央に濃墨で大きく「紅葉」と書かれ、滲んだ墨がその表情を表わしている。左右には淡墨でくずし字の和歌が添えられている。三十六歌仙のひとり大江嘉言の詠んだ和歌「山ふかみ おちはつもれる紅葉の かわける上に 時雨ふるなり」が記されている。
4.禅書画
《獅子吼》隠元隆琦
隠元隆琦(1592-1673) は、明末清初の禅宗の仏教僧で、江戸時代初期に来日し、日本黄檗宗の祖となった。木魚やインゲン豆を伝えたことでも知られる。
《獅子吼》とは、釈尊の説法をライオンの咆哮にたとえた表現であり、獅子が吼えるように力強く仏法を説くことを意味する。
《大黒図》 遂翁元盧(すいおう げんろ)
遂翁元盧(1717-1789)は、三十余歳ではじめて白隠に会い、以後二十年門下に参随した。東嶺(後述)と白隠の弟子の双璧をなし、白隠から松蔭寺を受け継いだ。酒を嗜み、みずから酔翁と号し、後に師に従って「遂翁」としたという。
描かれているのは、右手に打ち出の小槌を持ち、左手で大きな袋を背負い、米俵の上に立っている大黒天。左側には「うへみねハ/いつも/頭巾て/歳の暮」と文字が書かれている。
《隻履達磨図》 遂翁元盧
左手に片方の履物を持ち、右肩越しに視線のみ、こちらを向く達磨を描く。「隻履達磨」とは、次のような故事に基づいている。
達磨が中国で没し熊耳山に葬られた。その3年後に、西域を旅していた宋雲という人者が片方の履物だけを持った天竺に帰る途中の達磨に出会った。宋雲が「どちらへ?」と尋ねると「西天(インド)へ帰る」と答えた。これを聞いた皇帝が熊耳山の墓を開かせると、空っぽのお棺と片方の履物だけが残っていたという。
《払子図》 東嶺圓慈
東嶺圓慈(1721 – 1792)は誰もが認める白隠の一番弟子。三島の龍沢寺を開創した。遂翁元盧とともに「鵠林二大神足」(鵠林は白隠の号)と並び称された。
画面中央には「払子」が描かれている。払子は、もともとインドにおいて蚊や蠅を追い払うための道具であったが、禅僧が所持する法具となり、煩悩を払うために用いられた。
周囲には「百億獅子」「百億毛頭現」という禅語が記されているが、これは鎌倉時代の臨済宗の僧・無学祖元の辞世の句「「来たるも亦前ならず 去るも亦後ならず、百億毛頭に獅子現じ、百億毛頭に獅子吼ゆ」に由来している。
《大燈国師図》 蘇山玄喬(そざん げんきょう)
蘇山玄喬 (1799-1868)は、白隠の第3世代にあたる弟子で江戸末期に活躍した。
描かれているのは、大徳寺の開祖である大燈国師宗峰妙超の姿。国師は11歳の時、天台宗を学ぶが、のちに禅宗を志し修業する。修行の一環で大燈国師は乞食に混じり五条橋の河原で20年生活したという。
画面中央にある賛は「風餐露宿無/人知第五橋/頭二十年」と書かれ、一休宗純が大燈国師を偲んだ言葉である。
素足に蓑を纏った国師は、その手に瓜を持っているが、これは花園天皇の勅で国師を探す際に、好物の瓜でおびき寄せたという伝説に基づいている。
《布袋図》 仙厓義梵(せんがいぎぼん)
仙厓(1750-1837)は、11歳のころに臨済宗の僧となり、諸国行脚の後、栄西が開いた聖福寺(博多)の住持となりその復興に尽力した。多くの絵を描くようになったのは隠居後の62歳のころからという。その画風は飄逸でユーモアに富んだ親しみやすいものとなっている。
この布袋さんも袋に身を預け、大きくあくびをしているかのように描かれている。しかし賛には世に救いのないことを嘆く言葉が書かれている。
江戸時代に数多くの禅書画を遺し、いまもなお多くの人々を魅了し続ける二人の禅僧、白隠と仙厓。二人は活躍した時代と場所は異なるが、いずれも庶民の教化につとめ、江戸時代の禅宗界に清涼な新風を巻き起こした。
白隠の禅書画のコレクションとしては、この富岡コレクション以外に、細川護立による永青文庫と山本発次郎による大阪中之島美術館が代表的なものとして知られる。
なお、世田谷区野沢にある龍雲寺には白隠のコレクションがあり、2016年に期間限定で公開されたとき観に行ったことがある。
一方、仙厓のコレクションとしては出光美術館が知られている。ほかに「小西コレクション」福岡市美術館、「中山森彦コレクション」九州大学文学部がある。。「小西コレクション」は福岡の証券会社の経営者・小西友次郎の、「中山森彦コレクション」 は九州大学医学部名誉教授のそれぞれ個人コレクションであった。
(参考):
『白隠 禅のこころを描く』山下裕二他 新潮社とんぼの本 2018年
『白隠 衆生本来仏なり』山下、芳澤監修 平凡社別冊太陽 2013年
白隠の禅書画は、観ただけでも迫力があり、ひき込まれます。今回、解説に基づいて、留守模様と言われる道具の持つ意味や、記されている賛の意味などを理解すると、さらに興味深くなりました。
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