2026年8月27日木曜日

高岡を歩く12~瑞龍寺(1)伽藍

 

瑞龍寺・仏堂

旅の最終目的地「瑞龍寺」に着きました。瑞龍寺の伽藍のうち、山門、仏堂、法堂は国宝に指定されています。

まずは、それぞれの建物を観ていきます。

1.瑞龍寺の由来

瑞龍寺は、加賀藩の藩政の礎を築いた二代藩主・前田利長の菩提を弔うため、三代藩主・前田利常によって建立された。利長の五十回忌にあたる1663(寛文3)年まで、約20年もの歳月をかけて造営された。

当時は周囲に壕を巡らせており、外様大名である前田家の財力と威光を示す、まるで城郭のような構えをしていた。寺院は、 有事の際には「高岡城の代替・補完となる要塞(軍事拠点)」として機能するように設計されていた。かつて利長が築いた高岡城は、幕府の「一国一城令」によって廃城されたが、その代わりに、城跡の近くに瑞龍寺を建てたともいわれる。

その背景には、 当時、外様大名である加賀前田家は常に徳川幕府から謀反の疑いをかけられる恐れがあり、城を築けば即座に「謀反」として取り潰されるが、瑞龍寺の造営には、徳川家にとっても功績のあった2代利長の菩提を弔うため、という絶対的な大義名分があった。「熱心な先祖供養・仏教信仰」という大義の前では、幕府も軍事転用可能な構造を「怪しい」と咎めにくかったとされる。

2.伽藍

(1)伽藍の沿革

瑞龍寺は、1663(寛文3)年に造営された。城郭を思わせる2重の堀と、左右対称に配置された「七堂伽藍」である。

伽藍は、*名匠・山上善右衛門嘉広を棟梁とし、中国の径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)を手本に設計され、1663(寛文3)年に造営された。

*山上善右衛門嘉広159899年頃~1680年)は、伝統的な禅宗寺院の代表的建築技術である「建仁寺流」の17代目を継承し、加賀藩のお抱え大工頭を務めた。

1746年(延享3年)の火災で山門を含む、禅堂(僧堂)、七間浄頭、回廊の前半部分を消失してしまう。

1820年(文政3年)に、山上善右衛門の末裔にあたる大工たちの手によって、山門などが創建時の古式に則った旧状配置で再建された。

明治時代の廃藩置県によって加賀藩の手厚い保護(寺領300石)を失い、一時は寺勢が衰退した。 しかし、その建築的価値が再評価され、1909年 (明治42年)以降、仏殿や法堂などが国の重要文化財に指定され、国家的な保護が進められた。

1985年〜1998年にかけて大修理が行われ、 発掘調査や江戸時代の古図面に基づき、延享の大火で失われ未再建だった禅堂や大庫裏、回廊が建立当時の姿に復元された。

(2)伽藍の特徴

瑞龍寺の最も際立った特徴は、一直線かつ左右対称に美しく整えられた「禅宗様式」の伽藍配置にある。「禅宗様式」は、鎌倉時代に中国から伝わった中国の寺院の建築様式である。

禅宗では、仏殿、山門、庫裏、法堂(はっとう)、浴室、東司(とうす)から構成される伽藍を「七堂伽藍」と呼ぶ。瑞龍寺の伽藍は、『禅宗七堂伽藍人体表相図』に基づく設計がされており、建物全体をひとつの人間の体(人体)に見立てて配置されている。頭部、心臓、手足といった器官がそれぞれの建物の役割と結びついている。それぞれの建物を見ていく。



総門(そうもん)「足先・下半身」 :

境内への最初の入り口。俗世と聖域を分ける境界の役割を持つ薬医門。

正面の扉は城の城門に類した造りで、四葉金具などの金具が付けられている。





総門の奥に山門

総門の奥に山門

四葉金具

なお、東大赤門はこの総門を模して造られたという。

(参照):

東京異空間155:東大・本郷キャンパスⅡ~赤門と正門2023/10/28




山門「股・陰部」 :

仏の世界へと進む本格的な正門。俗世と仏の世界を分ける境界の役割を持つ。1820年(文政3年)に再建されたもので、二層式(2階建て)の重厚な造りになっており、1階部分の扁額には山号「高岡山(こうこうざん」、2階上部の中央には「影向閣(ようごうかく)」の扁額が掲げられている。

瑞龍寺は曹洞宗寺院であるが、山号「高岡山」の扁額は黄檗宗・隠元が揮毫している。当時、隠元がもたらした行事規範・大蔵経が曹洞宗に多大な影響を与えた時期だったことから、前田家にとっても、宮廷との繋がりから黄檗の文化が流行としてあったとされる。

また、2階の扁額「影向(ようごう)」とは、神仏が人々を救うために、一時的にこの現世に姿を現すことを意味する仏教用語で、「影向閣」は、神仏が降臨し現れる神聖な建物(門)という意味を持っている。

高さ18mの重層門で、左右に金剛力士像、楼上には宝冠釈迦如来と十六羅漢を祀る。 楼上は通常非公開で、毎年11月初旬の宝物展の時に公開される。

1階の中央に「高岡山」、2階上部に「影向閣」の扁額



「影向閣」の扁額















仏殿 「心臓・胸」:

寺の中心となる建物で、中国から渡来した釈迦・文殊・普賢の三尊像が本尊として祀られている。扁額の「大雄殿」は隠元の揮毫。

* 扁額「大雄殿」

瑞龍寺のシンボルでもある仏殿の屋根には、全国でも金沢城とここにしか現存しない「鉛瓦」が使われている。表面上の理由は「雪が滑り落ちやすく、耐久性が高いため」とされていたが、本音は幕府との戦に備えた「弾丸の原料の備蓄」であった。鉛瓦、総重量47トン、火縄銃の弾に換算すると250万発に加工が可能であったという。



鉛屋根が白く見える













法堂(はっとう) 「頭・脳」 :

伽藍の中で最も大きな建物で、書院造りの要素を持つ、法話や儀式を行うための客殿。中央奥には前田利長の位牌が安置されている。、利長の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。ここから「瑞龍寺」の名がとられた。

天井には狩野安信筆による四季の百花草が描かれている。

長廊下と外陣の間の鴨居上の「瑞龍寺」と書かれた扁額が掲げられている。これも隠元の揮毫による。



葺き替えた鬼瓦

扁額「瑞龍寺」

扁額「瑞龍寺」


禅堂 (僧堂)「左手」:

山門をくぐって左側(南側)に位置する、修行僧が座禅や睡眠を行うための極限まで無駄を削ぎ落とした静寂の修行空間。 多い時には、200人程度の雲水(修行僧)が在籍していたという。

国の重要文化財として指定されている三棟の禅堂(僧堂)の一つ。他の二つは、京都の東福寺(臨済宗)、字治の黄檗山 萬福寺(黄檗宗)。

(参照):

京の寺社2~萬福寺2026/4/19

京の寺社13~東福寺と塔頭2026/4/28






禅堂前の回廊の梁には、「魚板」(
開梆(かいぱん)とも)が吊り下げられている。魚板は、名前の通り魚の形をした板で、叩き鳴らすことで人を集める合図としている。魚の形をしているのは、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、修行に精進することの象徴とされた。因みに、お経を読む時に叩く木魚(もくぎょ)は、魚板が原型とされる。

「魚板」

扁額(へんがく)「選佛場」は、「仏を選ぶ場所」、すなわち「座禅修行によって悟りを開き、仏となる者を厳選して生み出す道場」という意味を持っている。









大庫裏(おおぐり)「右手」:

山門をくぐって右側(北側)に位置する、食事を調理する台所であり、お寺の運営を行う管理棟。漆喰を塗った真っ白な土天井など、火を使うので防火対策がされている。










正面中央の鴨居に扁額「香積山」 が掲げられている。「香積(こうしゃく)」という言葉の由来は、仏教の経典である『維摩経』の「香積仏品」というエピソードに基づいていて、香気が満ち、美味しい食べ物が集まる場所(あるいは厨房)」を意味している。

扁額「香積山」 


大茶堂「右手の指先」:

大庫裏(右手)と大茶堂(右手の指先)が連携することで、お寺を訪れる人々へのおもてなしや、僧侶たちのエネルギー補給(飲食)という「手を使った営み」が完成する構造になっている。この建物も、住職が住む建物とつながっているので防火建築になっている。




鐘楼「耳」:

鐘楼は、大庫裏と大茶堂の間をつなぐ回廊の上にチョコンと乗る建物。梵鐘は、この2階にある。

「人体表相図」において、音を響かせて時間を知らせる鐘楼は、まさに人間の「耳」にあたる。 禅寺では、鐘の音は単に時間を知らせるだけでなく、「これから食事(大庫裏の役割)です」「お茶の時間(大茶堂の役割)です」という合図を修行僧たちに伝える重要な役割を持っていた。 



鐘楼の上あたりにトビ(?)が舞っていた。






東司・浴室「左足・右足」:

トイレ(東司)とお風呂(浴室)であり、日々の生活動作すべてを修行と捉える禅宗の大切な施設。人体表相図で「足」とされる東司(トイレ)や浴室は250年前に火災で焼失したが、それぞれトイレの神様である烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)と、お風呂の神様である跋陀婆羅菩薩(ばっだばらぼさつ)が伝えられている。

回廊 「胸部や肋骨」 :

山門から法堂までをぐるりと囲み、左右の禅堂や大庫裏を繋ぐ屋根付きの廊下。雨風に濡れずに諸堂を行き来でき、かつ城壁のような防御の役割も兼ねる。 外の世界から内臓(仏殿や法堂などの中心伽藍)を守る障壁であり、同時に全身に血液や神経を巡らせる「血管・神経」のような役割を持っている。









(3)石廟(分骨廟)

瑞龍寺には前田家・織田家の石廟が遺されている。向かって右から前田利長・前田利家・織田信長・正覚院(信長の側室/信忠の生母) ・織田信忠の順。石廟の中でも利長公の廟は、壁面に二十五菩薩を刻んだ美しいものである。

向かって右から前田利長・前田利家・織田信長・正覚院 ・織田信忠




前田利長公霊廟

前田利長公霊廟

前田利長公霊廟

前田利家公霊廟

織田信長公霊廟

信長公側室霊廟

               織田信忠公霊廟

織田信忠公霊廟

前田利長の菩提を弔う瑞龍寺に、前田家の廟はともかく、なぜ織田家の廟もあるのか。それには、①前田家と織田家との深い関係と、②前身「法円寺」での供養、そして③瑞龍寺の石廟の造営ということが理由となっている。

前田家と織田家の深い絆(主従関係と血縁)

前田利家の代から前田家は織田信長に臣仕し、さらに、利家の嫡男である2代当主・前田利長の正室(永姫)は織田信長の娘(四女)であり、前田家にとって織田家は主君であると同時に、極めて近い親族でもあた。

なお、永姫の院号は「玉泉院」であり、永姫の屋敷が造成された金沢城西の丸は、「玉泉院丸」と称された。

参照):玉泉院丸庭園

金沢を歩く7~金沢城2026/7/1

前身「法円寺」での供養が起源

1582年の「本能寺の変」で織田信長・信忠親子が自害した後、前田利長は彼らの菩提を弔うため、金沢に前身となる「法円寺」を建立した。この法円寺は、のちに利長が高岡城へ移ったことに伴い高岡へと移転された。

瑞龍寺への発展と石廟の造営

利長が亡くなった後、3代当主・前田利常が利長の菩提寺として法円寺を大改築し、「瑞龍寺」を建立した。その際、法円寺時代から続いていた織田信長・信忠親子の供養もそのまま引き継がれ、境内裏手に石廟が造営された

これは、前田家が徳川の世になってもなお、かつての主君であり恩人である織田家への敬意と追悼の意を忘れていなかった証しとされる。

石廟の前にあるお茶室は、石廟に眠る祖先やかつての主君である織田信長公らの霊を慰めるため、あるいは墓参・供養に訪れた藩主や一族が心を静めてお茶を点て、供養や休息を行った空間としての役割を持っている。





(4)前田利長公墓所

瑞龍寺から東へまっすぐ直線を引いたその先に、利長公墓所が位置している。さらに、その延長線上には利家・利長親子の出身地である名古屋・荒子を指すという。瑞龍寺と墓所、2つの聖地を結ぶ直線道路は、長さが約8丁(1丁=約109m)あることから「八丁道」と呼ばれている。(残念ながら行かなかったが、瑞龍寺の入り口付近に案内板が立っていた。)

3代藩主利常は、瑞龍寺と前田利長公墓所を、表裏一体の存在として構想・整備した。利長公の 三十三回忌にあたる1646年(正保3年)に壮大な墓所を造営し、五十回忌(1663年)に向けて瑞龍寺を造営した。

大名個人の墓としては日本最大級の規模であり、当時は1万(5万とも)坪(現在は約3千坪)の敷地に、墓碑は戸室石の基壇を含め高さ12mの偉容を誇る。



「一つやいと」

総門の近くに「一つやいと」と大きく書かれた看板がありました。なんでしょうか?調べてみました。

「一つやいと」とは、無病息災を祈願して参拝者に施される伝統的なお灸(やいと)の行事で、毎年61日と71日の年2回開催され、無病息災を祈願して多くの人が訪れるという。

250年前、瑞龍寺の雲水(修行僧)たちが座禅や厳しい修行の疲れを癒すために、お灸をすえ合ったことが始まりとされている。明治時代初期ごろから、田植えを終えた農家の人々や一般の参拝者にも健康祈願として施されるようになったという。

万病に効くとされる両膝のツボ(三里など)に、僧侶が真言を唱えながらもぐさに火をつける。 伝統的な手法のため比較的熱く、参拝者が熱さに声を漏らしたり歯を食いしばって耐えたりする光景が風物詩となっているという。



つづいて、瑞龍寺の各建物の内部に祀られている仏像などを見ていきます。


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