2025年10月23日木曜日

東京異空間354:大正イマジュリの世界@SOMPO美術館

大正イマジュリの世界@SOMPO美術館

大正イマジュリの世界@SOMPO美術館に行ってきました。この展覧会はすでに終わっていて、ブログにアップするのが遅くなりました(会期:8月31日まで。行ったのは8月28日)。

1.大正イマジュリィ

「イマジュリィ(imagerie)」とはイメージ図像を意味するフランス語で、挿絵、ポスター、絵葉書、写真といった大衆的な複製図像の総称でもある。1900-30年代の日本には西洋から新しい複製技術が次々に到来し、雑誌や絵葉書、ポスター、写真などに新鮮で魅力的なイメージがあふれた。これを指して「大正イマジュリィ」と称している。

日本のグラフィックデザインの黎明期であり、 藤島武二、杉浦非水、橋口五葉、竹久夢二などの画家が、いわばデザイナーとしても、この時代に活躍した。いずれも西洋の芸術やアール・ヌーヴォー、アール・デコといった流行の様式に触発されたり、それらを吸収したりして、独自の作風を築いていった。

ここでは、作品が撮影可であった藤島武ニ、杉浦非水、橋口五葉、小村雪岱、東郷青児の主に装幀を取り上げる。あわせて、それぞれの <戦争との関わり>をみてみた。

ポスターの各部分から
小林かいち絵葉書セット「灰色のカーテン」

杉浦非水『非水月刊図案』

小林かいち『二号街の女』

藤島武二『明星』口絵

藤島武二(1867-1943

明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮である。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。

<戦争との関わり>

藤島は日中戦争が始まった1937(昭和12)年時点で70歳を超えており、太平洋戦争中の1943年に死去したため、藤田嗣治などの画家が描いたような、戦場の様子を題材とした「戦争画」は制作していない。しかし、美術界の重鎮として、1937(昭和12)年、満州美術展覧会の審査員として渡満し、蒙古、熱河、北京等を巡遊した。翌年、再び渡満し、軍の委嘱によつて上海、杭州、蘇州等を旅行し、戦跡を写した。紀元二千六百年記念展覧会に病を押して「蒙古高原」を制作して出品した。1942(昭和17)年、第2回聖戦美術展覧会の審査委員長を委嘱された。1938年(昭和13年)、日中開戦後に結成された「大日本陸軍従軍画家協会」の役員に就任するなど、戦時中に軍に協力する団体の役員等を務めた。

『明星』表紙絵 1901(明治34)年

与謝野晶子『昌子短歌全集』口絵1926(大正8)年 新潮社

与謝野晶子『昌子短歌全集』口絵1926(大正8)年 新潮社

与謝野晶子『昌子短歌全集』装幀

与謝野晶子『昌子短歌全集』装幀

与謝野晶子『昌子短歌全集』装幀

杉浦非水(1876-1965

愛媛県松山市の生まれ。日本のグラフィクデザイナーの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人 である。

1908 (明治41)年より三越呉服店の嘱託となり、同店のポスターやPR誌表紙等のデザインを一手に担う。そのほかにもラクトー株式会社(現・カルピス株式会社)や、東京地下鉄道株式会社(現・東京メトロ)のポスターをはじめ、装幀、雑誌表紙、パッケージデザインを多数手がけた。

<戦争との関わり>

非水が戦時中に戦争プロパガンダに直接的に関与したという明確な資料はない。ただ、戦時下においても、非水は多摩美術大学で教壇に立ち、後進の育成にあたっていた。

『三越』1912(明治45)年~1914(大正3)年 三越呉服店

『三越』1912(明治45)年~1914(大正3)年 三越呉服店

菊池幽芳『お夏文代』1915(大正4)年 春陽堂

菊池幽芳『お夏文代』1915(大正4)年 春陽堂

柳川春葉『生さぬなか』上中下巻 1913(大正2)年 金尾文淵堂

柳川春葉『生さぬなか』上中下巻 1913(大正2)年 金尾文淵堂

柳川春葉『生さぬなか』上中下巻 1913(大正2)年 金尾文淵堂

柳川春葉『生さぬなか』上中下巻 1913(大正2)年 金尾文淵堂

柳川春葉『生さぬなか』の挿絵は、鰭崎英朋により、妖艶な美しさを漂わせる女性が描かれている。

(参照):

東京異空間333:「鰭崎英朋」展@太田記念美術館2025/7/9


ペスタロッチ原著『教育小説 愛と操』1914(大正3)年 隆文館

桜井忠温『十字路』1915(大正4)年 新橋堂

笹川臨風『日蓮上人』1912(大正2)年 同文館

橋口五葉(1881-1921

明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍し、最晩年には、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーボー調の装幀本や、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。1911(明治44)年「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。

<戦争との関わり>

戦争との直接的な関係を示す資料はほとんどないが、日露戦争期に画家として活動しており、関連する絵葉書を制作していた時期がある。

(参照):

東京異空間334:橋口五葉のデザイン世界@府中市美術館2025/7/14


『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『音楽』1905(明治38)年 樂友社

『ホトトギス』1905(明治38)年 ほとゝぎす発行所

『ホトトギス』1905(明治38)年 ほとゝぎす発行所

夏目漱石 寸珍『吾輩ハ猫デアル』1911(明治44)年 大倉書店



夏目漱石 寸珍『吾輩ハ猫デアル』1911(明治44)年 大倉書店



夏目漱石 寸珍『吾輩ハ猫デアル』1911(明治44)年 大倉書店



小村雪岱(1887-1940

大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。1914(大正3)年、泉鏡花の『日本橋』の装幀を行ない、以後多くの鏡花作品の装幀、木版多色摺りによる挿絵の仕事を手がけた。 「雪岱」の雅号を与えたのが鏡花である。

<戦争との関わり>

雪岱もまた時局に影響を受け、戦争に関連する作品を手がけている。

『古今戦争画譜』の挿絵1939(昭和14)年(1939年)『サンデー毎日』で連載された『古今戦争画譜』に、挿絵を描いている。

『軍事講談 鐘崎三郎』の挿絵『週刊朝日』の創刊10周年記念号の付録として、小村雪岱が挿絵を描いた『軍事講談 鐘崎三郎』が出版されている。鐘崎三郎は 日清戦争の悲劇の「英雄」とされる。

日露戦争時代の小説の装幀: 泉鏡花の小説『日本橋』(大正3年、1914年)の装幀を手がけており、小説のストーリーには日露戦争に出征する弟を見送る場面が登場する。

三田村鳶魚『大衆文芸評判記』1933(昭和8)年 汎文社

三田村鳶魚『大衆文芸評判記』1933(昭和8)年 汎文社

三田村鳶魚『大衆文芸評判記』1933(昭和8)年 汎文社

三田村鳶魚『大衆文芸評判記』1933(昭和8)年 汎文社

泉鏡花『日本橋』

『軍事講談 鐘崎三郎』 小村雪岱繪 週刊朝日創刊十周年記念号附録

東郷青児(1897-1978

夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。

<戦争との関わり>

当時の多くの芸術家と同様に、国策に協力する形で戦争画を制作した。戦後には戦争の悲しみや哀愁をテーマにした作品『哀愁』(1952年) 『渇』(1953年) も手掛けている。

ジャン・コクトオ『恐るべき子供たち』 東郷青児訳 1930(昭和5)年 白水社

アンドレ・ジッド『窄き門 山内義雄訳 1931(昭和6)白水社

アンドレ・ジッド『窄き門 山内義雄訳 1931(昭和6)白水社


徳田戯二『一番美しく』 1930(昭和5)年 鹽川書房

吉田絃一郎『孤独なる女』 1930(昭和5)年 新潮社

柳澤健『三鞭酒の泡』1934(昭和9)年 日本評論社

作品の撮影は不可であったが、次の3人についても簡記しておく。

高畠華宵(1888-1966

愛媛県宇和島市の生まれ。大正から昭和初期にかけて華やかな美少年・美少女の絵で人気を博した。

<戦争との関わり>

軍国主義的なプロパガンダ色の強い作品も描いた。軍事色の強い絵葉書「武運を祈りて」というタイトルの絵葉書。(4947『日本少年』の口絵「さらば故郷!」は、出征する若者を描いたもの。

口絵《初夏の風》「少女画報」1929(昭和4)年 東京社

《願い》華宵便箋表紙 1925(大正14)年

『少女画報』 1927(昭和2)年 東京社

 「武運を祈りて」絵葉書 愛国恤兵財団助成会/発行


「さらば故郷!」『日本少年』昭和43月号口絵



橘小夢(1892-1970

大正から昭和初期に活躍した画家、イラストレーター、版画家。妖美で退廃的な女性を描いて「日本のビアズリー」と呼ばれた。

戦時下においても、民話や伝説に基づいた妖艶で退廃的な女性像を描き続けた。そのため、

小夢の描く幻想的で耽美な作品は、当時の国家主義的な風潮と相いれず、雑誌に掲載された作品が発禁処分を受けるなど、発表の機会を奪われることもあった。彼の作品の多くは、関東大震災で出版社ごと焼失したり、出版社が原画を紛失したりするなど、散逸してしまった。こうした不遇な境遇と時代の圧力のため、一部の愛好家には熱狂的に支持されながらも、世間から広く知られることはなく「幻の画家」と呼ばれている。

十一谷義三郎「唐人お吉」『名作挿画全集』より1935年 平凡社

《津坂オリエ》1935(昭和10)年頃

小林かいち(1896-1968

木版絵師、図案家である。本名は小林嘉一郎。大正後期から昭和初期にかけて京都で木版絵師として絵葉書、絵封筒などのデザインを手がけた。作風はアール・デコスタイルで叙情性をもち大正ロマンを感じさせるものである。

近年まで性別・生没年・作品点数・私生活などが不明な幻のデザイン画家、謎の叙情版画家とされていたが、2008年に、遺族(かいちの次男)が名乗り出て、経歴が明らかになり、作品も再び脚光を浴びるようになった。しかし、正確な作品点数や私生活などの履歴はいまだにわからず、まだまだ謎の多い幻のデザイン画家とされている。

絵葉書セット《二号街の女》 1925(大正14)年頃 さくら井屋(京都)

今回の展覧会では大正時代の画家兼デザイナーたちの作品が展示されていました。彼等は、いわば日本のグラフィックデザイナーの黎明期にあたります。そのあとに続いた、いわば第二世代は、専門的なデザイナーとして山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などが、写真家たちと協力してグラフ雑誌=対外宣伝誌のデザインを担当しました。そうした大正から戦前のデザインの歩みを観ることができました。

(参照):

東京異空間351:「戦後は続くよどこまでも」展@写大ギャラリー2025/10/17




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