庚申塔 |
石神井公園の一角に、ふるさと文化館があり、その横に池淵史跡公園があります。ここには、練馬区内にあった庚申塔などが移設されており、また、明治に造られた茅葺屋根の民家が移設されています。
庚申塔については、以前にいくつかの場所にある庚申塔をみてきました。ここの庚申塔も取り上げています。それぞれの庚申塔の年代などについてパンフレットにより整理してみました。
また、古民家の「旧内田家住宅」についても内部も含め見てきました。
(参照):
1.庚申塔など
庚申塔
1727(享保12)年10月吉日に造立。笠付で、正面に青面金剛像と邪鬼、三猿が刻まれている。
邪鬼 |
庚申塔
1818(文政元)年9月吉日に造立。明王を示す種字(梵字)と「奉造立青面金剛心願成就祈所」と記されている。
庚申塔
1765(明和2)年11月24日に造立。正面に青面金剛像と三猿が刻まれている。左手にはショケラといわれる女人の髪の毛をつかむ。
ショケラ |
邪鬼 |
庚申塔
1841(天保12)年丑年3月吉日に造立。
馬頭観音
1850(嘉永3)年庚戌8月吉日に造立。正面に「馬頭観音」と刻まれている。正面下部にには「向白子道」向かって右側面には「所沢道」、左側面には「田なし大山道」と刻まれ、道標の役割ももっていた。
馬頭観音
1813(文化10)年癸酉2月吉祥に造立。正面には観音の種字(梵字)と、「南無馬頭観世音菩薩」、下部には「東ぞうしがや道」と刻まれている。
庚申塔
1696(元禄9)年の銘があり、練馬区内に残るものとして古い時代のもの。笠付角柱型の庚申塔で、第二次世界大戦中に陸軍飛行場が建設されるまでは、現在の光が丘地区に建っていた。
馬頭観音
1803(享和3)年癸亥2月大吉祥日に造立。正面に馬頭観音の種字(梵字)と「馬頭観音」の文字、向かって右側面には「ねのごんげん道」、左側面には「こぐれ道」と刻まれている。「ねのごんげん道」は円光院(練馬区貫井)の南にあった「子の権現」に向かう道で、「こぐれ道」は「小榑(こぐれ)村」(大泉学園町、西大泉、南大泉)へ向かう道であった。
庚申塔
1720(享保5)年庚子11月吉日に造立。正面に地蔵菩薩の種字(梵字)と庚申講の本尊として祀られる青面金剛像が刻まれている。②馬頭観音とともに道路脇に立っていた。
邪鬼 |
力石
右の石は「四拾八貫」、正面の石は「五拾貫余」、左の石は「力石」と刻まれ、いずれも「田中礼三」という同一人物による。
「力石」は、若者たちが力比べや鍛錬に使うために用いられた。 古い信仰では、石占という、石を持ち上げてその重さの感じ方で、豊作や天候、武運などの吉凶を占う こともあった。
道標
正面に「是ヨリ石神井弁財天」と刻まれており、三宝寺池の畔にある弁財天を示す道標。向かって左側面に「三宝寺江四町」と記され、1町(丁)は約109mであることから、三宝寺まで約400mのところに立っていた。
庚申塔
1703(元禄16)年癸未年」11月18日に造立。正面に青面金剛像と三猿が刻まれている。正面右下に「とく丸道」、左下に「はやせ道」と刻まれ、徳丸村と早瀬の渡し(板橋区新河岸)へ向かう旧道の辻に立っていた。
三猿 |
2.旧内田家住宅
旧内田家住宅は、明治20年代初めに練馬区中村に建てられた茅葺屋根の民家で、部材の一部には江戸時代の古材も使われている。2010(平成22)年に池淵史跡公園に移築復元された。
内部は、ケヤキの大黒柱や太く曲がったマツの化粧梁が使われ、豪放な造りの土間空間と、やや細めの柱が用い、床の間、違い棚、書院を備え、床の間の壁は青い漆喰で仕上げられていて、繊細な造りの座敷空間が併存する構造になっている。明治中期の豪農としての格式が感じられる古民家である。
練馬区域は、かつては茅葺屋根の農家が点在する、江戸・東京の近郊農村でした。そこには、村人が講を作り、庚申信仰などが行われていました。そんな時代を想像させる池淵史跡公園でした。萩の咲いている季節に訪れました。
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