新年最初の美術館詣では、板橋区立美術館で開催されていた「戦争と子どもたち」に行ってきました。昨年は、戦後80年ということで、「記録をひらく記憶をつむぐ」@東京国立近代美術館をはじめとして、充実した美術展がありました。その流れにある「戦争と子どもたち」は、名作と言える作品が並んでいるわけでもなく、また国立美術館など大きな美術館の所蔵品でもない作品ですが、どれも心に響くものでした。
残念ながら、写真撮影は不可でした。
(参照):
東京異空間243:美術展を巡るⅥ-2~MOMATコレクション@東京国立近代美術館(2024/11/10)
東京異空間342:戦争画と戦争責任~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館(2025/9/12)
東京異空間339:《大東亜戦皇国婦女皆働之図》~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館(2025/8/21)
東京異空間340:戦争画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館(2525/8/29)
1.戦争と子どもたち
当時の子どもたちは「少国民」として育まれる存在でもあった。従軍看護婦として出征する母親を見送り、勤労奉仕に参加するなど、総力戦を支える銃後の一員としての子供の姿も作品に描かれている。
松本竣介(1912-1948)《りんご》1944年 個人蔵(板橋区立美術館寄託)
展覧会のポスターにも使われている作品。リンゴをかじる少女だが、どこか不安げな顔に見える。
小杉放菴(1881-1964)《金太郎遊行》1944年 栃木県立美術館蔵
作品の売り上げを戦艦建造のために「献納」することを目的とした美術展「戦艦献納展」 への参加が、大政翼賛会から帝国芸術院の会員に呼びかけられた。それに対し、放菴は勇ましい日本軍の活躍を描く戦争画ではなく、大きな熊にまたがる金太郎(孫がモデル)を描いた。この絵の金太郎は日本に、熊は英米に見立てているのか。
青柳喜兵衛(1904-1938)《天翔ける神々》1937 年 北九州市立美術館蔵
急性肺炎で急死した3歳の息子が張り子のトラに乗っている。おもちゃが天を駆けまわっている。2年後に、青柳も34歳で夭折。この絵は、青柳親子が短い人生を生きた証しである。
(参考):
『玉葱の画家』多田茂治 弦書房 2004年
中尾彰(1904-1994)《勤労奉仕》1944年 茅野市立北山小学校蔵
稲刈りをする少年たち。子供も立派な労働力だ。
水原房次郎(1913-1985)《夏の夜 戦果をききいる少年達》1942年 福岡県立美術館蔵
蚊帳の中で、 大本営発表ニュースの戦果をききいる少年達。どの顔も不安げに見える。
麻生三郎(1913-2000)《子供》1948年 弥栄画廊蔵
画家の長女を描いている。麻生は、のちに「子どもを見ていると描かなければいけいない」と感じたと振り返っている。
小林猶治郎(1897-1990)《童心双六》1937 年 練馬区立美術館蔵
運動会、乗り物、動物園、色とりどりの楽し気な双六。そうした子供たちの遊びにも「センサウ」の一コマが加わる(左上)。「上がり」には画家の長年長女とモモわれる二人が仲良く並んでいる。
今西中通(1908-1947)《子供を抱く女》1943 年頃 郡山市立美術館蔵
子どもを抱く母親の手には飛行機の模型が挙げられている。この子も大きくなったら立派な飛行兵になることを願っているのか。
作者の今西中通は、この作品を描いた数年後の1947年に39歳の若さで亡くなる。
浜松小源太(1911-1945)《遺児すこやか》1941 年 大館郷土博物館蔵
富士山を背景に、日本刀を携え日章旗を握る男児。ただ、よく見ると男児の表情には生気が感じられない。手にした日の丸は、ダランと垂れ下がっている。
制作のきっかけは、元教え子が遺児となって靖国神社へ参拝するのを知ったことから。モデルは浜松自身の長男だという。
浜松は1943年に日本語教員としてビルマ(現・ミャンマー)に赴き、現地召集されて1945年の戦闘で行方不明となり、34歳で戦死したとされる。遺児をテーマに作品を描いた画家の子どもが遺児になってしまった。
石井正夫(1921-1945)《模型建艦》1943年 無言館蔵
石井は、大日本海洋美術展覧会の公募を知り、日本画の道具を買いそろえて、弟をモデルにこの作品を描いたという。石井は東京美術学校で学んだが、学徒出陣で出征し、1945年にフィリピン・ルソン島で戦死した。
新海覚雄(1904-1968)《貯蓄報国》1943年 板橋区立美術館
郵便局の窓口で、勤労奉仕を行う女学生。計量しようと右手を伸ばすセーラー服姿の少女に着目。
日中戦争以降、国民の預貯金が軍事費の一部として使われるようになる。昭和18年の貯蓄奨励運動の目標金額は、「270億」であった。
北川民治(1894-1989)《作文を書く少女》1939年 名古屋市美術館
「慰問文を書く少女」とも呼ばれ、従軍兵士に送る手紙(慰問文)を原稿用紙に書くセーラー服姿の少女を描いている。しかし、少女が広げた原稿用紙は白紙のまま、何を書いてよいか書きあぐねているような、複雑な心理が暗示されている。 モデルは、小学生であった画家の長女だという。
吉原治良(1905-1972)《防空演習》1944-45年頃、大阪中之島美術館
防空演習、母親についてきて、思い思いの時間を過ごす防空頭巾を被った幼い子どもたち。
右側の、腕を組んで、じっと鶏を見つめるような少女に引きつけられる。
中澤弘光(1874-1964)《別れの乳房》 日本赤十字社秋田県支部蔵
戦場に赴く救護看護婦を描いたもので、駅のホームで見送る人々が手にした旗の中に、赤十字旗が混じっている。看護婦は見送りの人々に背を向け、幼子に乳房を含ませている。これが別れの乳房か。小さな子どもを持つ若い母親にも招集状は届き、二度と生きて子どもに会うことができなかった人も多かった。
楢原健三(1907-1999)《街頭にて》1946年 個人蔵
戦争によって傷つけられた子ども。怪我を負った防空頭巾をかぶる妹と、戦闘帽を被るうつろな目の兄。
2.戦争と女性画家たち
戦時中、男性の画家は、陸海軍の指示に従い「作戦記録画」を描いたり、また横山大観など日本画家は、売り上げた絵を戦艦、航空機などの軍事資金に「献納」するなど、戦争協力に努めた。
一方、女性画家たちは、主に銃後の女性の活動などを描くことが多かった。また、そうした戦争協力がなければ、統制下において絵の具などの材料も手に入らず、描くことさえできなかった。
展示されていた、女性画家たちの略歴と作品を見ていく。
有馬さとえ(1893-1978)
有馬さとえは本名サト、「さとえ」または後年「三斗枝」と署名している。1893年に鹿児島市に、父は有馬高徳、母せいの三女として生まれた。父・高徳は漢方医であったが、さとえ誕生の18日前に死去している。1911年、18歳の頃「女学校を よして油画を勉強したいと言い出」すに至り、周囲の反対をよそに上京して、岡田三郎助の門に入るも「望みを捨てろ」と一度は諭される。しかし、画家になることを諦めず努力し、1926年に帝国美術院展覧会(帝展)の洋画部門で、女性として初めて特選を受賞した。婦人洋画協会の創立にも関わり、女性画家の地位向上に大きく貢献した。有馬は、生涯独身であったが、 潔癖までに画家であることに一生を捧げ、83歳で腕が傷みパレットが持てなくなるまで欠かさず制作出品を続けたという。
《夏日》1938年 京都市美美術館蔵
夏の光の中に立つ裸の少年を描いた作品。この作品はネットで検索してみても出てこなかったが、以前、東京国立近代美術館で《赤い扇》1925年という、和服を着た女性を描いた作品を観ている。有馬の作品は、室内を描いたものが多く、座る人物や花瓶などに飾った花などを描くものが多い。
(参照):
東京異空間309:MOMAT コレクション<女性像>@東京国立近代美術館(2025/5/3)
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| 《赤い扇》 |
松村綾子(1906-1983)
松村は、仙台に生まれ,京都で育った。京都洋画壇の中心的人物であった都鳥英喜らに師事し、戦前は二科展で入選するなど注目を集めた。子どもを早くに亡くすなど悲運の人で、戦後は中央画壇には距離を置き、徐々に忘れられていった。晩年は不遇で、雨の日にはトイレでは雨傘をささなくてはならないほど家は荒れ果て、大家から立ち退きを迫られて小さなアパートに移り住んだ。最後は自宅の失火で生涯を閉じた。
《少女・金魚鉢》1937年 星野画廊
花咲く野原に赤白縞模様のワンピースを着た少女が寝そべり、地面に置かれた金魚鉢を眺めている。室内の姿を野原の中に置き換え、中央にはつる性の赤い花が咲いている。シュルレアリスム的な表現となっている。
《薫風》1943年頃 星野画廊
展示作品ではないが、松村の作品をもう1点。やはり花咲く野外に、絵筆を持つ女性。宙には青い鯉のぼりが泳ぎ、その背中には人が乗っていて、その人も絵筆を持っている。全体の雰囲気はシャガールを思い起こさせる。鯉のぼりに乗って宙に泳ぐ人は亡くした子どもだという。
これら松村の作品は昨年、「少女たち」@三鷹市美術ギャラリーにも出品されていたので見ているはずだが、印象に残っていない。
(参照):
東京異空間282:「少女たちー星野画廊コレクションより」@三鷹市美術ギャラリー(2025/3/6)
中谷ミユキ(1900-1977)
中谷ミユキは、広島に生まれ、広島の女学校を卒業後、東京の共立女子職業学校で学び、教員免許を取得した。教職を辞した後、30歳の時に病をきっかけとして本格的に絵画を始めた。1946年(昭和21年)、三岸節子らと共に「女流画家協会」を設立。三岸の退会後も同会の中心的存在として長年牽引し続けた。 1943年に結成された「女流美術家奉公隊」(「女性美術家奉公隊」とも)の主要メンバーとして活動した。奉公隊は、陸軍報道部の指導下で結成された約110名(正隊員62名、青年隊48名)からなる組織で、長谷川春子をリーダーに、中谷は役員の一人を務めた。 銃後の女性たちに息子を戦場へ送り出すことを促す「戦う少年兵」展などを各地で開催し、美術を通じた銃後の国民精神総動員を担った。 「戦争は男だけのものではない」というスローガンを掲げたように、男性中心の画壇で確固たる基盤を持たない女性画家たちにとって、奉公隊の活動は社会的に認知される格好の場になりえた。
奉公隊の大作《大東亜戦皇国婦女皆働之図》については、先に東京国立近代美術館で観た。
(参照):
東京異空間339:《大東亜戦皇国婦女皆働之図》~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館(2025/8/21)
《勝利の少年兵》1944年個人蔵
コックピットから顔を出す、まだあどけない少年兵を描く。
戦局の悪化によって少年兵が動員されるようになり、少年兵学校への入学を促すためのプロパガンダが求められていた。そのため、奉公隊は、「戦ふ少年兵」展を開催し、東京、神戸、大阪、京都などの都市を巡回した。こうした展覧会のターゲットは母親たちで、少年兵の姿を理想化して描き、「少年兵学校に入ることで、子どもたちは立派に成長できる」というイメージを生み出すことで、将来的に子どもを戦地に送るよう母親たちを鼓舞しようとした。この作品もその展覧会に出品されたとみられている。
小畠鼎子(1898-1964)
小畠は、東京に生まれ、日本画を池上秀畝に学んだ後、当時日本美術院で活躍していた川端龍子の門下となる。龍子が日本美術院を脱退し青龍社を旗揚げすると、その第1回展から入選する。1948年には社人となり、青龍社の中心的画家の一人として活躍した。龍子は、日本画の「床の間芸術」に対し、展覧会での鑑賞を目的とした力強い大作主義の「会場芸術」を唱えた。鼎子はその影響を受けつつも独自の感性を存分に発揮し、大胆な構図に豊かな色彩表現を用いた写実的な花鳥画を多く残した。主な発表の場だった毎年の青龍展への出品は、歿する前年までの35年間欠かさず続けられ、家事や育児に追われながら地道に己の芸術を追及し続ける姿勢は龍子にも賞賛された。また、吉祥寺に居住し、自宅の植物や井の頭公園の鳥など身近な題材を好んで描いた。
武蔵野市吉祥寺美術館で、2017年に開かれた「青龍社の女性画家 小畠鼎子」を観に行き、この画家のことを知った。
《増産》1944年 武蔵野市立吉祥寺美術館
授業がわりの農作業で、さつまいもを収穫する白い鉢巻姿の少女。自身の次女をモデルにしているという。戦時中の国策である「増産」をテーマにした、181×135センチメートル という大作で、 第16回青龍展に出品 している。
赤松俊子(丸木俊)(1912-2000)
北海道に生まれる。出生名は赤松俊。女子美術専門学校卒業後、千葉・市川の小学校代用教員を務める。 1940年には半年間、当時日本の統治下にあった南洋諸島のパラオ諸島、ヤップ島を旅する。1941年、画家・丸木位里と結婚。結婚後も1956年までは赤松俊子の名を使用。位里の母・丸木スマ(70代半ばから独学で絵を描き始め、「おばあちゃん画家」といわれた) の死後、「女絵かきの名を継ぐため」に丸木姓を名乗るようになり、1957年から1964年頃まで丸木俊子としていた時期もあったが、その後は丸木俊を名乗る。
丸木俊といえば、夫・位理との共同製作である《原爆の図》 がよく知られているが、戦時中は、南洋群島を旅しており、その体験に基づいたスケッチや絵画、絵本を多く発表していた。
なお、彼女が立ち寄ったテニアン島は、後に広島・長崎へ原爆を投下する爆撃機の出撃拠点であり、この「歴史の巡り合わせ」が、後の《原爆の図》へと繋がっていく。
『ヤシノミノタビ』赤松俊子・画 丸山薫・文 1942年 新日本幼年文庫
当時日本が統治していた「南洋群島」お旅した体験をもとに、描かれた異国の風情を伝える物語絵本で、「軍国絵本」と呼ばれる。「軍国絵本」とは、戦時下に政府や軍の管理・指導のもとで出版され、子供たちに愛国心や戦意高揚を教え込むプロパガンダの役割を果たした絵本である。
他にもシンガポール攻略をテーマにした作品、『ヤシノ木ノ下』 赤松俊子・画 土塚由岐雄・文1942年)小学館などがある。
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| 『ヤシノ木ノ下』 |
(参考)
戦後に描かれた作品であるが、近美コレクション展で次の作品を観ている。
《解放され行く人間性》 1947年 東京国立近代美術館蔵
敗戦後、GHQが行った五大改革のひとつは「女性の解放」であった。丸木は「女性」を「人間性」として、より大きな解放を見据えている。
長谷川町子(1920-1992)
1920年佐賀県生まれ。父の死から一年後の1934(昭和9)年)、3人の娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で一家揃って上京した。 14歳で「のらくろ」で知られる田河水泡に弟子入りし、1935年、15歳で漫画家デビュー、日本で最初の女性漫画家といわれる。戦時中、194年(21歳)頃 に「翼賛漫画 進メ大和一家」の作画に参加した。この作品は、大政翼賛会による国民運動(翼賛運動)を普及啓蒙する目的で制作された漫画シリーズの一つである。1944(昭和19)年、一家は福岡市百道に疎開 。町子は西日本新聞社に入社し、編集局絵画課に配属され、軍需工場のルポ漫画「マンガ工場巡礼」などを執筆している。敗戦後の1946年、夕刊フクニチに「サザエさん」の連載をはじめる。1951年から74年まで、途中休載を挟みつつ朝日新聞朝刊に「サザエさん」を長期連載。国民的人気マンガ家となる。1991年、第20回日本漫画家協会賞の文部大臣賞を受賞。1992年、心不全のため死去。直後に国民栄誉賞を受賞。
《ミサヲネエサンノセツヤク》 日本絵雑誌社*「翼賛漫画 進メ大和一家」(1942年4月25日刊)から
節約のために足袋を縫ったら、全部が左足というオチの4コマ漫画。
戦時下の国策漫画として描かれた作品で、後の『サザエさん』の原型になったともいわれる。登場人物の「サザエ」「カツオ」「ワカメ」といった海にちなんだ名前は、疎開先の百道(ももち)海岸を散歩中に考案されたという。
*「翼賛漫画 進メ大和一家」
戦時中に、大政翼賛会が、漫画家の団体である新日本漫画協会とが協力し企画した、いまでいう「メディアミックス」によるプロパガンダである。これは、大政翼賛運動とはどのようなものなのかを広く国民に伝えるために作り出したもので、次のような特徴がある。
①「大和一家」という11人の大家族が主人公 。大和一 家は、主人の大和賛平(48歳)、奥さんの大和たみ子(45歳)、おじいさんの大和 武士(77歳)、おばあさんの大和ふぢ(70歳)、長男の大和勇(25歳)、長女の大和 さくら(21歳)、次男の大和二郎(20歳)、次女の大和みさを(17歳)、三男の大和 三郎(12歳)、三女の大和稲子( 8 歳)、四女の大和昭子( 2 歳)の11人で構成される。
彼らは「朝のラヂオ体操から夕の団欒まですべて臣道実践、翼賛一色の申し分ない家庭で、彼らと隣組(町会)を中心とした銃後の生活が物語の舞台となってい る。
②協会に加入してない人でも版権は宣伝部に「献納」しているので翼賛会の了解を得て 「翼賛一家」のキャラクターを用いて漫画を執筆することが許されていた。 そのため、登場する人物も、簡単な線画で形作られ、誰でも簡単に描ける工夫をしていた。「素人」からの応募による参加も募っている。
③これらのキャラクターの媒体としては、新聞、雑誌、ラジオ、紙芝居、レコード、舞台、俳句など、いまでいうメディアミックスを活用していた。
様々な雑誌に載せる意図について、新日本漫画家協会委員である横山隆一(フクちゃんで知られる)は次のように語っていた。
「このうち会社員や大学生は 青年の雑誌に、老人は盆栽の本などに、赤ちゃんや子供は子供の雑誌に登場させれば面白いだろうと思うのです。」
④内容は、貯金や節約、運動、禁煙・禁酒など、時局に関するものが多く、戦時中の銃後の生活の理想像が描かれていた。
こうした「翼賛漫画」について、漫画の歴史において、「明治期の諷刺画家が政治や社会に反旗を翻したのに対し、昭和期の漫画家たちは、国家体制に組み込まれてしまった。」と清水勲は述べている。
なお、近代漫画の祖といわれる北澤楽天は、諷刺画を「漫画」として発展させ、社会批判、時事漫画を描いた。北澤楽天については、先に慶應義塾史展示館で観ている。
(参照):
東京異空間379:北澤楽天と近代日本@慶應義塾史展示館(2025/12/29)
(参考):
『大政翼賛会のメディアミックス』大塚英志 平凡社 2018
『図説 漫画の歴史』清水勲 ふくろうの本 河出書房新社 1999年
『戦争の美術史』 宮下規久朗 岩波新書 2025年
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| 「翼賛一家」大和家の11人家族 |
この展覧会は、作品一つ一つは、名作とは言えないものがほとんどですが、こうして展示されると、一つ一つの作品から胸を打つものがありました。展覧会の企画力、そしてこうした作品を各地から集めてきた熱意、努力の結果だと思います。実際、これは「戦後70年の企画展からコツコツと準備を進めてきた」ということです。























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