| 世界へのまなざし@国立公文書館 |
世界へのまなざし―江戸時代の海外知識@国立公文書館を観てきました(これもすでに会期は12月7日で終了)。歴史の教科書に出てくるような書籍の実物を見ることができました。
江戸時代は、いわゆる鎖国をしていましたが、海外との窓口を長崎・対馬・薩摩・松前の4か所に限り、それぞれオランダや中国、朝鮮国、琉球王国、アイヌ民族との関係を築いていました。これらに関する書籍が展示されていました。
1.鎖国下の情報
17世紀末、日本を取り巻く東アジア世界は、明から清へと中国王朝が移り変わったことで安定期を迎えた。日本国内でも島原の乱を最後に大きな戦いは終わり、徳川幕府が貫徹することで太平の世が到来し、以後、200年余り、「鎖国」とされる状態が続いた。
しかし、鎖国下にあっても完全に世界から隔絶していたわけではない。どのように海外の情報・知識を得ていたのかをみていく。
新井白石(1657-1725)
6代将軍・家宣の侍講(主君に仕え学問の講義をする)となり、家宣の信任を得て幕政の改革に努めたが、吉宗が8代将軍に就任するとその地位を失い、晩年は著作に励んだ。
『西洋紀聞』
新井白石は、1708(宝永5)年に屋久島へ密入国したイタリア人宣教師・ジョバンニ・シドッチを尋問し、直接、外国事情を聴取し、そこで得た知識をもとに著述した。キリスト教に関する記事を含むため長く新井家に秘匿されてきたが、1793(寛永5)年、幕府の命により献上された。展示資料は、白石の自筆本。
『鎖国論』
『鎖国論』は、エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』(1727年刊)の付録第6璋を長崎に蘭学者・志筑忠雄が翻訳したもの。この本により、幕府の外交姿勢に「鎖国」という言葉が使われるようになった。
『増補華夷通商考』
天文学者・地理学者の西川如見が著した世界地理書で、世界の国々や人々の特徴を、中華・外国・外夷という分類で紹介している。
『増補華夷通商考』の3巻冒頭に掲載されている「地球万国一覧之図」は、西洋系の地理知識を反映しており、「亜細亜諸国」「利未亜(リビア)」「欧羅巴諸国」「北墨米利加諸国」「南墨米利加諸国」「墨瓦蝋尼加(メガラニカ)」(南半球に存在するとされた架空の大陸)の六大州で世界地理が把握されている。
2.鎖国の中の海外
江戸幕府は、海外との窓口を長崎・対馬・薩摩・松前の4か所に限り、国際関係を統制していた。幕府直轄地の長崎で、オランダや清国(中国)の商人と通商関係をもったほか、対馬藩を通して朝鮮国、薩摩藩を通して琉球王国、松前藩を通してアイヌ民族との関係をそれぞれ築いていました。これらの4つの窓口から、世界の様々な文物が国内へと到来した。
(1)朝鮮
1609(慶長14)年、日本と朝鮮との間に己酉約条が締結され、豊臣秀吉の朝鮮新緑依頼断絶していた貿易が再開されることとなった。朝鮮は「通信の国」と位置づけられ朝鮮通信使が来日したほか、対馬藩を通じた外国・貿易が行われた。日朝間の外交の基本姿勢は「交隣」(対等関係にある)とされたが、日朝ともに相手に対して優越感を持ち、相互認識は異なっていた。
『朝鮮人来朝物語』
朝鮮人来朝物語は、1711(正徳元)年、6代将軍・家宣の将軍就任を祝して来日した朝鮮通信使の行列を絵と文字で紹介した資料である。
『朝鮮人来朝之記』
朝鮮との外交は対馬藩が担当し、釜山の倭館が交流の場になっていた。徳川将軍の代替わりを祝して朝鮮通信使が派遣されていた。この資料は、10代将軍・家治の就任祝いに派遣された通信史の幕府側の記録で、献上品には、当時の主要な輸入品であった朝鮮人参が含まれていた。
「国書先導船図巻」
朝鮮通信使は、大坂の淀川河口から京都の淀までは瀬戸内・四国・九州の諸大名が供出した川船に乗った。この時の船は外国使節応接のために華やかに飾られ、多くの見物人が出た。
図は、正徳元年の朝鮮通信使来日の際、豊後国臼杵藩が提供した国書先導船を描いたもの。
(2)琉球
琉球は、1609(慶長14)年の薩摩島津氏の親交により、その属国とされ、1634(寛永11)年には薩摩藩領の一部として石高12万3700石と定められた。しかし、一方で中国王朝の清との関係も継続し、冊封を受けていた。さらに琉球は独立王朝としての体裁も維持し、幕府へ外交使節を派遣する「通信の国」としての面も保持していた。
「宝永七年寅十一月十八日 琉球中山王両使者登城行列」
江戸幕府は、薩摩藩を通じて琉球王国との関係を築いていた。琉球使節は、徳川将軍の代替わりを祝う慶賀使と、琉球王国の襲封(領地を継ぐこと)を謝する謝恩使の2種類があった。この資料は、1710(宝永7)年、6代将軍・家宣の就任を祝う慶賀使と琉球王国の襲封を謝する謝恩使が江戸城に登城した際の行列図である。この時は慶賀使と謝恩使が同時に派遣されたため、江戸時代を通じて最大級の使節団であった。
「掌翰使」
掌翰使とは、琉球国王から徳川将軍に宛てた書状を持参する役職をいう。
(3)オランダ
オランダは外交を伴わない貿易を行う「通商の国」として位置づけられ。1639(寛永16)年に幕府がポルトガル商人らを追放した後は、ヨーロッパ諸国で唯一対日貿易を行った。オランダはポルトガルやスペインと違い、キリスト教の布教は行わなかったため、対日貿易を継続できた。
「長崎立山御役所絵図」
1673(延宝元)年に設置された長崎奉行所を描いた図。
「長崎出島」
長崎は、江戸時代唯一の開港地として幕府から直接支配をうける直轄地であった。オランダ商館のある出島、清国商人の唐人屋敷があり、さまざまな舶来品が集まった。
「阿蘭陀風説書」
「阿蘭陀風説書」とは、長崎に入港するオランダ船が、年に一度、幕府に提出した海外情報の報告書である。前年一年間に起きた広く一般的な海外情報をいくつかの箇条にまとめたものが提出された。江戸時代の海外情報の中でも重要な位置を占め、長崎の阿蘭陀通詞によって和訳され江戸へと送られた。
(4)中国
江戸幕府は、明との国交回復と公貿易再開を模索し続けていたが、実現しなかった。しかし、明に替わって中国を支配した清に対して、幕府は国交を結ぶ意志を持たなかった。というのは、清はもともと「夷」(異民族)とされていた女真族の国家であるため「中華」から「夷」の国に変わった中国の冊封に入ることはあり得ないと考えられたからである。このため、清は民間貿易を接点とした「通商の国」として位置づけられた。展示資料は、1797(寛政9)年の風説書の写しで、フランス革命についての記事がある。
『清俗紀聞』
『清俗紀聞』は、長崎奉行・中川忠英が近藤重蔵らに清の習俗について調査・編纂させたもの。近藤らは、長崎に在留している清国商人に取材して著した。商人たちは江南地方の出身者が多かったため、その地方の習俗が多く紹介されている。
この献上本は、表紙、題箋には刺繍の入った絹が使われ、挿絵には細密な手彩色が加えられている。
「龍船」
5月1日から6日頃、川や湖のある地方では数層の龍の形をした船を浮かべ、銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、数十人が乗り込んで競争した。この始まりは定かではないが、昔、入水自殺した中国戦国時代の楚の政治家・屈原を救出しようとして時の遺俗であるとされる。
(5)アイヌ
アイヌ民族は蝦夷地において狩猟や漁業などを主な生業としていた。1604(慶長9)年、松前氏が幕府から蝦夷地の公益の独占権を認められたことから、アイヌ民族は交易の場が制限され、徐々に松前藩の下に置かれ支配と収奪を受けた。蝦夷地の豊富な水産資源は、特産物として全国に流通するだけでなく、対中国貿易での主要な輸出品となっていた。
『松前志』
『松前志』は、蝦夷地の歴史・地理・風俗・産物に関する解説書で、松前藩の家老・松前広長が著した。この書は、内容が詳細かつ正確で、当時の松前・蝦夷地、カラフトなど北方地誌に関する代表的な書物である。
「アツトシ」
オヒョウなどの皮から作られたアイヌの衣服であるアツトシ(アットゥシ)を描いた図。
(6)象が来た
『安南紀略藁』( 『外国紀聞』所収)
『安南紀略藁』は、安南(現・ベトナム)の歴史・風俗・言語・地誌等に関する書物で、1796(寛政8)年に近藤重蔵が完成させた。この資料には、8代将軍・吉宗が注文し、1728(享保13)年に長崎へやってきた象が描かれている。
長崎へはオス・メス二頭の象が来たが、このうちメスはすぐに死んでしまい、オスは、長崎から江戸へ向かうことになった。途中、京都では御所で天皇・公家たちが見学し、江戸に着いたのは1729(享保14)年となり、この間、象はたちまち大評判となり、象に関する書物が相次いで出版された。
江戸に着いた象は、浜御殿(現・浜離宮)で飼育され、江戸城にもたびたび登城して、吉宗や諸大名に披露された。しかし、飼育の手間や飼育料の問題から、ほどなく武蔵国多摩郡中野村(現・東京都中野区)の百姓へと引き渡された。百姓・源助なる者が成願寺のそばの敷地に象小屋を建て、飼育したが、2年後の1743年に病死した。
(参照):
東京異空間306:桜満開13~浜離宮恩賜庭園の歴史(2025/4/27)
『馴象編』
馴象編は、江戸の林家を中心に編まれた象に関する漢詩集で、江戸に象が到着した直後の享保14年6月に刊行されている。
3.吉宗と世界の知
吉宗は書籍の輸入に積極的で多くの漢籍を輸入し、自ら文献に目を通すばかりでなく、各分野の学者に命じて注釈書や和訳本を作成し、知識の普及を図り、物産の開発や法の整備などの政策を遂行した。
また、吉宗は漢訳洋書(漢文に翻訳された洋書)の輸入禁止措置を緩和し、キリスト教義の記述がない科学技術書や地誌などの漢訳洋書の輸入と、国内での一般販売を許可した。これにより、国内に西洋科学が本格的に受容されるようになり、蘭学をはじめとする学問の興隆につながることとなった。
| 8代将軍・徳川吉宗 |
『御書物方日記』
『御書物方日記』は、将軍の図書館である紅葉山文庫を管理する書物奉行が作成した約150年間の業務記録である。
この資料は、1722(享保7)年に長崎経由で中国から輸入された清国の法律書『大清会典』141冊の出納記事である。
『舶来書籍大意書』
幕府はキリスト教を禁止していたため、キリスト教の教義を説く書籍が国内に流入しないよう、長崎に来航する中国船籍が運んできた書籍については、長崎奉行所下の書物改役が内容をチェックしていた。この資料は、書物改役を務めた向井元仲が作成した輸入書籍に対する大意書である。
「中島聖堂遺構大学門」
書物改めは、1630(寛永7)年より始まり、以後約230年続いた。この仕事は、はじめ春徳寺の僧侶が行ったが、後に中島聖堂祭主・向井家が世襲で務めた。輸入された書籍は、中島聖堂に運び込まれ、1ページずつ調べられた。なお、蘭書については書物改めが行われた形跡はない。
『六諭衍義』
『六諭衍義』は、明の初代皇帝・洪武帝の勅諭を平易に訳したもの。六諭とは、父母への孝行など、人々が守るべき6つの教訓をいう。
吉宗は、薩摩藩主・島津吉貴から琉球で出版された『六諭衍義』を献上された。この本が民衆教化に有用であると考えた吉宗は、儒学者・荻生徂徠に命じてこれを訓点を加えさせ、1721(享保6)年に刊行した。
『首書画画入六諭衍義大意』
『六諭衍義大意』の本文に加え、関連する逸話とその挿絵を載せている。この資料は、「郷里和睦」の項目に描かれたもので、周囲の迷惑を顧みずに自分勝手にふるまう沈冨民親子に天罰が下る様子が描かれている。
『東医宝鑑』
『東医宝鑑』は、李氏朝鮮時代の医書で、1613年に刊行され、 朝鮮第一の医書として評価が高く、中国、日本を含め広く流布した。吉宗の命で1724(享保9)年に日本版が刊行された。吉宗は『東医宝鑑』を座右の書とし、その内容を参考に朝鮮人参の国産化や医療改革を進めた。具体的には、『東医宝鑑』の翻訳を推進し、朝鮮からの薬材調査を命じ、小石川薬園での栽培、人参製法所の設置、庶民のための小石川養生所の開設など、「享保の改革」における医療・薬草政策の基盤とした。
「田村藍水」(1718-1776)
朝鮮人参は、あらゆる病気に効能がある万能薬と信じられていたが、対馬藩を通じてもたらされる朝鮮人参の量は限られており、その価格は常に高騰していた。そこで、朝鮮人参を国産化し、安定的かつ安価に供給できるようにすることは吉宗の悲願でもあった。吉宗は対馬藩を通じ、朝鮮人参の苗を入手し、栽培を始めた。その朝鮮人参の国産化に大きく貢献したのが田村藍水で、「人参博士」と称されていた。
『朝鮮人参耕作記』
『朝鮮人参耕作記』は、田村藍水が朝鮮人参の栽培方法について、図と漢字かな交じり文で著したもの。田村は、1737(元文)年、幕府から朝鮮人参の種子20粒を下賜され、栽培に努め、国産人参の栽培・製造の第一人者となった。
「野呂元丈」(1693-1761)
野呂元丈と青木昆陽は、吉宗の命を受けオランダ語の学習を始め、毎年江戸へ参府するオランダ商館長らを訪問し、オランダ語の学習に勤めた。彼等のオランダ語は拙さのあるものであったが、近世蘭学の先駆けとして、前野良沢(1723-1803)ら次世代の人々の継承された。
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| 野呂元丈(ウィキペディアより) |
『阿蘭陀本草和解』
吉宗の命を受け、幕府の医官で本草学者でもあった野呂元丈がヨンストン『動物図説』と、ドドネウス『草木誌』を抄訳したもので、薬草のオランダ名、ラテン名、和名や効能などが記されている。元丈は、毎年江戸へ参府するオランダ商館長に随行したオランダ人医師らに内容を質疑しながら訳出した。
「青木昆陽」(1698-1769)
魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。昆陽は甘藷を栽培して救荒食とすべきことを8代将軍・吉宗に上書し、これが認められ、1736年には薩摩芋御用掛を拝命し、身分が幕臣となった。
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| 青木昆陽(ウィキペディアより) |
『和蘭話訳後集』
この資料は、青木昆陽の自筆献上本で、オランダ語の上にカナで読み方を書き、単語ごとに訳出している。
「三つの風車の図」 (『古今図書集成』)
1736(元文元)年、『古今図書集成』(清の時代に編纂された中国最大の百科事典)の絵図のみを抜きだした『図書集成絵図』という書物が長崎へ到来した。吉宗はすぐに調査を命じ、深見有隣と桂山彩厳は、ここに描かれた風車などの図が『遠西奇器図説録最』から採録されたものであることを確認し報告書を作成した。
4.知のネットワーク
吉宗の次の世代には、自ら海外情報を積極的に集める人も登場し、彼らは身分を超えた同好の士の集まりとして サロンを作るなど、様々な世界の学問を学ぼうと知のネットワークを広げた。
『北夷分界余話』
北夷分界余話は、間宮林蔵がカラフト調査について、林蔵が口述したのもを松前奉行所同心・村上貞助が編集・筆録した。彩色図96図を用いてカラフトアイヌの人々の生活が忠実に描かれている。
「雪ぞり」
犬ぞりの制御が下手な者は4~5頭、巧みな者は8~10頭を使いソリを動かした。犬たちも本州の犬とは違い、ソリを引くことを好んでいると林蔵は書き残している。
「ニヴフの女性」
カラフトアイヌ以外の民族についても描かれている。スメレンクルという人々(ニヴフ)は、満州との交易を盛んに行い、衣服は獣や魚の皮も用いていたが、木綿のものも多く身に着けていた。
「朽木昌綱(1750-1802)と木村蒹葭堂(1736-1802)」
朽木昌綱は、丹波国福知山藩の第8代藩主。福知山藩・朽木家9代。前野良沢に学んだ蘭学によるヨーロッパ地誌・世界地理の研究者、貨幣コレクター。 義兄であり茶人大名だった松前藩主・松平不昧の茶道の弟子にもなり、画家・酒井抱一などとも交流があるなど、いわゆる文人大名としても名を馳せた。
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| 朽木昌綱(ウィキペディアより) |
『西洋銭譜』 マリア・テレジアのターレル銀貨(矢印)
丹波福知山藩8代藩主・朽木昌綱が海外の金銀銅貨、約140種を国別に紹介したもの。朽木昌綱が木村蒹葭堂に宛てた手紙には、西洋銭譜の下書きが完成したので、蒹葭堂に意見を求めたい旨が書かれている。蒹葭堂もまた国内随一の蒐集家として古銭コレクションしていた。
「木村蒹葭堂」(1736-1802)
大坂の商人、本草学者、文人、蒐集家。 蒹葭とは葦のことであり、邸内の井戸から出た古葦根に因んで付けたという。「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。 蒹葭堂が蒐集した書画、転籍、標本類は全国的にも知られ、日々訪問客が絶えなかったという。これら巨費を投じた蒐集品は、死後500両で昌平坂学問所に収められた。
『一角纂考』
一角纂考は 木村蒹葭堂が著したイッカクの専門書である。イッカクは、北極圏に生息する小型のクジラで、イッカクの牙が想像上の動物である「一角獣の角」とされ、強い解毒作用があると信じられていた。
「平賀源内」(1728-1779)
本草・物産学者、戯作者で、讃岐に生まれ、高松藩に仕えた。後、長崎や大坂で学び、江戸に出て田村藍水を師とし、林家にも学んだ。1761年、高松藩を辞して終生浪人として過ごした。1779年、過って人を殺し、その後小伝馬町の牢内で病死した。
『紅毛雑話』
『紅毛雑話』は、 蘭学者で戯作者の森島中良が、阿蘭陀に関する地理や事柄を紹介したもの。この資料は、平賀源内がエレキテルの実験をしているところを描いている。
『物類品隲』
『物類品隲』は平賀源内が著した本草書で、源内らが主催した薬品会の出品物の中から外国産のものも含め360種の自然物が取り上げられている。
『泰西図説』
『泰西図説』は、朽木昌綱が、前野良沢、オランダ商館長・ティツィング、オランダ通詞・荒井庄三郎らの助力を得て著した世界地理書である。
『訂正増訳采覧異言』
『訂正増訳采覧異言』は、土浦藩士・山村昌永が1802(享保2)年に新井白石の『采覧異言』を訂正・増訳してまとめた世界地理書である。昌永は、訂正・増訳するにあたって、オランダ語だけでなく英語やラテン語など西洋書物は32点、さらに中国漢籍は42点、和書は52点に上り、卓越した語学力を持っていた。本書は白石の『采覧異言』を訂正・増訳したという形をとっているが、白石以来約90年間の地理的知識を踏まえた新著に近いものとなっている。
『満文強解』
『満文強解』は、1804(文化元)年、通商を求めて長崎に来航したロシア使節・レザノフが持参した国書の写しを、高橋景保が訳したもの。レザノフの国書は、満州語で書かれていたが、当時国内には満州語を解読できる人はいなかった。翻訳を命じられた景保は、紅葉山文庫所蔵の『御製増訂清文鑑』を参考に翻訳作業をすすめ、この書にない語については、その意味を推測して国書全体を訳した。資料では、右側に漢訳、左側に満州語の発音を朱で記している。
高橋景保(1785-1829)
高橋景保は、天文学者で、番所和解御用の創設につとめ、書物奉行、天文方筆頭になった。伊能忠敬の全国測量事業や世界地図作成などさまざまな方面で活躍した多才な人物であったが、*シーボルト事件に連座し、獄中死した。
*シーボルト事件:
江戸時代後期の1828年に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、国防上の理由から日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」などを持ち出そうとして発覚し、国外追放処分を受けた事件。
『寛政暦書』
吉宗は、西洋の天文学を用いた暦の導入を目指していたが、存命中には実現しなかった。その遺志を継いだ松平定信が企画し、高橋至時と間重富らが西洋天文学の漢訳書『暦象考成』を用いて完成させた。この暦は太陽と月について、ケプラー楕円軌道まで考慮に入れたものであった。展示資料は、表紙の装幀も豪華な献上本。
「垂揺球儀」
寛政暦の完成には、西洋天文学の理論の導入だけでなく、天体観測の精度も大きく関わっていた。至時と重富は、師・麻田剛立とともに、天体観測機器の開発・改良を行っていた。重富の代表作が「垂揺球儀」で、これは振り子の振動で時間を図る機械で、一日の誤差がほとんどないという精密さであった。
江戸時代の鎖国の中でも海外の情報・知識を求めて、様々な知的努力をしてきた成果がこれらの書籍です。これらの書籍を観て、そしてブログに整理することで、江戸時代の歴史の勉強をおさらいし、深めることができたように思います。



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