前回に続いて、展示されていた會津コレクションの企画展を観ていきます。
(参照):
東京異空間257: 美術展を巡るⅪ~早稲田會津八一記念博物館
3.「館佛三昧」~會津コレクション
會津コレクションでは「館佛三昧」という企画展が開かれていた。もちろん、「館佛」は「観佛」をかけ、館蔵の仏像を観る、ということ。その「観仏」とは、仏を心に抱くことを、「三昧」とは、心を静めて一つの対象に集中した状態のことをいう。すなわち「観仏三昧」は、一心に仏をみることだという。
會津が定宿としていた奈良の旅館「日吉館」の旧蔵品
(1)三十三応現身像(1384年)
観「佛」は、クシャーナ朝時代の石仏から日本の仏画、仏像などである。中でも、「三十三応現身像」として6体の仏像に眼が行った。像高は約35cmぐらの小型の仏像で、これまでに見たことはない。
「三十三応現身」というのは、観音菩薩があまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変身して現れること、それを「応現」という。「三十三」という数字は西国三十三所観音霊場、京都・三十三間堂などに見られる。
その姿を彫刻した群像は、おじいさんやおばあさん、少年や童女、兵士や鬼、さらに 美しい天女などの姿を表わす。したがって「像」ではなく「身」と表わされ、より生身の人間に近い仏とも神ともいえる姿である。おそらく、神仏習合的な要素も加わっているのだろう。
展示されていたのは、毘沙門身、長者身、比丘身、優婆塞身、長者女身、童女身 の6体。いずれも一木造で、眼は玉眼といわれる水晶を嵌め込んでいる。そのため、頭部は内刳(うちぐ)りが行われて空洞になっていて、目の部分に穴を開け、内側からレンズ状に水晶を当てている。6体のうち童女身の頭部内刳りには銘文が墨書されており、至徳元年(1384年)9月26日に大和朝春という人物によって造立されたことが判明しているという。
三十三応現身像 三十三応現身像 長者女身 童女身(銘文の墨書も) 童女身・面 童女身 長者身 比丘身 優婆塞身 優婆塞身 毘沙門身 毘沙門身
(2)帝釈天立像 大隈家旧蔵 室町時代(15~16世紀)
大隈家から伝来した像であるという。像高は54cm、室町時代の作とされる。
帝釈天は、天部、すなわち神々の最高位に属する。戦士の姿をとる英雄神であるが、仏教に取り入れられて、梵天とともに護法の善神となる。
この像は、右手を突き出して構えており、帝釈天の姿としては特異であるとされる。
大隈重信はこの像をどのように拝んでいたのだろうか。釈迦如来や観音菩薩といった仏像ではなく、英雄神とされる帝釈天を拝したというのは、大隈の求める日本の近代化に通じているところがあるのだろうか。
(3)大日如来坐像 室町時代(16世紀)
大日如来は、日本密教においては、両界曼荼羅(金剛界、胎蔵界)の主尊であり、「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされ る。神仏習合の解釈では天照大神と同一視される。
この像は、左手の人指しを右手で覆う「智拳印」を結んでいることから「智」の金剛界の大日如来である。宝冠には5体の化仏を表わしている。
(4)菩薩立像 平安時代(11世紀前半)
一木造の菩薩像で、腰回りの肉付きの厚さに対し、衣文の彫が浅いことから平安時代、11世紀前半の作とされる。
この像は、奈良の骨董店で谷崎潤一郎が購入したという。その後、富岡美術館(コレクション)に所蔵され、この記念館に寄贈された。
(4)仏画
仏画では、つぎの3点が印象に残った。とくに阿吒薄倶(あたばく)大神王図というのは、初めて知る。
〇阿吒薄倶(あたばく)大神王図 鎌倉時代(14世紀)以降
一切の悪鬼,悪毒獣,悪人による災難を衆生のために排除する夜叉大将であり,もとは外道神であったが後に密教にとり入れられて明王とされた。そこから、 鎮護国家、外敵逃散、魔妖調伏 を目的として行われる秘法の本尊とされる。
四面八臂、六面八臂などの姿で表わされることが多いようだが、本図は一面四臂である。
〇別尊雑記断簡 胎蔵界大日 鎌倉時代(14世紀前半)以降
〇別尊雑記断簡 金剛界大日 鎌倉時代(14世紀前半)以降
「別尊雑記」は平安時代末に真言宗の僧・心覚により 選集された図案集。鎌倉時代初期までに成立し全57巻。密教の諸尊を網羅的に分類し、密教図像集の白眉とされる。
(続く)
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