「戦後は続くよどこまでも」展@写大ギャラリー |
「戦後は続くよどこまでも」展@写大ギャラリーを観てきました(11月5日まで)。写大ギャラリーは、東京工芸大学にあり、1923年に日本初の写真学校である小西寫眞専門学校として設立されました。細江英公、立木義浩などの写真家を輩出しています。旧称である東京写真大学の略称「写大」のほうが写真界では通用しているようです。
展覧会は、戦後80年を機に写真家の表現と時代がどのように結びついてきたのかをテーマにしています。そのなかで、とくに写真家・土門拳の戦前・戦後をみていきたいと思います。
1.土門拳
展示されていた約50点の中から土門拳の写真をピックアップした。
(1)戦前
国防体育大会の開会式,神宮外苑 1937年
なぎなた訓練,日本赤十字病院,麻布 1938年
出征,泰明小学校校庭,銀座 1937年
出征兵士を送る,銀座 1937年
兵士(陸戦隊)の行進,銀座 1937年
(2)戦後
託児所の母子,品川区大井町 1952年
ガード下,有楽町 1954年
路傍,銀座 1954年
松葉杖,銀座 1950年
射爆場を見る 1953年
抗議,内灘闘争,石川県 1953年
衝突,砂川闘争,立川市 1955年
内職クリスマス飾り 1954年
逮捕・連行,羽田事件,大田区羽田 1967年
2.土門拳とグラフ誌(プロパガンダ写真)
(1)『NIPPON』
ドイツから帰ってきた名取洋之助は、『光画』に掲載された木村伊兵衛の写真を見て日本に報道写真の拠点をつくる決意をし、1933(昭和8)年、木村に加えて伊奈信男、デザイナーの原弘(1903―1986)らと日本工房を設立する。顧問には林達夫が就いた。翌34(昭和9)年に名取と木村の写真によって日本工房主催による第2回展「報道写真展」を開催する。このとき 伊奈がドイツ語でいう「レポルターゲ・フォト(Reportage Foto)」を「報道写真」と翻訳した。すなわち、写真の読み方をキャ プションによって規定し、さらにそれらをグラフィックに構成することによって新しい意味をつくり出し、その連結によってストーリーを 展開させてひとつのメッセージを明らかにするという方法が示された。
その後、木村、伊奈らは日本工房を退くが、名取は1934年、第二次日本工房を再建し、報道写真を高度に実践する場として大判のグラフ雑誌『NIPPON』創刊する。写真は名取を筆頭に、渡辺義雄 (1907―2000)、藤本四八(1911―2006)、ここに宮内写真場の内弟子を逃げるように出てきた土門拳(1909―1990)が加わる。また、デザイナーとしては、山名文夫 (1897-1980)河野鷹思(1906―1999)、亀倉雄策(1915―1997)が活躍をする。
『NIPPON』は、日本を取り巻く国際情勢の悪化を背景に写真を駆使して日本を紹介するグラフ雑誌としてスタートしたが、1937年の盧溝橋事件以降、日中戦争に到る戦線の拡大に伴い、 ナイーブな日本の文化紹介を越えて、対外プロパガンダ色が強くなっていった。また、当初は思うような売り上げもなく、国際文化振興会から資金援助や業務依頼を受けたことも 対外プロパガンダ色が強くなる原因になっ た。
土門は、入社翌年の1936年に、伊豆での取材写真が『NIPPON』8月号に 「伊豆の週末」という記事で掲載され、これが土門の雑誌掲載デビューとなった。
伊豆湯ヶ島 そば屋「鈴木屋」にあった土門拳の写真(2019年11月撮影)
『NIPPON』創刊号 写真:渡辺義雄 デザイン:山名文夫 |
『NIPPON』第36号表紙、デザイン:亀倉雄策 写真:土門拳
最終号となった36号(44年9月)の表紙は土門拳による「銃後の護り」と題された写真からの一枚で、短パン姿の若者がさっそうと柔軟体操をするカットがアップで使われている。
(2)『写真週報』
『写真週報』は、「カメラを通じて国策をわかりやすく国民に伝える」ことを目的として内閣情報部が1938(昭和13)年に創刊した。その前年に日中戦争が勃発している。写真は日本工房(土門拳など)、国際報道協会(木村伊兵衛、渡辺義雄など)に所属する写真家や、杉山吉良、入江泰吉、林忠彦らが署名入りで掲載された。さらに公募によりライカやコンタックスなどの高級カメラを持つアマチュア写真家を報道写真に取り込もうとした。
創刊号の表紙は、天孫降臨伝説のある高千穂峰と「愛国行進曲」を歌う子供たちをコラージュした写真で、子供たちの写真は木村によるもの。
「愛国行進曲」は内国情報局により「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として 公募され、終戦まで事実上の第二国歌として扱われた。歌詞の一部:
見みよ 東海(とうかい)の 空(そら)あけて
旭日 高たかく輝かゞやけば
天地の正氣 潑溂(はつらつ)と
希望はをどる 大八州
『写真週報』17号(1938年6月)表紙、土門拳「赤十字のもと」 |
『写真週報』17号(1938年6月)の表紙を飾ったのは土門拳の「赤十字のもと」の写真である。
「赤十字のもと 輝く白衣」は土門が日本赤十字病院に一週間通って、ライカとローライで11400枚を撮影した。このシリーズは欧米のグラフ誌にも多数掲載された。
土門は報道写真について、次のように述べている。
「見せるべき相手を常に具体的に持ってゐるといふ点が、報道写真が他の一切の自慰的なお道楽写真と違う重要な性格の一つである」
(3)『LIFE』
『LIFE』は、1936年にアメリカで創刊された写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」といわれ、世界的に影響力を持つ「フォトジャーナリズム」であった。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。よく知られているのは、ロバート・キャパのノルマンディー上陸作戦を取材した写真である。なお、本誌は、テレビ、インターネットの普及とともに役割を終え、2007年に休刊した。
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「海外からの写真ー上海南駅のこの写真を1億3600万人が見た」『LIFE』1937年10月4日号 |
この写真を撮ったのは中国系米国人のH・S・ウォンというカメラマン。「わざわざ赤ん坊を一人にして撮った演出写真」であるとも言われている。
先に「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館 で観た、『LIFE』誌に掲載された日本軍によって空襲された駅で泣き叫ぶ赤ん坊の写真。これは抗日運動に使われ、欧米で反日運動や日本品不買運動が起こる元となった。これを見た名取洋之助は、「蒋介石の宣伝は実にうまいもんだ。日本もこれだよ。これをやらなきゃ世界が味方してくれんよ」と言い、外務省や陸軍に働きかけた。これを契機に東京日日新聞の記者であった*林謙一が内閣情報部に転じて写真宣伝に関する政府代行機関の写真協会設立に携わり、『LIFE』をターゲットとして日本への親和を図る対外宣伝写真の収集に力を注ぎ始めた。写真協会は、名取、木村、渡辺義雄ら日本の写真家のみならず、米国や同盟国の写真家も雇って、日本に利するような写真の配信を図った。
*林謙一(1906-1980)は、東京日日新聞記者を経て、内閣情報部に転じ『写真週報』の創刊に関わる。戦後は、母の生涯を描いた随筆を原作としたNHKの朝ドラ『おはなはん』で知られる。
土門は、『LIFE』について、次のように述べている。
「二百万部の『LIFE』を通じて数百万の人々に訴える対外宣伝の王道が茲に開けてゐるのである」
土門と名取を分かつ出来事がこの『LIFE』を通じて起こる。土門は『婦人画報』に掲載するため、元陸軍大臣の宇垣一成外務大臣を撮影した。この組写真を名取の留守に自らの名前でアメリカに送り、『LIFE』(1938年9月号)に掲載された。クレジットには、「Natori」ではなく、「PHOTO・DOMON」とあった。この版権問題により、「名取は名取、土門は土門で、意地を張り合い、益々こじれて、険悪なものになってしまった」(飯島実、日本工房・専務)
この結果、土門は、1939(昭和14)年日本工房を退社して外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱宅となり、さらに1940年(昭和15)年には、日本報道写真家協会を結成し、常任理事となる。このとき、土門は次のように檄を飛ばしている。
「僕達は云はばカメラを持った憂国の志士として起つのである。その報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとするのである」
(参照):
東京異空間344:プロパガンダ・ポスターなど@東京国立近代美術館&昭和館(2025/9/19)
(4)『FRONT』1942年創刊東方社
名取によって設立された日本工房から脱退した木村伊兵衛、伊奈信男、原弘らは、1934年、中央工房を設立した。その後、1941年、陸軍参謀本部の意向を受けた東方社へと発展していき、1942年、対外宣伝誌『FRONT』を発行した。『FRONT』は国外の地域や民族に対して、日本の国威・軍事力・思想等を誇示する狙いから、最大15か国語で翻訳され、陸海軍と政府の全面協力および、その豊富な資金力により極めて上質な体裁で刊行された。
理事には林達夫(翌年には理事長となる)、岡正雄、岩村忍といった文化人が就き、写真部責任者は木村伊兵衛が担当し、濱谷浩らが写真部に入社し、美術部長は原弘が担当した。
東方社での活動の一環として 、木村伊兵衛は、満州での取材をまとめた写真集、『王道楽土』(装幀は原弘。1943年アルス)を出版した。
「恰も建国七年、治国の基本原則、王道政治が隈なく行き届き、文字通り民族協和、安居楽業の姿が、いたるところでカメラの対象となって展開されておりました」と序文に木村伊兵衛が記しているとおり、現実との乖離を窺わせることのない理想の大地を記録した写真で構成された。
当時の日本は満州国を建設し、この地を「五族協和」「王道楽土」の地として対外的に宣伝していたが、その実態は日本の支配によるものであった。木村伊兵衛が撮影した写真は、このプロパガンダの一面を記録したもである。
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木村伊兵衛『王道楽土』 |
3.写真家たちの戦争責任
戦時中、画家たちは「彩管報国」、すなわち絵筆で国に報いる、として戦争画などを描いたが、それと同じように、写真家たちは「 写真報国」として、国策を写真で伝え、国民に協力(報国)を促すために、戦地の様子や、国民生活を写真に撮った。
画家たちの戦争責任は、すでにみたように、「戦争責任を負うべき者」のリストを公表し 、ついには藤田嗣治を国外に追いやることで、多くは自らの責任を逃れてしまった。
いっぽう、写真家たちは、戦争に加担した過去の言動を十分に総括しなかったとされる。
名取洋之助、木村伊兵衛、土門拳といった戦時中の報道写真(プロパガンダ写真)をリードした写真家たちは、終戦後、その戦争責任をほとんど、厳しく追求されることもなく、自ら語ることもなかった。写真家たちの戦争責任を自己言及している言葉を拾ってみても、自責の念を持つ者もあるが、次のように、「迷う」「静観する」といった後ろ向きのものである。
名取洋之助
名取は、敗戦の時は家族と共に上海にいて、手術を受けた。そこに戦犯になりそうだという話が入り、「やばい、引き揚げよう」ということになり、術後の不如意な体で引き揚げ船に乗って帰国した。その際、軍命により名取の手掛けた膨大なネガと雑誌は一週間かけて焼却処分されたという。
木村伊兵衛
木村は、「戦争の再起が意外におくれたのは、戦争責任をどう処理したものか迷いつづけていたことに起因する」と語っていた」という。
渡辺義雄
渡辺は「自分のことですから積極的ではないが、推されて自然と軍や情報局と関係の深い役回りになったわけでしたから。それで終戦後母校(東京写真専門学校)で人がない折でしたがそこの教壇も断り、社会的に影響のある仕事(発表)は静観する気持ちが強かったのです」(アサヒカメラ1950年5月号)と述べている。
また、1983年、濱谷浩との対談の中で濱谷が写真家に戦犯該当者がいるかと尋ねられ、渡辺は「恐らくいないでしょうね。みんな命ぜられてやる方」でしたから」と答えている。
これら戦時下の報道写真やプロパガンダのための写真に対して、直接関わった写真家たち自身、それらを時代の必要悪ととらえ、自らも積極的な位置を与えようとはしなかった。それゆえ、様々の機関に残されていたネガやプリン トの多くは終戦直後に破棄されてしまった。 (そのためか、今見るこうした写真家たちの写真にはキャパのような、戦場や兵士を言った戦争の場面を撮ったものは少ない)
また、こうした写真家たちと一緒にグラフ誌(=プロパガンダ誌)をつくってきた山名文夫らデザイナーたちも戦争責任については、ほとんど語ることはなかった。
それは、画家たちとは異なり、写真家、そしてデザイナーも当時は社会的地位が高くなかったということがあるのだろう。それゆえ、社会からの批判を受けることもなく、また自ら社会的責任を問う必要もなかったということではないか。
いっぽうで、この当時、プロの写真家というのは写真館か、新聞社のカメラマンぐらいで、フィルムなどの写真材料も統制され、撮影場所も規制されるなどの状況の中で、仕事を得るには、写真家集団を組織化して、軍や政府からの宣伝写真に拠るしかなかったともいえる。そこに、それまでの芸術的写真、サロン写真(土門のいう「お道楽写真」)ではなく、「報道写真」という社会性をもつ新たなジャンルの開拓に向かい、写真家として自負心を持って活動できた。この「報道写真」の持つ性格から、それが国策の「宣伝写真」に転換する。名取は、戦争責任を自覚して、次のように述べている。
「報道写真はイコール宣伝写真であり、宣伝写真には主義主張をもたせるべきだと考えて、軍報道部に協力して写真を制作する過ちを犯したりして終戦を迎えました」
4.写真家たちの戦後
土門拳の場合は、戦争責任に関して自己言及した言葉は見当たらないようだ。しかし、土門が戦後、「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げてリアリズム写真運動を展開したのは、報道写真・プロパガンダ写真の敗戦に伴う「挫折の反動」であったとされる。
土門拳は、戦争がはげしくなる中で室生寺や文楽と いった日本の伝統文化を写真の中にとらえようとする仕事をフリーの立場で情熱的にスタートさせている。しかし、それが日本の写真の流れに影響をもたらすのは戦後になってからのことである。
その他の写真家たちも、被写体を日本文化、肖像などにフォーカスしていく。それは、画家たちが戦争画から、例えば向井潤吉は、田舎の藁葺き屋根の民家に、宮本三郎は裸婦にモティーフを求めたのと同じように。
主な写真家たちの戦後の写真集をピックアップしてみる。
(1)写真家たちの戦後の写真集
名取洋之助(1910-1962)
『岩波写真文庫』編集長 1950-58まで286巻
『麦積山石窟』岩波書店1957年:名取が戦後10年を経て中国を再訪した際に、1000年以上の時をかけて穿たれた190にのぼる石窟と700余体の塑像のある麦積山の石窟を撮影した作品
『ロマネスク 西洋美の始源』慶友社1962年:ロマネスクの芸術や建築に焦点を当てた写真集。柳宗玄の解説文。
土門拳(1909-1990)
『風貌』(アルス社)1953(昭和28)年:肖像写真集
『室生寺』(美術出版社)1954(昭和29)年
『ヒロシマ』を1958(昭和33)年:広島を訪れ、原爆問題をとりあげた作品集
『筑豊のこどもたち』1960 (昭和35)年:筑豊鉱山に暮らす子供たちの生活を撮ったもので、日本におけるリアリズム写真の代表的な写真集
『古寺巡礼』1963年 ライフワークとなる大型カメラによる写真集
木村伊兵衛(1901-1974)
『木村伊兵衛傑作写真集』(1954年)自ら企画した 秋田シリーズ
スナップ写真、ポートレート写真など小型カメラ・ライカによる写真。フランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた。 また、写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じて、アマチュア写真の指導者として土門拳とともにリアリズム写真運動を推進した。
渡辺義雄(1907-2000)
終戦後は建築写真を専門とする。
『伊勢 日本建築の原型』朝日新聞社 1962年
『奈良六大寺大観』岩波書店、1968~73年、全14巻のうち6つの巻を担当
『東宮御所』毎日新聞社 1968年
『宮殿』毎日新聞社 1969年
『帝国ホテル』鹿島研究所出版会 1968年)
90年に開館した東京都写真美術館の初代館長を務めた。
藤本四八(1911-2006)
古寺建築、仏教美術などの撮影に取り組む。
『唐招提寺―建築と彫刻』、『薬師寺―建築と彫刻』日本美術出版1945年
『日本の彫刻』美術出版社 1951-52年
『桂』美術出版社1961年
『装飾古墳』平凡社1964年
杉山吉良(1910-1988)
1942年にアッツ島上陸作戦に従軍。戦後は、先駆的なヌード写真で名をなした。
『アリューシャン戦記』六興商会出版部1943年
『讃歌』丸の内SPセンター1969年
『北限の花アッツ島再訪』文化出版局1979年
『杉山吉良写真集Nude』ノーベル書房1983年
入江泰吉(1905-1992)
『写真週報』第263号(1943年)に掲載された、岡山県の神社の神木が戦時下の物資として供出される様子を捉えた写真が、入江泰吉によるもの。
1945年、奈良の仏像がアメリカに接収されるとの噂を聞き、写真に記録することを決意。以来、奈良大和路の仏像や風景、伝統行事の撮影に専念。
『大和路』東京創元社1958年
『入江泰吉写真全集』全8巻、集英社、1981年
濱谷浩(1915~1999 )
『雪国』は1956(昭和31)年:10年間新潟県の高田に通い雪国の暮らしを民俗学的な視点で記録し続けた。
林忠彦(1918-1990)
1942年、在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立し、日本の宣伝写真を撮影した。
1946年、北京で終戦を迎え、郷里・徳山に復員するも、すぐに上京し、銀座のバー「ルパン」で織田作之助・太宰治・坂口安吾ら文士と知り合い、彼らを撮影する。
『カストリ時代 』:敗戦後の混乱期、粗悪な密造酒・カストリに疲れをいやし、焦土にたくましく生きる人々の姿を活写した写真集
(2)グラフ誌に関わった写真家及びデザイナーの名を冠した賞
戦後、写真界における賞、またデザイン界における賞には、それぞれ戦時中にグラフ誌による戦争協力を行っていた写真家、デザイン家の名を冠したものがある。これらの写真家・デザイン家の個人名が冠された賞は、その作家の活動を顕彰するためのものであるが、彼らは戦中期に政府機関や軍部から依頼を受けた対外宣伝である「報道写真」、そのグラフ誌に関わり、、戦後も、その戦争責任を自ら問うことなく、引き続き活躍した人たちである。
写真家の名を冠した賞
木村伊兵衛賞(朝日新聞社、1975年創設)、伊奈信男賞(ニコン、1976年)、土門拳賞(毎日新聞社、1981年)、名取洋之助写真賞(日本写真家協会、2005年)
デザイナーの名を冠した賞
日本宣伝賞山名(文夫)賞(日本宣伝クラブ→全日本広告連盟、1980年)、原弘賞(東京アートディレクターズクラブ、1988年)、亀倉雄策賞(日本グラフィックデザイナー協会、1999年)、
写大ギャラリーで「戦後は続くよどこまでも」展を観て、とくに土門拳の戦前・戦後の写真から、当時の「報道写真」、グラフ誌などを調べてみました。先に東京国立近代美術館で観た「戦争画」や「 プロパガンダ・ポスター」などと比較して、写真家たちの戦争責任についても考えてみました。戦後80年という今年、これらの写真展、美術展を観て、歴史を振り返ることができました。
(参考):
『報道写真と戦争』白山真理 吉川弘文館 2014年
『戦争と平和<報道写真>が伝えたかったこと』 白山真理 平凡社 2015年
『名取洋之助と日本工房[1931-45]』 白山真理・堀宜雄 岩波書店 2006年
『名取洋之助』白山真理 コロナブックス 平凡社 2014年
『「写真週報」に見る戦時下の日本』保阪正康 監修 世界文化社 2011年
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