千葉県立美術館 |
2.千葉県立美術館
千葉県立美術館は千葉みなとのエリアにあり、ここは2023年に貝塚健が館長に就任し、開館50年を迎える同美術館の活性化を託された。貝塚はアーティゾン美術館の学芸員から、千葉県立美術館の第29代館長となり、館長としては初の外部登用となった。企画展も充実してきているようだ。昨年は、「アーツ・アンド・クラフトとデザイン展」を観に来ている。
今回の企画展は「民藝MINGEI ー美は暮らしのなかにある」。柳宗悦が暮らしの中の美を見つけ、それを「民藝」と呼んだ。展示されているのは、民藝の品々で室内を装飾する「生活展」、今でいうテーブルコーディネートが展示されていた。
〇「民藝MINGEI」
また、「コレクション・ハイライト」では、作品の創造と鑑賞の魅力を伝えるため「わたしの楽しみ、あなたの悦び」というテーマで、千葉県ゆかりの板倉鼎や香取秀真の作品など、貝塚健館長が厳選した41点の作品が展示されていた。
〇浅井 忠 老母像 1906(明治39) 油彩/キャンバス
*塚本 靖(つかもと やすし/1869-1937)
東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。 専門の西洋建築史のみならず、美術・工芸にも造詣が深く、建築・工芸の展覧会の審査員なども多く務めた。建築界においては、辰野金吾をよく支えるとともに、1923年から1924年にかけて建築学会会長を務めた。
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塚本靖(ウィキペディアより) |
〇石井柏亭 晩春行楽図 1938(昭和13) 水彩/紙
〇石井林響 桃源 1913(大正2) 絹本著色
(参照):板倉鼎について
東京異空間309:MOMAT コレクション<女性像>@東京国立近代美術館(2025/5/3)
千葉県立美術館では、以前に津田信夫の作品を観たことがあるが、今回は香取秀真の作品が並んでいた。
この二人は、わが国の近代金工史の先駆者として並び称せられる。共に幼年期を佐倉で過ごし、年齢も一歳違いで、ともに鋳金家として活躍した。香取、津田の二人について、少し調べてみた。
(参照):
東京異空間178: アーツ・アンド・クラフトとデザイン展@千葉県立美術館(2024/02/08)
(1)香取秀真(かとり・ほつま/1874-1954)
香取秀真は、明治7(1874)年に印旛郡船穂(ふなお/現・印西市)村に生まれ、5歳から18歳までを佐倉の鎮守・麻賀多(まがた)神社の神主である郡司家の養子として過ごした。明治24(1891)年、養家の理解を得て東京美術学校に進学し、卒業後は鋳金作家としての道を歩む。彼は木彫を勉強するために美術学校に入ったのだが、学生時代のある時「奈良の大仏はどのようにして鋳たのか」とある人に聞かれ、答えることができなかった。そして、その謎を解明しようとして金工の道に入る。この奈良の大仏については、秀真は昭和12(1937)年に『東大寺大仏の鋳造に就いて』という本を上梓し、その疑問に答えているという。
鋳金家としての香取は、明治33(1900)年のパリ万国博覧会で銀賞牌を受けたのをはじめ、各種博覧会や展覧会で受賞を重ね、明治末から昭和初期にかけて活躍した。大正3(1914)年、東京鋳金会を発展させた青壺会を津田信夫らと結成した。
昭和9(1934)年には帝室技芸員に任命され、昭和28(1953)年には、陶芸家の板谷波山とともに工芸家として初めて文化勲章を受章した。また、一方で秀真は金工史研究家として多数の著書を著し、国宝保存会委員、重要美術品等調査委員会委員、文化財専門審議会専門委員などを歴任し、国宝・重要美術品の選定などに深くかかわった。
さらに、秀真は歌人としても活躍している。20歳ごろから和歌を詠み、明治32(1899)年には、正岡子規の弟子となり、根岸短歌会の同人となった。
また、芥川龍之介とも親交があった。明治42(1909)年、秀真は田端に転入し、芥川龍之介の隣に住まう。芥川は「田端人」の中で彼のことを「香取先生は通称『お隣の先生』なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり」と紹介している。
香取の長男・正彦(1899-1988)は、同じく鋳金家となり、戦時中に供出された梵鐘の復元に取り組み、昭和25(1950)年から父子共銘の「平和・喜の鐘」を作り始めた。昭和29年、秀真死去により「平和・喜の鐘」は23作で終り、以後「平和・余韻の鐘」として制作を続け、 152の梵鐘を制作した。
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香取秀真 |
〇香取秀真 鳩香炉 1949(昭和24) 鋳金 |
〇香取秀真 美々豆久香爐 制作年不詳 鋳金 |
〇香取秀真 笑獅子香炉 1948(昭和23) 鋳金 |
〇香取秀真 笑獅子香炉 1948(昭和23) 鋳金 |
〇香取秀真 烏銅鳳凰香炉 1911(明治44) 鋳金 |
〇香取秀真 鳳凰香炉 1942(昭和17) 鋳金 |
(2)津田信夫(つだしのぶ/1875-1946)
津田信夫は、明治8(1875)年に、佐倉藩に仕える代々漢方医の家に生まれ、幼年時代を佐倉で過ごした。
明治28(1895)年に東京美術学校に入学し、同33(1900)年、同校鋳金科を卒業。翌年から昭和19(1944)年まで母校に勤める。その間、東京美術学校が公共事業として注文を受けた浅草公園や日比谷公園の噴水、日本橋の装飾、国会議事堂の扉装飾など公共施設の金工品を多く手掛け、近代的な都市づくりに貢献している。なお、日本橋の装飾については、設計を妻木頼黄、製作主任を津田信夫、獅子と麒麟の原型製作を渡辺長男、鋳造を岡崎雪聲が担当している。
大正12(1923)年には、金工の研究のためにヨーロッパに留学し、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスなどを歴訪し、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式であるアール・デコなどを学ぶ。 同14(1925)年にパリで開催された「パリ万国現代装飾美術工芸博覧会(通称アール・デコ博) 」の審査員を務めた。
大正14年に帰国し、ヨーロッパの新思潮について東京美術学校の教え子の高村豊周などの若い工芸家たちに教示し、大きな影響を与えた。
帝展に工芸部の設置のため香取とともに尽力し、昭和2(1927)年の設置後は、委員、審査員を務めた。昭和10(1935)年、香取とともに帝国美術院会員となっている。
〇日比谷公園の鶴の噴水
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(ウィキペディアより) |
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(2018/6/12撮影) |
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千葉市美術館と千葉県立美術館を巡って美術作品を観てきました。千葉公園の大賀ハスとともに「美の饗宴」といったところでしょうか。
アントワーヌ・ブールデル「聖母子像」(千葉県立美術館内) |
千葉みなと |
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