2026年3月28日土曜日

京の寺社5~東寺(教王護国寺)

 

東寺・五重塔

観智院から東寺の北大門にもどり、境内にある五重塔の特別公開がされている内部を拝観しました。その後、金堂、講堂の仏像などを拝観しました。五重塔の手前には梅の花、近くには早咲きの桜が咲いていました。

内部の仏像などは撮影禁止になっています。(*印はネットから借用した写真)

1.東寺(教王護国寺)

東寺(教王護国寺)は西寺とともに、794年の平安遷都の際に、国家鎮護を目的として羅城門の東と西に建てられた対の官寺であった。東寺が「教王護国寺」と呼ばれるのは、823年に嵯峨天皇から空海へ下賜された際、「王を教え、国を護る」という真言密教の道場としての役割を与えられたためである。正式名は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といい、鎮護国家の象徴として名付けられた。なお、現在、宗教法人としての登録名は「教王護国寺」となっている。

東寺・慶賀門

東寺(教王護国寺)・慶賀門


この東寺は、嵯峨天皇から空海に託されたことにより、空海は真言宗の拠点として独自のネットワークで資金や信仰を集め、寺を維持・発展させる基盤を作ることができ、現在まで続く大寺となっている。一方の西寺は、 990年に講堂や食堂が焼亡したのを機に、復興がなかなか進まなかった。その後も再建の試みはあったものの、13世紀(1233年)には塔も焼け落ち、事実上廃寺となってしまう。現在は、跡地が公園として残るのみである。

この東西の寺の違いは、 平安京の西側(右京)は湿地帯が多く、土地が低くて排水が悪かったため、貴族の住居や産業が東側(左京)に集中し、次第に西側(右京)は寂れていったという、いわば地政学的な要因があった。

しかし何より大きな要因は空海というカリスマ的存在であった。空海のカリスマ的存在の大きさを語る、次のような「雨乞い対決」 という伝説がある。

824年、都を襲った大干ばつを解決するため、淳和天皇は西寺の守敏と東寺の空海に雨乞いの祈祷を命じた。場所は、平安京の巨大な庭園「神泉苑」であった。最初に行表に立ったのは守敏であった。守敏の祈祷により雨は降ったが、都の一部をわずかに湿らせる程度であった。続いて、空海が祈祷を始めるが、数日経っても一滴の雨も降らなかった。不審に思った空海が法力で調べると、守敏が「世界中の龍神を瓶の中に閉じ込めて妨害している」ことがわかった。しかし、守敏の力もたった一頭の龍だけには及ばなかった。それは、天竺(インド)の無熱池に住む善女龍王であった。空海がこの龍王を勧請すると、たちまち黒雲が広がり、三日三晩にわたる大雨が降り注ぎ、国中が救われた。  この勝利により、空海と東寺の権威は不動のものとなり、敗れた守敏と西寺は次第に勢力を失い、人々の信仰も東寺へと移っていったという。

(先に観智院の近くにある蓮池で見た「善女大龍王」の石碑は、この物語からきている。)



2.五重塔

東寺の五重塔は、地上から塔の頂上部の相輪の先まで約55mあり、現存する日本の木造塔の中で最も高い建物である。新幹線からこの塔が見えると、京都に来たという実感がわく、 京都の象徴的なランドマークとしてもよく知られている。










(1)建物

五重塔の歴史は1,200年以上前、823年に、空海が師匠・恵果から授かった仏舎利を納めるために建立を着手したことに始まる。その後、落雷などでこれまでに4度焼失しているが、地震で倒壊したことはないという。それは柔構造のつくりによって地震の揺れを吸収し抑えるからとされる。とくに塔の中心を貫く心柱が、周囲の層とは直接固定されておらず揺れに対して制振・免震の役割を果たし、姿勢を保つからである。

現在の塔は、1644年に江戸幕府の徳川家光によって再建された5代目のものである。














(2)仏像

五重塔の初層内部には、極彩色で彩られた密教空間=曼荼羅の世界が広がっている。五重塔の各層を貫いている心柱を大日如来として、その周りを四尊の如来、八尊の菩薩が囲んでいる。さらに、四方の柱には金剛界曼荼羅が描がかれている。また、四面の側柱には八大龍王、壁には真言八祖像を描き、真言の教えが空海に伝えられた歴史を表してい

心柱を大日如来に見立て、その周囲の四方に以下の「金剛界四仏」が安置されている。

東方:阿閦如来(あしゅくにょらい)

西方:阿弥陀如来(あみだにょらい)

南方:宝生如来(ほうしょうにょらい)

北方:不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

四仏の周囲には、それぞれ体ずつの菩薩(八大菩薩)が配置されている。

* 初層内部の立体曼荼羅


3.金堂

延暦15年、796年に東寺が創建され、最初に建設がはじめられたのが金堂で、本尊の薬師如来像が安置されている。

(1)建物

金堂は東寺内で最初に建設され、空海が嵯峨天皇から東寺を託された823年頃には完成していたとされる。その後、1486「文明の土一揆」による火災により焼失したが、 1603(慶長8年、豊臣秀頼の寄進によって再建された。これが現在残っている建物である。

桃山時代の代表的な建築物で、宋の様式を取り入れた天竺様と和様という建築様式が併用されている。正面のデザインは、豊臣秀吉が建立した方広寺の大仏殿を模したといわれている。 外観は二層に見えるが、下の屋根は「裳階(もこし)」と呼ばれる庇のような装飾構造で、実際は一階建ての巨大な空間を造っている。




(2)仏像

本尊は、桃山時代の著名な仏師・康正(こうしょう)によって作られた「薬師三尊像」。 本尊の薬師如来は、薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に七体の化仏を配する七仏薬師如来といわれる。本尊に対面して右側は、日光菩薩。左側は、月光菩薩が脇侍として配置されている

この本尊はこれまでも何回か目にしているはずだが、今回、最も注目したところが、薬師如来像の台座に彫られた十二神将像である。

薬師如来の台座には、如来を守り、如来の願いを成就する働きがある十二神将がぐるりと並んでいる。この様式は奈良時代のものといわれ、1486年に金堂とともに焼失したあと、桃山時代を代表する仏師、康正により復興された。十二神将は、十二支に対応し、頭の上にはそれぞれの動物が乗っている。

* 本尊・薬師三尊像

* 台座の十二神将像


3.講堂

東寺の境内は、東西255メートル、南北515メートルの長方形となっている。その寺域のなかで大伽藍が建っているエリアは、東西南北とも255メートルでほぼ正方形であり、その中心に講堂は位置している。

(1)建物

講堂の建設は、823年にはじめられ、16年後の839年に完成し、開眼供養が行われた。当時は、講堂と金堂の周囲を廻廊が巡りふたつの大伽藍をつないでいた。しかし、1486年に金堂、南大門などとともに焼失。金堂が桃山時代、南大門が江戸時代に入ってからようやく再建できたのに対し、講堂は焼失より5年後、1491年 に最優先で再建された。それが、いまある講堂である。







(2)仏像・立体曼荼羅

密教を伝え広めるために建立された講堂であり、内部には、その教えを視覚的に表した羯磨曼荼羅(かつままんだら、いわゆる立体曼荼羅となっている。立体曼荼羅は、中心に大日如来を中心とする五智如来、右側に五菩薩、左側に五大明王、その周囲に四天王と梵天・帝釈天が配置された構成となっている。

五智如来:宇宙の真理を表す最高位の如来。大日如来を中心に、阿閦如来宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が配置されている。

五菩薩:慈悲深く人々を悟りへ導く。金剛波羅蜜菩薩を中尊とし、法波羅蜜菩薩、意波羅蜜菩薩、薩埵波羅蜜菩薩、宝波羅蜜菩薩が配置されている。

五大明王:教えに背く者を憤怒の相で諭す。不動明王を中心に、降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王が並ぶ。

四天王:仏法を守護する持国天、増長天、広目天、多聞天が空間の四隅を固める。

梵天・帝釈天:ヒンドゥー教から仏教に取り入れられた護法神。梵天(東側)と帝釈天(西側)が、如来たちを護るように配置されている。

これら21体のうち、如来像以外(15体)は平安時代初期の造像当時の姿を残しており、如来像は室町・江戸時代に彫作された。そのため、講堂の中で如来像だけは国宝ではなく、重要文化財に指定されている。

以前に来た時には、立体曼荼羅の仏像群を後ろからも拝観できた。それも特別公開であったのだろう。


* 講堂内部の立体曼荼羅

* 立体曼荼羅配置図


4.食堂

(1)建物

僧侶が食事をする場所として平安時代に創建された。落雷や火災で4回焼失し、現存する建物は1930年(昭和5年)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物である。

先に見た、金堂、講堂と、この食堂がまっすぐに大伽藍が並ぶ。この配置は、「仏法僧」を表しており、金堂には本尊の「仏」、講堂は密教の教え「法」、そして食堂が「僧」であり、生活のなかに修行を見いだす所とされる。




(2)仏像

平安時代から千手観音菩薩が祀られていたことから「観音堂」や「千手堂」とも呼ばれていたが、火災での焼損と修復を経て、現在は、極彩色の十一面観音菩薩像が本尊として安置されている(仏師・明珍恒男の作)。

本尊千手観音菩薩と四天王は、かつて旧国宝であったが、1930年の食堂の火災で本尊も四天王も大きく焼損してしまった。千手観音菩薩は、修復後、宝物館に安置され、食堂の本尊は、十一面観音菩薩となる。そして、焼損した四天王は、平安時代の千手観音菩薩を護っていたのと同様に、新たな十一面観音菩薩を守護している。(残念ながら内部は見逃してしまった)

* 十一面観音菩薩

* 焼損した四天王


5.夜叉神堂

(1)建物

食堂の前に位置する小さな二つの祠があり、それぞれ雄夜叉・雌夜叉を祀る。。もともとは南大門の左右に門番として立っていた。しかし、通りがかる旅人が拝まずに通ると罰が当たったため、境内の中門付近へ、さらに1596年に現在の場所へと移された。

二つの夜叉神堂、奥は食堂




(2)仏像

二つの祠に、それぞれ「雄夜叉(東側)」と「雌夜叉(西側)」の2体の夜叉神像が安置されている。 雄夜叉は文殊菩薩、雌夜叉は虚空蔵菩薩の化身ともされ、知恵を司る神としても知られる。その鋭い眼光は「にらまれると歯痛が治る」とも言われ、古くから歯痛平癒にご利益があると信じられている。

なお、夜叉像は現在は宝物館に収められていて、宝物館は春秋のみに特別公開されるため見ることはできなかった。




6.東大門

東寺の五重塔の北東に位置している東大門は、 平安時代に創建されたが、 現在の門は、鎌倉時代前期(1198年頃)に文覚上人の勧進によって再建されたものとされ、 東寺の中で最も古い建築物の一つである。

この門は別名、不開門(あかずのもん)と呼ばれている。1336年の「建武の乱」の際、新田義貞の軍勢に攻められた足利尊氏が門を閉めて難を逃れたという故事に由来し、それ以来、特別な行事を除いて固く閉ざされたままとなっているという。(2010年に、解体修理のために約670年ぶりに門が開けられ、大きな話題となった。)


7.
慶賀門へ

東寺に車で入るのは、慶賀門からになる。境内の駐車場には、観光バスがとまり、多くの観光客がここから境内には入り拝観する。



不二桜と五重塔



京都タワーが見える

慶賀門


8.伏見稲荷大社 御旅所

東寺を慶賀門から出て京都駅方面に向かう途中で、大きな赤い鳥居があった。案内板を見ると、ここは「伏見稲荷大社 御旅所」とある。「御旅所」とは、お祭りの際に神様を乗せた神輿が本宮を出発し、一時的に滞在(奉安)する場所のことで、 毎年4月から5月にかけて行われる伏見稲荷大社で最も重要なお祭り「稲荷祭」の際、5基の神輿がここに並び、多くの参拝客で賑わうという。

伏見稲荷大社は、朱塗りの鳥居が並ぶ「千本鳥居」が外国人観光客に人気で多くの人が訪れている。その伏見稲荷大社の本宮から約3キロメートル離れた、JR京都駅の南西に位置して「御旅所」があるとは知らなかった。 古く2か所に分かれていた御旅所を、豊臣秀吉が現在の場所へ一つにまとめたと伝えられている。





京の旅の二日目は、石清水八幡宮と東寺を訪ねました。石清水は初めてでしたが、東寺には何度か来ていました。それでも、塔頭の観智院、また五重塔の内部拝観は初めてでした。初めて見るものも、また既に見たことがあるものも、それぞれ感動がありました。

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