2025年5月3日土曜日

東京異空間309:MOMAT コレクション<女性像>@東京国立近代美術館

 

原田直次郎 《騎龍観音》

先に、東京国立近代美術館のコレクションの中から、<春らんまん>を描いたアートをピックアップしてみましたが、今回は、<女性像>の作品を取り上げてみました。

(参照):

東京異空間297:桜満開4~東京国立近代美術館(竹橋)2025/4/10

東京異空間245:美術展を巡るⅣ-4~MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/16


〇原田直次郎 (1863- 1899) 《騎龍観音》 1890

原田直次郎 の 《騎龍観音》は何度か見てきて、そのたびに感動する。

白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶を持って、龍に乗る観音。観音であるから女性とは限らないが、描かれている姿は女性像である。観音の手にする水瓶には紅白の綵帛が結ばれている。これは、特別重要な時に臨んで施されるものだという。

金の額縁とともに、 《騎龍観音》の床に映る姿は一段と神々しく見える。

(参照):原田直次郎《騎龍観音》は護国寺が東京国立美術館に寄託

東京異空間77:護国寺と原田直次郎2023/1/5

東京異空間242:美術展を巡るⅥ-1MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/8




水瓶には紅白の綵帛


〇ジャン・アルプ(1886-1966)《古典的彫刻》1960

この彫刻は白い石膏で造られている。実際の人体とはかけ離れた抽象的なフォルムが白く床に映る姿は、先の《騎龍観音》と同じように神々しく見える。

ジャン・アルプは、現・ストラスブール(仏)出身の彫刻家、画家である。1943年に妻の突然の死によって深刻な鬱に陥いり、修道院に引きこもり4年間、妻を弔って過ごした。このことが、その後の創作活動に大きな影響を与えたという。





〇荻島安二 (1895-1939) 《風》1937 《波》1932 《日本髪》1938

荻島安二は朝倉文夫の門下生である。萩島は日本で最初にマネキンを制作したとされる。彫刻家として活躍していた荻島が、島津マネキンの創始者・島津良蔵との出会いによってマネキン制作の道に入り、1925(大正14)年に創作された石膏製の姉妹像が、国産第一号の洋マネキンであった。

《波》は、颯爽と風を切って水上を滑走する、躍動的な女性の美を追求した作品である。それまでの彫刻とはちょっと違い、スポーツの普及という時流に即した題材を用いてスピード感の表現するなど、モダンな感覚が生きている。それにしても、《風》もそうだが、普通の人間ではちょっと真似できないポーズである。

(参照):渋谷区立松濤美術館で開催された「私たちは何者? ボーダレス・ドールズ」展2023)でも、萩島の《マネキン》《波》《日本髪》などの作品が出ていたが、その時はそれほど印象に残らなかった。

(参照):

東京異空間141:美術展「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」を観た2023/8/15


《波》

《波》

《風》

《風》

《日本髪》


〇河野通勢(こうの みちせい、1895-1950)《好子像》1916

河野通勢は、高橋由一に学んだ父・次郎の影響で、早くから絵に親しんだ。また父はハリストス正教の熱心な信者であったことから、通勢も生まれたときに洗礼を受け、熱烈な信者となった。

《好子像》の好子とは、妻・正子の妹であり、通勢はこの妹との結婚を望んでいたが許されず、姉の正子と結婚したという経緯がある。妹が姉を差し置いて結婚するのは、古い風習が強く残っている時代では許されないものであったという。

《好子像》は、手を組んだ姿から、肖像画の最高傑作であるダ・ヴィンチの《モナ・リザ》を意識している。しかし、またハリストス正教の《イコン》を見るようでもある。

好子の手には葡萄の房をかかえ、その下には洋書、背には「Origin of art」と書かれている。指で、葡萄の一粒をつまんでいるのは、どのような意味があるのであろう。胸のペンダントには「MK」(M. Kono )のイニシャルが描かれている。Mは正子なのか、通勢なのか。さらにアーチ状の枠には裸の子供、右手には大きなカブトムシ?を持つ。これは何を表わしているのだろうか。よく見れば見るほど絵に吸い込まれていくようだ。

この作品は長らく公表されず、生前は《好子像》というタイトルでの出品記録もなく、1987(昭和62)年に東京国立近代美術館が購入して初めて存在が広く知られた。

(参考):

図録『大正の鬼才 河野通勢』 2008





〇小杉放菴 (1881-1964)《羅馬物語》1928

小杉放菴は、現・栃木県日光市に生まれ、1896(明治29)年から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城の元を出て上京して洋画を描き、「未醒」の号を使って出品する。その後、挿絵や漫画なども手掛ける。

1913(大正2)年にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。 1924(大正13)年に号を「放庵」と改めた

フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。

ちなみに、小杉は、1925(大正14)年、東京大学安田講堂の壁画を手がけている。また、1927(昭和2)年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインも手がけている。

(参照):

東京異空間216:野球殿堂博物館(2024/7/31)

黒獅子旗・野球殿堂博物館


《羅馬物語》は、インド神話の「ラーマーヤナ」物語のラーマー王子の妻シーター妃を救い出す場面を描く。白猿はハヌマーンで、ラーマーを助け出す。





〇板倉鼎 (1901-1929)《休む赤衣の女》1929

妻で画家である須美子を描く。板倉は本作の完成後、半年足らずで急逝する。

板倉は、千葉県立千葉中学校(現・県立千葉高)在学中に洋画家の堀江正章に学び、その後、東京美術学校に入り、岡田三郎助などの指導を受けた。

1925(大正14)年)、与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で、ロシア文学者・昇曙夢の長女、須美子と結婚。須美子は結婚直前まで、文化学院で山田幸作に音楽を学んでいた。

1926(大正15)年)、須美子を伴い、画業修行のためパリに赴く。作品はサロンに入選するなど将来を嘱望された。しかし、帰国目前の1929年、敗血症のため急逝、享年28

いっぽう、妻の須美子もパリで鼎の手ほどきを受けて制作をはじめ、美術展などに作品を出品し、藤田嗣治から高く評価された。しかし、夫を亡くし、幼い娘二人を相次いで亡くし、自らも肺結核で早世した(25歳)。

《休む赤衣の女》は、鼎がパリで妻の須美子をモデルに描いたもの。赤い服を着て横たわる女性、その吸い込まれそうな目。惹き込まれる作品だ。

なお、鼎と須美子の作品の多くが、松戸市教育委員会、千葉県立美術館、千葉市美術館などに寄贈された。昨年、千葉市美術館で「板倉鼎・須美子」展が開催されていたが、その時は、この二人の名前も知らず、観に行くこともなかった。

(参考):

図録『板倉鼎・須美子 パリに生きたふたりの画家』千葉市美術館編 東京美術 2024




〇恩地孝四郎(1891-1955)《浴後》1926

恩地孝四郎は、日本における抽象美術の先駆者として、また創作版画の大成者として知られる。《浴後》は、木版である。



〇橋口五葉 (1880-1921)《温泉宿》1920

この《温泉宿》も木版である。

橋口五葉は、夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』などの本の装幀をしたことで知られる。浮世絵の研究や新版画を手がけ、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。

橋口五葉の作品は、千葉市美術館などでも見ているが、近く府中市美術館で「橋口五葉のデザイン世界」( 525日~713日) が開催されることになっており、楽しみにしている。




〇藤島武二 1867-1943《うつつ》1913

鹿児島藩士の三男として生まれる。洋画を志していたが、フェノロサらの日本画勃興のタイミングであったこともあり、日本画も学ぶ。後にヨーロッパで洋画を学び、東京美術学校で後進の指導にあたった。

《うつつ》は、タイトルにあるように、ソファーにもたれ、うっとりとした姿の女性、その目は甘美である。




〇有馬さとえ(1893-1978)《赤い扇》1925

1893年に鹿児島市に、父は有馬高徳、母せいの三女として生まれた。1911年、18歳の頃「女学校を よして油画を勉強したいと言い出すに至り、周囲の反対を他所に上京して、岡田三郎助の門に入るも「望みを捨てろ」と一度は諭される。しかし、画家になることを諦めず努力した。岡田は、有馬のほかにも、三岸節子、桂ユキ子 (ゆき)など画壇で活躍する女性画家を指導している。

有馬さとえという画家の名も初めて目に留まったが、この《赤い扇》に描かれた女性に目が釘付けとなった。和服を着ているが、長い首にはネックレスをしている。キリッとした眼差しが女性の性格まで表しているようだ。




〇秦テルヲ (1887-1945)《玉乗り》1915

秦テルヲは広島で生を受け京都に育ち学んだ後、大阪、神戸、東京、知多、京都と転々とした。その言動も画風も風変わりだったため、画壇の異端児としてずっと忘れられていた。それを発掘したのは星野画廊であった。

テルヲの日記には、混沌とした時代に生きた姿を次のように書いている。

 「思へば、野心に満ちた苦学時代から対世間の名誉心にかられて漸く虚名を得た労働者を描いた時代、自分の性欲にかられて遊蕩から得た性欲主義の女郎研究時代、共同生活を始めて子供の出産と共に性欲物質欲以外の愛を視るようになった時代と、各々五六年の過程を経て今や宗教と芸術と生活との三つが一となる時が来たのだと思ふ」(『日記 大正12 44日』より)

「苦学時代」:テルヲは9歳で父を亡くし、貧困生活の中で母・久を支え牛乳配達などにより糊口をしのいだ。1904(明治37)年、京都市立美術工芸学校を卒業したころまで。

「労働者を描いた時代」:1911年頃まで。労働者や被差別部落の人々などを描いた。

「女郎研究時代」:1918(大正7)年頃まで。女性問題を起こし京都から大阪に逃げ、ついには吉原研究のためにと東京に出て遊蕩生活を送った。酒と女に耽溺するような生活を過ごした。

「性欲物質欲以外の愛を視るようになった時代」:1919年(大正832歳)、京都で初という女性と出会い、結婚して、長男の誕生を機に妻や子供に対する愛に目覚める。また、母・久の愛と、宗教的な信心から母子像と仏画を描くようになる。

1945(昭和20)年、亡くなる。享年58。

秦テルヲについては、練馬区立美術館で開催された秦テルヲ展(2003/10)で、その不思議な仏画に強く惹かれた記憶がある。

《玉乗り》は曲芸小屋に生きる女性を描いており、さきの②労働者を描いた時代」にあたる。

(参照):星野画廊について

東京異空間282:「少女たちー星野画廊コレクションより」@三鷹市美術ギャラリー2025/3/6

(参考):

図録『デカダンから光明へ 異端画家 秦テルヲ』練馬区立美術館他編 日本経済新聞社2003




〇岡上淑子 (1928- )《地球の果て》1952

コラージュ作家としてデビュー、「ヴォーグ」や「ライフ」などアメリカのファッション誌やグラフ誌を切り抜いて貼付けたコラージュ作品100点以上を制作する。画家の藤野一友(別名、中川彩子)と出会い、1957(昭和32)年に結婚するが、その後、創作活動からは遠のく。1950から1956年までの短い期間である。

2019年に、東京都庭園美術館で開催された個展「フォトコラージュ—岡上淑子 沈黙の奇蹟」を観て、この作家の作品に興味を持ち、その後も東近美の常設展でも何点か観ている。

コラージュという手法で、切り抜かれた一つ一つのパーツは、リアルなのだが、それを貼り合わせたとたんに シュールな世界が広がる、不思議な作品である。こうした作品は主に女性の身体をモチーフとしている。

藤野一友(1928-1980)も幻想的で、エロチックな作品を残している。

(参考):

『岡上淑子・藤野一友の世界』福岡市美術館編 河出書房新書 2022




〇会田誠 (1965- ) 《美しい旗》戦争画RETURNS 1995

会田誠がテーマにしているのは、美少女、戦争画、サラリーマンなど、それらはエロティックでグロテスクな描写も多く、観る者へ強烈なインパクトを与えることから、その活動はしばしば話題となり、波紋を呼ぶことも多い。

《美しい旗》は、戦争をテーマにしたシリーズのひとつ。炎があがる荒廃した地で、負傷したセーラー服の少女が日本の国旗を、韓国の伝統的な衣装であるチマチョゴリの少女が韓国の国旗をそれぞれ掲げる、ほぼ等身大の二曲一双の屏風作品。

先に、同じ戦争画シリーズの《紐育空爆之図》1996を東京都現代美術館で観た。

(参照):

東京異空間237:美術展を巡るⅡ-1~日本現代美術私観@東京都現代美術館2024/10/28







今回は、これまで知らなかった画家、作品に興味が引かれました。また、これまでも観ている画家、作品についても、それぞれの経歴などをみてみると、また一段と作品にも興味が増してきました。これからも色々な画家、作品を観に美術展に行ってみたいと思います。

〇現代絵画の前を通る和服の女性




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