2025年4月27日日曜日

東京異空間306:桜満開13~浜離宮恩賜庭園の歴史

 

『江戸浴恩園全圖』

前回は、浜離宮庭園の桜を観てきましたが、浜離宮の歴史についても調べてみました。江戸時代は将軍の庭として、明治に入ると天皇の庭として、政治的、外交的、また軍事的に利用されてきた歴史を垣間見ることが出来ました。

あわせて、浜離宮の隣にあった今は観ることのできない浴恩園についても訪れてみました。

(参照):

東京異空間305:桜満開12~浜離宮恩賜庭園2025/4/23

1.庭園の歴史

徳川家康は江戸入府し、江戸城の前の海・日比谷を埋立て、さらに浜離宮のある一体も埋立をして城下の整備を図った。それまで、現・浜離宮庭園のあるこの辺りは蘆のはえた鷹狩り場であった。それを埋立て、海岸防備のための軍事的配置を考えた都市づくりが進められた。

以来、江戸時代は「浜屋敷」から「浜御殿」さらに幕末には「海軍所」へ、明治維新になると「浜離宮」となり、現在の「浜離宮恩賜庭園」として一般に公開される場所となっている。その歴史の一端を見ていく。

(1)綱重の時代:「浜屋敷」

現在の浜離宮庭園は、4代将軍・家綱が弟である甲府藩主松平綱重の下屋敷として与えたのに始まる(1652年)。現・日比谷公園に上屋敷があったことから、賜邸された埋立て下屋敷は「甲府殿浜屋敷」あるいは「海手屋敷」と呼ばれた。以後、1704年まで 「浜屋敷」として続いた。この時代に、友町と庭づくりの名人とされる玄斎の二人により庭が整された。甲府宰相・綱重の没後は子の綱豊が継いだ。

(2)綱豊の時代:「浜御殿」:将軍の庭

5代将軍・綱吉には男子がいなかったので、綱吉は1704年、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと江戸城に迎えた。綱豊は6代将軍・家宣となり、「浜屋敷」は「浜御殿」と呼ばれるようになり、これより160年間、明治維新まで「将軍の庭」として歴史を刻むことになる。

綱吉の時代:

綱吉は将軍家の別邸の庭として、1707年、浜御殿の大改造を行い、中島の茶屋、海手茶屋、清水の茶屋、観音堂、庚申堂、大手門橋などが造られた。御浜御殿は一新し、浜御殿預り(後に御浜御殿奉行に改称)を置いた。

〇吉宗の時代

8代将軍・吉宗はいわゆる「享保の改革」(1716-1721)を行った。幕府財政の建て直しのため、「浜御殿」も影響を受け、浜御殿奉行所の役人を162名から25名にする大幅な人員整理が行われるなど、さまざまな改革が実行された。浜御殿には、実用性を重視し、茶屋に変わって織殿が造られ、庭には薬草園が造られたり、サトウキビが植えられ、製糖所なども造られた。

そうした中、ヴェトナムから象がやってきて江戸中がフィーバーした。その象が飼育されたのが浜御殿であった。

<象、江戸へ>

1728年、ヴェトナムから雄雌二頭の象が長崎に到着した。これは吉宗が注文したもので、吉宗は白像が欲しかったが、普通の象であった。長崎で二頭のうち雌の象が死に、雄の象が長崎から江戸への旅をした。途中、京都では中御門天皇の上覧に供している。上覧には名目上だけでも、五位以上の位が必要であったことから、従4位という高い位が与えられた。これは並みの大名も及ばない高い位であった。称して「従4位広南白像」という。象は桜田門から江戸城に入り、吉宗が上覧した。その後、浜御殿でこの象が飼育されることとなった。飼育料として金200両を計上したが、質素倹約のため、民間に払い下げされ、結局、浜御殿で12年飼育されたあと、中野村(現・中野区)の源助なる者が成願寺のそばの敷地に象小屋を建て、飼育されることになった。しかし、2年後の1743年に病死した。

象の遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ与えられた象の骨や牙は、なお見世物として25年もの間、源助に収入をもたらしたという。骨と牙はその後、中野の宝仙寺に納められ、宝仙寺ではこれらを寺宝としていたが、東京大空襲で焼けてしまった。焼け跡から掘り起こされた燃え残りは、現在、誰の目にも触れることなく、宝仙寺に「秘仏」ならず「秘象」ということで、秘蔵?されているという。

(参考):

『象の旅 長崎から江戸へ』石坂晶三 新潮社 1992

従四位広南白象

「享保の象」と言われ、江戸到着時の姿を描いたもの


〇家斉の時代

11代将軍・家斉によって燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番堀腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などが造られたまた、尚武のための鷹狩りは、鴨場を利用した放鷹となり、鴨場の池には色々な工夫が施された。さらに汐入の庭では、御台様(奥方様)が魚釣りを楽しむこともあった。1787-1837年の50年間浜御殿が最も整備された時代であり、もっとも催し事があった時代であった。家斉は在職20年間に、浜御殿に90回以上も訪れている。この時代は 「遊興の庭」と呼べるようなものであった。

鷹狩り


(3)幕末の時代:「海軍所」

1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に入港し、江戸は大混乱に陥った。幕府は各藩に出兵を命じ、沿岸の警備に当たらせた。浜御殿も護岸の上に「大筒」を据え、海岸防備の一翼を担った。この混乱により、庭は荒れ果ててしまったが、そうした中、ペリーがもたらした西洋技術のひとつ、電信機の実験が浜御殿で行われた。

<モールス電信機の実験>

ペリーは来航した際に、蒸気機関車(模型)や電信機を献上した。横浜で通信実験をしたが、電信機は取扱いが非常に複雑で、当時の日本人の手におえなかったため、一度も運用されなかったといわれ、その後、竹橋の蕃書取調所にしまい込まれたままとなっていた。

しかし、翌年、オランダが モールス電信機 2 台を将軍献上用として長崎奉行に贈呈した。長崎奉行からの上申を受け、幕府老中は竹橋にあるペリー献上の電信機の組立てを命じたが、部品がなかったり、サビがついていたりして、手のほどこしよ うがない状態であった。 そこで、オランダ献上の電信機を、機械組立て、通信技術は蕃書翻訳御用の勝麟太郎(海舟)と小田又蔵に申し付けて、日本人の手による最初の電信機実験が浜御殿で行われることとなった。浜御殿の浜の茶屋から松の茶屋の間約 200m に電信線が張られて両所に電信機を取付け、その実験を13代将軍・家定の上覧に供した。

勝麟太郎らは、この電信実験の天覧にあたり、ペリーが日本に来る前の1844 年に米国がモールス通信の実験を成功させた時のメッセージ 「What hath God wrought」(聖書から引用した古語で、意味は「神が成した もの」)が有名な電文とされていることをふまえ、今回も語り継がれる電文にすべきと、次のような日本的な祝い言葉を上覧用送受に使用することにした

「将軍上覧のトキ送信スベキ文字」:

・テンチワゴウ(天地和合) ・ツルカメ(鶴亀) ・ワカノウラ(和歌の浦) ・ウメマツタケ(梅松竹) ・コンニチブジ(今日無事) ・スミダカワ(隅田川) ・バンゼイラク(萬歳楽)

これにより、勝麟太郎(海舟)は日本人で初の電信通信士のひとりとなったわけである。

「ペリー提督が献上したエンボッシング・モールス電信機」 郵政博物館蔵

<海軍所>

幕末の動乱の中、浜御殿はついに海岸防備のための軍事施設として「海軍所」となる。

14代将軍・家茂は在職9年の間(1858-1866)、攘夷と開国、財政悪化などで休息の場は無かった。1866(慶応2)年、第二次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れ、薨去した。遺体は海路江戸に運ばれ、家茂の棺を乗せた船が浜御殿のお上がり場から上陸した。

こうした状況の中、 1866(慶応2)年、御浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止し海軍奉行となり、翌年には、「御浜御殿」の名称が取止めとなった。

また1866(慶応2)年には、幕府海軍伝習屯所として、「石室」と呼ばれる石造りの建物が造られ、1867(明治2)年明に改修され、「延遼館」となった(後述)。

「大君の夏の別荘 」F.ベアト撮影



(3)明治の時代:「浜離宮」

維新後は、江戸から東京になり、徳川家から明治天皇に変わり、年号も明治となる。「浜御殿」は「浜離宮」となり、軍事的利用から外国からの賓客などの接待場として利用されるようになる。

1867(明治2)年、英国王子エジンバラ公を迎えるため、浜離宮の整備が行われた。中島の茶屋、燕の茶屋、鷹の茶屋、汐見の茶屋、お伝い橋、馬見所、水門、お上り場、外構などは改造される一方、奥向休憩所、膳所、観音堂、庚申堂、漬家、元船蔵、仮建物、稲荷社などは処分する施設として入札にかけられた。

また、同じ年、明治政府は初の外賓を迎えるにあたり、幕末に海軍施設として建設された石造の建築「石室」を改修して迎賓施設とし、「延遼館」と命名した。この建物は、日本で最初の西欧式の石造建築であったが、「石室」といえども、建物全体が石で造られているものではなく、ほとんどの構造は木造で、壁だけを凝灰岩で積み、屋根は瓦葺であった。「延遼館」の名は、遠来の客を引き寄せる宿舎という、意味と願いが込められていた。

エディンバラ公は、724日、横浜港に上陸したのち、翌日には延遼館に到着し、83日、浜離宮内の波止場から乗船し、横浜港へ戻り出港した。その間、延遼館に宿泊し、明治天皇と対面するなど国賓としての接遇を受けた。

エディンバラ公を迎えるにあたり、英国公使・パークスとその段取り、接待条件などの交渉を担ったのは、宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり、1818-1892)であった。宗城は、明治政府として初めての国賓をどう接遇するか、前例のない外交交渉に力を発揮した。パークスとも信頼関係を築き、接待役として活躍した。のちに、国賓として、グラント将軍などを迎えるにあたっても接待掛となり、グラントの世話を焼いた。宗城の交渉力、接遇力が不平等条約の改正 を懸案とする明治政府の外交に貢献するところが多かったとされる。

「延遼館」

東京諸官署名所集 芝御浜延遼館

伊達宗城 

 正装の伊達宗城(1891年撮影)

<グラント将軍の滞在>

グラント将軍(1822-1885)は、北軍の総司令官として南北戦争に勝利し、後に18代アメリカ大統領となった人物であり、大統領を辞任したのち世界周遊の旅に出た。旅の帰途、1879 (明治12)年7月に長崎に入港後、横浜に上陸し、特別列車で新橋駅に着いた。出迎えたのは、岩倉具視、伊藤博文、西郷従道、井上馨らであった。グラントの馬車は儀仗兵を従えて延遼館に到着し、ここに2か月滞在した。なお、グラントは、岩倉視察団が渡米(18711873年)した際の大統領であった。

また、出迎えた中には、東京商業会議所会頭を務めていた澁澤栄一もいた。澁澤は、その後飛鳥山自邸で歓迎の午餐会を開催したり、上野公園における歓迎会では御臨幸委員総代を務めている。ちなみに、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にある絵画「グラント将軍ト御対話」は、1879年(明治12年)810日の 、浜離宮・中島御茶屋での明治天皇とグラント将軍との対話の様子を描いている。描いたのは大久保作次郎で、これを奉納したのは澁澤栄一である。

延遼館を宿泊先とした国賓はエディンバラ公をはじめとして、グラント将軍、ハワイ王国・カラカウアなど13名に及び、浜離宮は「迎賓の庭」として利用された。また、明治天皇が延遼館に行幸されたのは、こうした国賓を訪ねるためのほかに、浜離宮の風光を楽しむためや、官吏などに食事を賜い、慰労するためなどを加えると、24回に及ぶ。なお、その食卓を受け持ったのは、築地精養軒であった。

(参考):

『グラント将軍 日本訪問記』宮永孝 訳 雄松堂書店 昭和58

「グラント将軍ト御対話」


<延遼館の復元?>

延遼館は明治22年に老朽化のため取り壊され、「迎賓の庭」としての役目を終えた。しかし、ずっと時代が下って平成になって2020東京オリンピックに向け、当時の東京都知事・舛添要一(201416年)により、「おもてなし」の迎賓館として復元されることが検討されたが、舛添が自身の公私混同問題で失職し、都知事が小池百合子に変わり、東京オリンピックもコロナ禍により延期されるなど、この復元の話も消えてしまったようだ。

延遼館は、グラント将軍を迎えるにあたり、改修が行われ、内部装飾などにジョサイア・コンドルの手が加えられたという。もし、東京オリンピックに合わせ、建物が復元されていたら・・・と思う。

(参考):

『延遼館の時代 明治ニッポンおもてなし事始め』東京都公文書館 編 平成28

この本は、オリンピックに向けて延遼館の復元のために、これまで解明の進んでいなかった延遼館の歴史について資料調査が行われ、その成果としてまとめられたようだ。


さて、時代を戻ると、浜離宮は関東大震災(1923大正12年)により大きな被害を受け、庭の各所から火災が発生し、大手門の渡り櫓、大手門橋、汐見茶屋が焼失、大泉水の縁石積みが崩れた。幸いにも、園景の中心となる中島の茶屋はじめ多くの亭宇は災害から免れた。しかし、さらに東京大空襲(1945昭和20年)により、一帯は火の海となり、浜離宮は火に包まれ、樹木も焼け焦げ、焼け残った物は殆どなかった。中島の茶屋、鷹の茶屋、松の茶屋、燕の茶屋といった歴史的建物は全て焼失し、稲荷だけが残ったという。

戦後、1945(昭和20)年11月に 浜離宮は東京都に下賜された。翌年41日に都民の公園として開園された。 しかし、東京都に移ったが、昭和22年にはGHQにより米軍の基地とされ、無期限軍事演習が行われ、園内は演習でトラックやジープで乗り廻され荒らされた。また、米兵が街の女性たちを連れて来て、園内はこうした女性の溜まり場となったという。その後、園内の改修が行われ、翌昭和23年には、名勝及び史跡として指定された。

(参考):

『浜離宮庭園』小杉雄三 東京都公園文庫12 郷学舎 1981

『将軍の庭ー浜離宮と幕末政治の風景』水谷三公 中央公論新社 2002

『江戸大名庭園は挑む』菊池正芳 はる書房 2023

2.松平定信の時代:浴恩園の桜

延遼館の復元は実現しなかったが、もうひとつ、復元されたら・・・という庭園がある。それが浜離宮のお隣、元の築地中央卸売市場にあった「浴恩園」である。今では、市場も豊洲に移転し、跡地は更地になっていて、かつて名園があったという面影は全くないが、資料を参考に浴恩園を訪ねてみる。

浴恩園は、松平定信(1759-1829)の屋敷に造られた庭園である。この地は、相模国小田原藩2代藩主・稲葉正則が拝領した中屋敷の添地として、1663(寛文3)年に庭園が築かれ、「江風山月樓を名付けられた。当時、この地は海浜に面しており、江上の清風と山間の名月を望む景勝地であった。

1792(寛政4)年に松平定信に屋敷地の大半が分与 され、定信が55歳で家督を譲って隠居して、下屋敷として再整備した庭園を「浴恩園」と名付けた。この名は、 一橋家の御恩に浴する意を表している。定信は「楽翁」と号して園内に居「千秋館」を構えて作庭を進め、浴恩園は「天下の名庭園」とうたわれた。

定信といえば、白河藩3代 藩主として藩政はもとより、11代将軍家斉の老中として幕政改革である「寛政の改革」を推進したことで知られている。そうした政治家としての活躍とともに、200点近くの著作を残し、かつ5つもの庭園を造り上げるという優れた文化人としての顔がある。

庭園は「浴恩園」をはじめ江戸に「六園」(大塚)、「海荘」(深川)を造り、領地である白河に「小峰常三郭四園」(白河城三の丸)、「南湖」(白河南部)をそれぞれ造っている。

なお、白河の南湖は、定信作庭の庭園で唯一現存する遺構である。定信の詠んだ和歌、「山水の高き低きもへだてなく共に樂しき圓居すらしも」が示す通り、この庭園は当初から庶民の慰楽を目的として設計されていた。当時の大名庭園がもっぱら支配階級の独占物であったのに対し、階級を超越した開放性を求めていた。定信にとって庭園はイコール楽園であったようだ。

また、江戸の庭園には桜を植え、その花の香り、色、枝付き、実の付き方などの特徴や開花時期を自ら調べる「博物学者・定信」の顔がある。もちろん、庭園には桜のみならず様々な花を植え、庭の様子を「浴恩園真景図」として、星野文良(谷文晁の門人)に描かせている。また「桜花図譜」も描かせ、その数、なんと125種類に及ぶという。

絵画については、谷文晁をお抱え絵師として、やはり「真景図」として各地の風景を描かせている。これは外国からの海防のためともいわれる。また、亜欧堂田善を見出し、谷文晁に学ばせ銅版画といった西洋画を描かせている。銅版画もその精緻さから、地図など海防上での利点の効果も期待していたという。なお、「亜欧堂」という名も定信が付けた。

さらに、浮世絵にも親しみ、鍬形蕙斎に江戸で暮らすさまざまな職業の人々を 描かせた《近世職人尽絵詞》がある。自らも、絵を描くとともに、古画古物の模写約2000点から成る図録集『集古十種』85巻を編纂している。これは、全国規模で初めて国内の文化財保護を目的とした、今でいう「アーカィブ」を作成したものである。

著書には、『花月草紙』、『宇下人言(うげのひとこと)』があり、 『宇下人言』というのは定信の字を分解して付けている(定⇒宇下、信⇒人言)。 また、定信は、庭を散策しながら和歌を詠み、それを日記に書き付けた『花月日記』を残している。

このように定信は政治家だけでなく、優れた文化人として功績を残している。しかし、浴恩園は1829の文政の大火で消失し、同年に定信も亡くなった。

浴恩園は、明治維新後には、跡地に海軍兵学校や海軍病院等などが設置されたが、その海軍関連施設も、1923(大正12)年に起きた関東大震災で壊滅状態になった。同じように甚大な被害を受けた日本橋の魚市場が築地のこの地に移転することになり、庭の池などは埋め立てられた。その後、1935年に開場した築地市場は2018年に閉鎖して、豊洲に移転し、浴恩園は現在は「浴恩園跡」という看板が残るのみとなっている。

浴恩園を築地市場跡地に再生させたいと願う声もあるようだが、東京都は、築地の再開発について、2022年に事業実施方針を策定し、2024年4月 には、事業予定者を三井不動産を代表とする企業グループに決定、2025年3月に基本協定を締結している。事業予定者の提案書では、約5万人収容のイベント・スポーツ施設や、ホテル、高層ビル、ヘリポートなどを作る計画になっていることから、天下の名園とうたわれた浴恩園をみることは夢と終るようだ。

澁澤栄一は、『楽翁公伝』(1937昭和12年刊)の自序で次のように述べている。定信の伝記をまとめたのは、「私が深く楽翁公の徳業を欽慕するのと、現今の世態が、頗る公の如き公明忠正なる政治家を必要とする秋であると感じたからである。」と。

松平定信のように、政治家としてだけでなく文化人として優れている人が今も望まれる。

(参考):

『桜狂の譜 江戸の桜画世界』今橋理子 青幻舎 2019

《浴恩園真景図》 星野文良筆

《浴恩園真景図》 星野文良筆

 

《浴恩春秋両園桜花譜》谷文晁原画  


松平定信自画像


(参照):

東京異空間137:大名庭園を歩く14~戸山公園2023/7/13


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