2026年7月12日日曜日

金沢を歩く9~兼六園・曲水周辺

兼六園・曲水

霞が池の周辺から、曲水が流れています。周辺には唐崎松、根上松などの名木、さらに日本武尊 (ヤマトタケル)の銅像、地蔵堂などが置かれています。これらを巡ります。

1.辰巳用水

この高台にある兼六園に水を送り続けているのは、江戸初期に造られた辰巳用水である。今から約370年前の手堀りの水路であり、 現在も、一日に1,400トンもの水を供給している。

辰巳用水は、1632年(寛永9年)に3代・利常の命により建設された全長約16.5kmの歴史的な用水路である。前年の1631年に起きた金沢城の大火を教訓とし、防火用水や城下の生活・農業用水の確保を目的に、天才技術者と謳われた板屋兵四郎によって造られた。

城の辰巳(東南)の方角、犀川上流を水源とし、約4㎞のトンネルで導水、開水路を経て兼六園の霞ヶ池に貯水する。そこから地下の導水管を使ってサイフォンの原理により、白鳥堀から内堀へと上げ、さらに高い位置にある城中二の丸まで揚水していた。

(1)兼六園内の水

辰巳用水は兼六園の「小立野口(こだつのぐち)」付近に入り、長い水路を流れてきた水から、砂や泥をここに一度沈めて浄化する。ここが園内給水のスタート地点となる。 沈砂池を出た清らかな水は、すぐ近くにある築山「山崎山」の麓を流れる美しい「曲水」へと導かれる。曲水を通った水は霞が池に流れ込む。霞ヶ池から落ちる水の落差により、自然の水圧だけで、約3.5mもの高さまで水を吹き上げる「噴水」となる。噴水などを経た水はさらに下流へと流れ、瓢池」に水を貯える。池のすぐそばにある「翠滝」の水源にもなっている。

(参照):

金沢を歩く8~兼六園・瓢池周辺2026/7/6

山崎山の麓にある洞窟 

辰巳用水が、この洞窟から園内へと流れ出ている。 この洞窟付近が兼六園内を流れる曲水の起点となっている。

沈砂池(ちんさいけ): 洞窟のすぐ手前には沈砂池があり、ここで泥や砂を沈めて水を浄化した後、園内の曲水へと送り出されている。

山崎山


洞窟・曲水の起点




(2)板屋兵四郎(?-1653?

辰巳用水の工事は、1632年の夏に着工し、全長約16.5kmをわずか約9ヶ月という短期間で完成させた。設計・施工は藩の技術者・板屋兵四郎が指揮した。兵四郎は測量や和算・算盤に秀で、用水を開削して水田の灌漑をすすめた実績を3代・利常に認められ、辰巳用水の開削事業を任される。

全長約12kmの辰巳用水において、兵四郎は「10m進んでわずか5cm」という極めて緩やかな勾配を正確につけた。 兼六園を通って金沢城へと水を引く際、途中に低い谷間があり、そこで、水を一度低い谷底に落とし、水圧を利用して再び高い位置にある金沢城内へと水を押し上げる「伏越(逆サイフォン)」という高度な水利技術を採用した。こうした難工事をいくつもの区画に細かく分割し、それぞれの区画に個別の責任者を配置する工事体制を敷くなど施工管理にも優れていた。工事は昼夜休みなしの2交替で1人2食の食事を賄い させた。そこから「加賀の四度食」は突貫工事の代名詞にもなった。

しかし、兵四郎は、 あまりの技術の高さゆえに軍事機密を握られすぎるのを恐れた藩に毒殺された」という伝説が残るほどであった。ただ、板屋兵四郎についての資料は少なく、矛盾した記述も多いため、詳しい生い立ちや経歴は不明 とされる。

2.唐崎松

唐崎松は、前回の「霞が池周辺」でも取り上げたが、池の近くにあるこの松は園内随一の美しい枝ぶりを誇る樹齢約170180年のクロマツである。13代・斉泰が庭園の中心である霞ヶ池を琵琶湖に見立てて拡張整備した際、その北岸にこの松を植えて育てたのが始まり。 近江八景の一つ琵琶湖畔の「唐崎神社」にある名木「唐崎の松」から種子を取り寄せたとされる。

毎年11月の「雪吊り」の作業はこの唐崎松から始まる。5本の芯柱(最大高さ約1416メートル)を立て、約800本の藁縄を放射状に張る「りんご吊り」という手法が用られている。 これら庭師の高度な伝統技術によってこの名木が守られている。

(参照):

金沢を歩く8~兼六園・霞が池周辺2026/7/8












3.根上松(ねあがりまつ)

「根上松」は、40本以上の根が地上約2メートルまでせり上がり、タコ足のように力強く地表を掴んで立つ、樹齢約200年のクロマツである。13代・斉泰が自ら若松を植えたと伝えられている。

松の根が地表近くに広がる性質を利用し、あらかじめ高く盛り土をした場所に若松を植え、成長に合わせて徐々に土を取り除くことでこの形が作られた。冬には、奇抜な根元に、幾何学的な雪吊りの縄の円錐形が加わることで、人の手によって守り育てられてきた圧倒的な美しさを醸し出す。










4.乙葉松 

13代・斉泰の侍女である「乙葉(18221866)」 が丹精込めて育てててきた赤松の盆栽を藩主に献上し、竹沢御殿の庭に植えられたと伝わる。その形が船の錨に似ていることから「いかり松」とも呼ばれていた。

根元から複数の幹が立ち上がる珍しい樹形、「多行松 (タギョウショウ)」と呼ばれる珍しいアカマツの品種である。 初代の老木は樹齢150年以上であったが、 松くい虫の被害により、2005年秋に枯死し、現在は後継木(二代目)が地蔵堂の前に植えられている。



5.旭桜(アサヒザクラ) 

「旭桜」は、江戸時代から受け継がれる由緒ある名木で、ソメイヨシノが散った後に見頃を迎える白く大きな花が特徴のヤマザクラ系の大木である。 先代の原木は、加賀藩の最高職である「加賀八家」の一つ、村井家の邸宅から、当時の藩主へ献上され、現在の場所に移植された。3代・利常が、その美しさを讃えて「旭桜」と命名したと伝えられている。

先代の木は、1937年(昭和12年)に枯死したことから、現在はその血統を受け継いだ二代目が園内を彩っている。



6.曲水

辰巳用水が引き込まれた水は山崎山の洞穴を出て、沈砂池で泥や砂を沈めて水を浄化し園内を流れ、霞が池に注ぐ。

1851年 (嘉永4年)に、13代・斉泰(なりやす)が、千歳台一帯に曲水を巡らせ、霞ヶ池を拡張したことで現在の形に完成した。 曲水は、中国の伝統的な作庭技法に由来している。川上から流した酒杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠む宮廷儀式「曲水の宴」の舞台としての趣向を取り入れて造られた。

高台にある にもかかわらず、豊かな水の流れが眼前に広がるという、相反する美の調和が特徴となっている。また、曲水の沿岸には、春には桜が水面を彩り、5月頃には紫色のカキツバタが咲き、秋には紅葉が映え、冬には雪吊りがあるなど、1年を通して風情ある散策路となっている。











7.展望台

兼六園は海抜53メートルの高さに位置しており、展望台からは手前には金沢の市街地が広がり、その先には卯辰山(うたつやま)、白山山系、さらには遠く能登半島方面までを一望することができる。

兼六園は、「広大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」という、本来は共存し得ない6つの景観(六勝)を兼ね備えていることからその名が付けられたが、このうち、もっとも開放的な空間美である「眺望」を味わうために設けられたのがこの眺望台である。





8.月見橋・月見灯籠

月見橋・月見灯籠は、園内を流れる曲水を舞台にした、月を美しく鑑賞するための風雅な仕掛けである。 古くから日本庭園において「月を愛でる(玩月:がんげつ)」ことは最高の贅沢とされていた。この場所は、秋の中秋の名月をはじめとする美しい月が、曲水の水面に映り込む様子を最も美しく眺められるところとして造られた。

月見橋:唐崎松のそばで、曲水が霞ヶ池に流れ落ちる手前に架かる橋で、卯辰山から昇る中秋の名月を眺めるために架けられたと伝わる。

月見灯籠:高さ2.1メートルの御影石製の灯籠で、月見橋と同様に月を愛でるための風情を添える目的で設置されている。 この灯籠は満月をイメージして、笠や中台、4面の火袋に至るまで全て円形で構成されている。






9.竹沢御殿跡・地蔵堂

1822年 (文政5年)、12代・斉広(なりなが) は自身の隠居所として、4,000坪・部屋数200を超える豪壮な「竹沢御殿」を建てた。この御殿の完成に際し、白河藩主の松平定信によって「兼六園」の園名が命名された。

しかし、斉広はそのわずか2年後の1824年 (文政7年)にこの御殿で没し、その後、建物は13代・斉泰(なりやす)によって取り壊された。 この御殿が取り壊されたことで、庭園の霞ヶ池の拡張などが行われ、現在の雄大な回遊式庭園の基礎が作られた。

地蔵堂:竹沢御殿で亡くなった12代・斉広の「枕石の跡」が多くの人に踏まれることを畏れ、息子の13代・斉泰が、それを保護・供養するために1824年(文政7年)に建立した。 内部には2基の石地蔵尊が安置されており、親への深い孝養のシンボルとされている。




石地蔵


10.出世茶屋(正式名:清水亭 園内売店 )

地蔵堂に祀られているお地蔵様は、安産や眼病治癒のほか、特に「出世」に強いご利益があるとして古くから信仰を集めてきた。このお地蔵様にあやかって、すぐ近くにある茶屋が「出世茶屋」と呼ばれるようになった。

お店の看板名物は、140年変わらない製法で作られ続けている自家製の「兼六だんご(旧名:出世だんご)」で、「食べると出世できる縁起物」として多くの観光客に喜ばれているという。



11.雁行橋

雁行橋は曲水に掛けられた橋。 冬に雁が、夕空に列をなして飛んでいく様子を表現していることから名付けられた。 また、使われている11枚の赤戸室石の一枚一枚が、縁起の良い「亀の甲羅(六角形)」の形に加工されていることから、 「亀甲橋(きっこうばし)」、あるいは「かりがね橋」とも呼ばれている。さらに、一直線に架かっているのではなく、三方向へ広がるような配置がされており、 そうした縁起から、「渡ると長生きができる」という信仰があり、かつては多くのが渡っていた。しかし、現在は石の摩耗を防ぎ景観を保護するため、渡ることは禁止されている。







12.七福神山

曲水に囲まれた築山で、竹沢御殿の庭園の一部として造営された。 築山の中には、大黒天や恵比寿など 、七福神の姿になぞらえた7つの天然の石が巧みに配置されている。

また、別名「つつじが岡」の通り、春には鮮やかなツツジの花が咲き誇る名所となっている。








13.雪見灯篭

この雪見灯籠は、七福神山の前に架かる雪見橋の下流、ゆったりと流れる曲水の中に直接立っている。 上部の笠は六角形で非常に大きく、冬に大きな笠へ雪が降り積もる姿は格別の風情があるという。







14.明治記念之標

1877年(明治10年)に起きた西南戦争で戦没した、石川県出身の兵士約400名の霊を慰めるために建てられた。1880年 (明治13年)に完成し、日本の屋外彫刻の先駆けとなる。

(1)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)像

熊襲や東国を平定したとされる神話の英雄「日本武尊」を象徴として立つ。銅像自体の高さは5.4m、重量約6.7トンに及ぶ巨大なもの、下の台座が6.5mあり、総高は12m近くに達する。

日本最古の「人物銅像」:高村光雲らによる西郷隆盛像(上野公園)や、大村益次郎像(靖国神社)よりも早く、1880年(明治13年)に完成した。日本で初めて屋外に建てられた、近代的な西洋式ブロンズ人物像とされる。

鋳物師による職人技:銅像は、高岡銅器で現・富山県高岡市の鋳物師・藤田治三郎たちによって造られた。人物の巨大銅像など作ったことがない時代に、これほど巨大な像を狂いなくパーツごとに分割鋳造し、現地で緻密に組み立て・一体化させた鋳造技術は、治三郎らの伝統的な仏像の鋳造技術による職人技の高さを証明している。

なお、高岡銅器の始まりは、2代・前田利長が、1611年に高岡の新たな産業として7人の鋳物師、刀装彫金師を招いて鋳物工場をひらかせたことによる。

鳥が全く寄り付かない銅像:藤田治三郎らが鋳造した銅像は、140年以上が経過した現在でも錆や老朽化が非常に少ないことで知られる。また、鳩など鳥が全く寄り付かない銅像として有名になり、後に科学者が分析したところ、合金に高濃度の「ヒ素(および鉛)」が絶妙な割合で含まれていることが判明したという。鳥はこれらの成分を本能的に嫌うため、像に近づかないとされる。





(2)びくともしない台座

庭師による高度な石積み:台座は、金沢城内の玉泉院丸の庭園にあった露地石や、旧藩老である奥村邸の庭石などが移築されて積み上げられたもの。石組みの指揮を執ったのは、金沢城の藩属庭師であった太田小兵衛で、藩政時代の高度な石積み・造園技術が、そのまま明治のモニュメントに引き継がれた。

栗石のクッション:外側の石組みの内側にはびっしりと「栗石」が詰められており、これが地震の揺れを逃がすクッションの役割を果たし数々の大地震にも崩れずに耐えてきた。


銅像の台座石:

「標」の台座石は、1991(平成3)年の大修理の際、この戸室石の台座はひび割れがひどく再使用ができなかったため新しい石と取り換えた。創建時の石は記念として別の場所に残されている。

創建時の台座石


「三すくみ」の伝説:台座には、崩れない理由を象徴する有名な「三すくみ」の伝説がある。 台座の石をよく見ると。

    ヘビ(蛇): 上部の右側に、口を一文字に結んだような形の石

    ナメクジ(蛞蝓): 上部の左側に、小さなツノがあるように見える石

    カエル(蛙): 下部の左側にある石

    「ヘビはナメクジに弱く、ナメクジはカエルに弱く、カエルはヘビに弱い」という宿敵同士が互いに牽制し合って身動きが取れないため、「台座が永久に微動だにせず崩れない」という、職人の遊び心やゲン担ぎが込められているという。

巨大な鏡石:台座の前面には、西南戦争で征討総督を務めた有栖川宮熾仁親王の揮毫による「明治紀念之標」の文字が刻まれた巨大な鏡石がはめ込まれている。

右上:ヘビ、左上:ナメクジ、左下:カエル


(2)なぜ日本武尊(ヤマトタケル)なのか
銅像に日本武尊が選ばれた、その理由は。

「天皇の軍隊」の象徴: 明治維新を経て、天皇を中心とする新国家を作ろうとしていた明治政府にとって、天皇の命令を受けて戦った戦没者は「官軍」であった。そのため、同じく天皇(父)の命を受けて命がけで戦った日本武尊の姿を重ね合わせ、兵士たちの忠誠心を称える最高の象徴とした。

「反乱を鎮めた」英雄:日本武尊は、朝廷に反抗する勢力である九州の熊襲や東国の蝦夷などを平定した神話の英雄である。いっぽう、西南戦争は、新政府に不満を持つ西郷隆盛ら、鹿児島士族の反乱を、新政府軍が鎮圧した戦いであった。この「国家の反乱を鎮めて国内を統一する」という構図が、日本武尊の東国征伐の神話と完全に一致した。

国家神道の推進: 明治政府は当時、神道を国教化して国民の結束を高めようとしていた。仏教的な仏像や、西洋風の抽象的なモニュメントではなく、日本古来の神話に登場する武神である日本武尊を選ぶことは、当時の国家的・思想的なトレンドにも合致していた。

(3)なぜ兼六園に設置されたのか

「日本武尊像」は、明治という新しい時代の「軍事・国家の象徴」でありながら、江戸時代から受け継がれた大名庭園である兼六園に設置されたのか。

城は軍事拠点、兼六園は近代公園に:1871(明治4年)、明治政府の廃藩置県にともない金沢城は新政府(兵部省、のちの陸軍省)の所轄となり、軍事拠点へと改造されました。1898(明治31年)には陸軍第九師団司令部が金沢城内に設置され、金沢は完全な「軍都」となった。江戸時代に金沢城の「外庭」として一体的に整備されていた兼六園もまた、明治政府により国有地として没収された。城郭に隣接する戦略的・空間的な重要性から、庭園の一部や周辺の武家屋敷地が陸軍の兵営、練兵場などの軍事施設用地として組み込まれていった。

一方、前田家の大名庭園だった兼六園は国有地となったあと、1874(明治7)年に「兼六公園」として一般市民へ全面開放され、石川県が管理することになった。城内が厳重な軍事機密区域として立ち入り禁止になったのとは対照的に、兼六園は市民や観光客が憩う「観光庭園・近代公園」としての新たな役割を与えられた。

軍の隣接による「地政学的」な巻き込み:軍の施設そのものにはならなかった兼六園だが、金沢城の裏門(石川門)と直結し、背後に小立野台地を控える立地から、陸軍の移動ルートや軍事的な記念碑の設置場所として、軍からの要求を断れない状況に置かれた。

そのため、兼六園は「一般開放された近代公園」と「軍の戦没者を慰霊する記念空間」という二つの顔を持つことになる。

「風情がない」と不評: 記念像は、兼六園の美しい景観にまったくふさわしくないという反対意見や批判が当時は一部であった。

「金仏(かねぶつ)様」という皮肉と親しみ: この「標」ができた時には、銅像という言葉はなく、地元・金沢の人たちは、まるで大仏のようだと捉え、皮肉や親しみを込めて「金仏様(かねぶつさま)」と呼んだという。

「評価」ががらりと変わる:建立時は不評だったこの像だが、戦後はその評価がガラリと変わる。終戦後、GHQにより、この像は「日本の軍国主義を煽るモニュメントだ」として撤去命令が出された。その際、金沢の市民や関係者たちは「これは軍人の像ではない。昔から市民が『金仏様』と呼んで親しんできた、ただの仏像である」と言い張ってGHQを説得し、見事に撤去を食い止めたという。

ちなみに、兼六園には最後の藩主・14代前田慶寧(よしやす)の銅像が、1930年(昭和5年)に建立されたが、太平洋戦争中、1944年(昭和19年)に金属類回収令によって供出され、失われている。

15.御室の塔(おむろのとう)

「御室の塔」は、13代・斉泰が公家出身の実母・真龍院(隆子姫)のために、京都・仁和寺(御室御所)の五重塔を模して建てさせた石塔である。白川御影石を用いて精巧に造られた石塔で、高さは4.5mを超え、園内にある「栄螺山」の三重石塔に次ぐ大きさである。

この塔は、築山「山崎山」の山腹にひっそりと佇んで建てられている。 山崎山周辺は、秋になると見事な紅葉に包まれるため「紅葉山」とも呼ばれる。

御室の塔・後ろは茅葺の御亭

つづいて、兼六園の時雨亭周辺、梅林を巡ります。


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