2025年11月25日火曜日

東京異空間365:続・戦争画@東京国立近代美術館

鈴木良三《患者後送と救護班の苦心》

 戦争画については、「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館でまとまって観てきましたが、今回は東京国立近代美術館の所蔵作品展 MOMATコレクショ ンでも観ることができました。これまでの続きとして、まとめてみたいと思います。

(参照):

東京異空間340:戦争画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館2025/8/29

東京異空間243:美術展を巡るⅥ-2~MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/10

1.戦争画:銃後を守る女性

戦争画として描かれるのは、「前線で戦う男性」と「銃後を守る女性」の二つ。良妻賢母として家庭を支える女性たちが、この時代には軍需工場で武器を製造したり、応召して従軍看師として戦場に赴いたりした。

そして、軍部から戦争記録画の制作を依頼されるのは男性画家のみで、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていた。すでに観たように、「女流美術家奉公隊」の隊長として長谷川春子は隊員とともに、銃後に働く女性たちをモチーフにした《大東亜皇国婦女皆働之図》を描いた。これは例外といえる。

鈴木良三《患者後送と救護班の苦心》1943(昭和18)年

戦時中、女性が徴兵されることはなかったが、看護師の女性たちに召集状が届き、戦場や災害現場で救護活動に従事する義務があった。鈴木良三は、医者でもあり、陸軍と日本赤十字社から作戦記録画の制作を以来され、台湾、フィリピン、シンガポール、ビルマなどに取材し、医療現場を題材にした戦争画を複数描いている。







鈴木誠《皇土望遠の軍民防空陣》1945(昭和20)年 

この作品は、1945(昭和20)年310日の東京大空襲の様子を描いたもの。左側には防火に当たる女性たち、右側には避難する人々の姿、中でも幼児を抱え、少女の手を引いて逃げる女性に目が行く。少女のしっかりとした視線、気丈な姿にひきつけられる。








伊原宇三郎《特攻隊内地機知を進発す》1944(昭和19)年 

1944(昭和19)年123日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や華族が描かれている。群衆の中に一人、こちらを見つめる少女、目には涙が浮かんでいるように見える。







主婦之友』  

主婦之友』は、生活情報誌としての実用的な側面を持ちつつも、国策に協力し、戦時体制下における女性の役割銃後の守りを強く意識した編集方針であった。

銃後の女性の姿は、『主婦之友』の表紙や口絵に取り入れられ、そのプロパガンダ効果を高めていた。

寺内萬治郎《白衣の天使応召

寺内萬治郎(1890-1964)は、大阪市の生まれ。黒田清輝に師事する。1942昭和17年、陸軍省派遣画家としてフィリピン、セレベス等に派遣される。 戦後は裸婦像を多く描いたことで知られる。

『主婦之友』の口絵としては他にも、《海ゆかば母の手のような作品がある。

寺内萬治郎《白衣の天使応召》『主婦之友』1939年12月号

寺内萬治郎《白衣の天使応召

寺内萬治郎《海ゆかば主婦之友」

寺内満治郎母の手》「主婦之友」昭和18


「防空必勝の知恵」1943年

『主婦之友』表紙 1944年

2.日本画による戦争画

戦争がはじまると、日本画家も絵筆によって国に貢献する「彩管報国」、絵筆(彩管)で国に報いる(報国)という意味のスローガンにより、日本画家も絵筆によって国に貢献する 。洋画家たちが臨場感に満ちた写実的な描写をしたのに対し、日本画家達が使用する岩絵の具は写実表現には不向きなため、迫真的な描写は見られない。

吉岡堅二《椅子による女》1931(昭和6)年

吉岡堅二(1906-1990)は、東京都本郷の生まれ。父は日本画家。野田九浦に師事する。1939(昭和14)年、陸軍美術協会に参加。福田豊四郎と共に大日本帝国陸軍従軍画家として満州、華北、家中へと赴く。

描かれた女性は、吉岡の妻がモデルで、彼女が来ている洋服はデザインから縫製まで吉岡が自分で作ったもの。日本画ではあるが、モダンさを感じる。



吉岡堅二《母子》1934(昭和9)年

幼子を抱き、空を見上げる母と子。良妻賢母を表わし、空を見上げるのは子どもが将来、空軍のパイロットを目指すのを暗示しているのか。




吉岡堅二《カリジャティ西方の爆撃》1942(昭和17)年 

カリジャティはインドネシアのバンドンの北にあり、オランダ軍の飛行場があった。昭和17年に日本軍は蘭印(オランダ領東インド)を攻略し、オランダ軍は3月にカリジャティで降伏を受け容れている。この時の様子は小磯良平の《カリジャティ会見図》として描かれている。

参照):

東京異空間243:美術展を巡るⅥ-2~MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/10





小磯良平《カリジャティ会見図》
小磯良平《カリジャティ会見図》


吉岡堅二《ブラカンマティ要塞の爆撃》1944(昭和19)年

ブラカンマティは、シンガポール・セントーサ島の旧称で、島の西端にイギリス軍によりシンガポール防御のため1880年代に要塞が築かれた。1942年のシンガポールの戦いで陥落し、1945年まで日本軍の捕虜収容所として使われた。





吉岡の戦争記録画としては、この2点の他、《高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す》(1945年)がある。 

《高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す》


橋本関雪《十二月八日の黄浦江上》1943(昭和18)年

真珠湾攻撃と同じ日、1941年128日、日本軍は上海の共同租界を占領した。この作品はそれを題材にしている。タイトルにある「黄浦江」は上海市内を流れる川である。

橋本雅邦は、日本画による戦争表現について、「洋画の写実を押しつめて行っても、ゆき得ない、日本画の香気と品格とを矜持しつゝ、しかもこの眼でみた現実の世界をえがいてみようと思い立った」と述べている。









川端龍子《洛陽攻略》1944(昭和19)年

中国・洛陽にある龍門石窟奉先寺洞の盧舎那仏に日本軍兵士が洛陽攻略の選考を祈願している。なぜ、中国の仏に日本兵が祈願するのか。それは、当時の日本から見ると、こうした仏たちは従来の保護者である中国人に見捨てられた存在であり、日本が真の庇護者だからこそ、日本の働きに仏たちも力を貸すという発想を持っていたからだっ た。






川端龍子《盗心》 1923(大正12)年

トウモロコシを盗む子どもを描いた作品とされる。




川端龍子については、「時局と画家」@大田区立龍子記念館でまとまって観てきた。

(参照):

東京異空間345:「時局と画家」@大田区立龍子記念館2025/9/25


朝倉摂《うえかえ》1941(昭和16)年 

朝倉摂(1922-2014)は、父が彫刻家の朝倉文夫で、幼いころから英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が生じ、日本画家として生きていく意志を抱き、伊東深水に師事し日本画を学んだ。戦時中は、畑仕事をする銃後の女性たちの姿を度々描いた。

朝倉摂歓び1943年 神奈川県立近代美術館蔵


《うえかえ》は、棕櫚竹のような植物を植え替える男性たちが描かれている。いわゆる「根回し」の作業とみられる。銃後の画題のモデルとして男性が描かれているのは稀有な例とされる。

朝倉摂《うえかえ》1941年


3.日本画家の戦争協力画

日本画家たちは、戦争画そのものを描くのではなく、国威を象徴するような題材を描くことによって、その売上金を軍用機や戦艦の建設のために献納した。

軍用機献納作品展

日本画家報国会は主催したこの展覧会は、1942(昭和17)年に日本橋三越で開催された。作品はすべて三越に買い上げられ、代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められた。

描かれたモチーフは、国土を象徴する富士や桜、国家である菊、戦闘機を暗示する鳥類などには戦勝祈願の意図が、ほかにも歴史画によるナショナリズムの高揚など、時局に合わせた主題が選ばれている。

安田鞍彦《益良男》1942(昭和17)年

「益良男」とは、古代の武士のこと。安田靭彦は「日本画も時に臨んで進んで国家の役目を果たすことは当然必要と思ひます」と語っている。




菊池契月《菊》1942(昭和17)年



宇田荻邨《桜》1942(昭和17)年



橋本関雪《春潮》1942(昭和17)年




太田聴雨《山陽母子》1942(昭和17)年

江戸後期の儒学者・頼山陽と、その母・梅颸 ばいし)を描いた作品。良妻賢母の理想像として示している。梅颸は、「楠母」(楠木正成の母)ともに、模範的な「良妻賢母」像として語られる。




伊藤小坡《春宵》1942(昭和17)年

伊藤小坡(18771968)は、京都を中心に風俗画、美人画を描き、上村松園に次ぐ女性画家として脚光を浴びる。




榎本千花俊《銀嶺》1942(昭和17)年

榎本千花俊(18981973は18歳の時から、 美人画家として定評のある鏑木清方に師事し、東京美術学校日本画科を卒業した。モダンな女性像を特異とした。




戦艦献納展

戦艦献納展は、1944年、東京帝室博物館表慶館で開催された。その2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦二隻を失い、艦献納運動が広がった。献納展には、横山大観、川合玉堂、小林古径、安田靭彦ら日本画の大家が参加した。

小林古径《富士》1944(昭和19)年




横山大観《南溟の夜》1944(昭和19)年



《画帖1》1942-43(昭和17-18)年 

1932(昭和7)年、満州事変の翌年に、日本の傀儡国家として「満州国」が建国された。この画帖は、建国10周年を記念して制作され、当時の総理大臣・東条英機に贈呈された。

鏑木清方

西山翠璋

菊池契月

小林古径

橋本関雪

安田靭彦

前田青邨

《画帖2》  

和田三造

南薫造

藤田嗣治

安井曽太郎

梅原龍三郎

岡部長景

4.戦時下の諸相

山川秀峰《朝鮮婦人》制作年不詳

山川秀峰(1898-1944)は、京都に生まれ、池上秀畝に花鳥画を学び、鏑木清方に美人画を学んだ。

この作品は、朝鮮の伝統的な衣装や女性の姿を描き、占領地・朝鮮を日本の人々に紹介した。




新海竹蔵《砧》1939(昭和14)年

新海竹蔵(1897-1968)は、仏師の家系で、新海竹太郎の甥として山形に生まれる。竹太郎は、竹蔵とともに、朝倉文夫、中原悌二郎など多くの彫刻家を育てた。

この作品も、朝鮮の女性の日常の労働の姿を通して、当時の朝鮮半島の植民地化における異文化を通し、東洋的な精神性を謳う。




和田三造《昭和職業絵尽》1939-41(昭和14-16)年 

伝統的な職人から近代化によって生まれた新しい職業まで、昭和期の働く人々の諸相を捉えたシリーズである。和田の水彩画を原画とし、木版の職人たちが技術を駆使して版画を制作した。少しづつ消えゆくモダンな都市生活や市民の変わらぬ営み、そして戦争のために働く人々など戦時下の日本社会の時勢が色濃く反映されている。

飛行士

紙芝居

紙芝居

旗屋

サラリーマン

サラリーマン
女髪結ひ

保母

ガソリンサービス

ダンサー

ダンサー

ダンサー


和田三造(1883-1967)は、かつては御典医であった父のもと兵庫に生まれる、黒田清輝の書生となり洋画を学ぶ(代表作《南風》1907年)。1276その後、文部省美術留学生として渡欧、その帰途に印度、ビルマなどを回り東洋美術を研究し、1923(大正12)年頃からは本格的に日本画の制作に取り組んだ。

『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956(昭和31年、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている

和田三造《南風》1907

和田三造《南風》1907


今年は、戦後80年ということで、戦争画、プロパガンダ・ポスターなどいくつかの企画展を観てきました。しかし、「戦」後というときに、それは太平洋戦争、大東亜戦争、十五年戦争、アジア・太平洋戦争、さきの戦争など様々に呼ばれる。もはや、ほとんどの人が戦争を知らない世代になっている現在、いかに戦争について知り、考えることができるのでしょうか。

現代が新たな戦争の「戦前」とはならないように。きな臭い匂いがしてきたようにも・・・

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東京異空間365:続・戦争画@東京国立近代美術館

鈴木良三《患者後送と救護班の苦心》   戦争画については、 「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館でまとまって観てきましたが、今回は東京国立近代美術館の 所蔵作品展 MOMAT コレクショ ン でも観ることができました。これまでの続きとして、まとめてみたいと思います...

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