赤門・本郷通りから |
前回に述べたように東大本郷キャンパスの地は、加賀藩前田家の上屋敷であったことから、その当時の建造物として、赤門が残されています。いまでは赤門イコール東大といってもいいようなシンボルとなっていますが、東大の正門は、その横にあります。今回は、赤門と正門を観ていきます。
1.赤門
加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門である赤門は、1827(文政10)年、第12代藩主・前田斉泰(まえだなりやす)が11代将軍・徳川家斉の娘、溶姫(やすひめ)を正室に迎えるにあたって建築された門である。
当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際には朱塗りの門を創建するという慣例があった。大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿を御守殿(ごしゅでん)あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を朱塗りにしたところから、表門の黒門に対して赤門と呼ばれた。(ちなみに、上野の東京国立博物館には、「黒門」と呼ばれる、旧因州池田屋敷表門 が置かれている。)
江戸時代には、赤門は焼失しても再建を許されないという慣習があったため、大名屋敷にあった赤門はほどんどが残っていない。加賀藩上屋敷もたびたび火災にあったが、幕末ということもあり、溶姫も明治元年まで存命であったこともあり、明治以降も奇跡的に災いを免れたことから現存し、この赤門が往時の原型を残す唯一の門となっている。
赤門中央部は、「薬医門」と呼ばれる建築形式で、屋根は瓦葺きの切妻造となっている。屋根の上部にある棟瓦には徳川家の葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋である梅鉢がかたどられている。赤門の左右には、唐破風造の番所が置かれ、その左右に海鼠壁の塀がある。
なお、「薬医門」とは、 2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門で、本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け、患者の出入りを楽にした医家の門として用いられたので、この名前があるという。
この赤門は、震災、戦災を潜り抜け、いまでは東大を代表するシンボルとなっている。しかし、2021年から耐震性の問題により閉鎖されていて現在は通ることはできない。
赤門 |
赤門・唐破風造の番所 |
赤門・薬医門 |
赤門・薬医門 |
赤門 |
海鼠壁の塀 |
赤門・構内側から |
赤門・キンモクセイが咲く |
赤門・構内側から |
赤門番所・構内側から |
赤門・構内側から |
赤門・銀杏並木側から |
2.正門
明治19年に、大学令を受け帝国大学が本郷の地に開校するが、当初は赤門が正門の役割を果たしていた。明治28年頃には現在の正門の位置に、木造の柵と柱、扉からなる「仮正門」が置かれた。その後キャンパス内の整備が進むなかで、あらたに正門の建設が計画された。
現在の正門は明治45年、当時の東京帝国大学第8代総長濱尾新の考案のもと、建築学科教授伊東忠太の基本設計、営繕課長山口孝吉の施工管理により建設された。
明治45年に図書館で行われた卒業証書授与式の際の天皇陛下行幸をもって開門したことから、正門の高さは、正門の行幸の際の騎馬儀杖兵の槍先を考慮したためともいわれている。
正門は冠木(かぶき)門という伝統的な形式で、冠木の最上部のデザインは吉兆を表す瑞雲から昇る朝日がかたどられている。また、門扉の模様は、青海波と縦格子、唐草模様で構成されている。
一方、門柱は鉄骨の柱を花崗岩で張り上げており、両側の門衛所は煉瓦壁と白丁場石でできていて、全体として東大の正門にふさわしい重厚な趣がある。
当初の中央門扉、冠木は腐食が進んだため、昭和63年に取り外され、修復後、平成4年より構内で保管されている。現在の門扉、冠木はその際に、新たに設置されたアルミニウム合金製のレプリカとなっている。
なお、伊東忠太の設計にかかわる建造物として、本郷キャンパスにあるのは、この正門と、工学部1号館前にあるジョサイア・コンドルの銅像の台座である。銅像は新海竹太郎による。伊東忠太は、当時の帝国大学工科大学の出身で東大建築学科の教授も務めているが、東大関係の設計はほとんど手掛けておらず、この正門と銅像の台座の2点と数少ない。
伊東忠太(1867-1954)より後に東大建築学科を卒業し教授、さらに総長となった内田祥三(1885-1972)により関東大震災後の東大キャンパスの復興が図られる。その際、多くの門が鉄筋コンクリートで作り直された。いずれも内田祥三のデザインで、冠木のないシンプルな形式となっている。
次回は、内田ゴシックともいわれる安田講堂をはじめとする建築群を観ていく。
(参考):
『赤門-溶姫御殿から東京大学へ』堀内秀樹・西秋良宏編 東京大学出版会 2017年
『東京大学 本郷キャンパス案内』木下直之ほか編 東京大学出版会 2005年
正門・門衛所 |
正門・冠木門 |
正門・門衛所 |
通りの塀 |
通りの塀 |
本郷キャンパスには赤門正門以外にも多くの門があるが、次の二つの門をまわった。
3.龍岡門
旧地名龍岡町から名付けられた。設計は内田祥三による。かつては門扉が付いていたが、道路を広げる際に撤去され、現在は門柱の実となっている。門を入ると左手は中央棟、右手は附属病院になり、バスも通る道となっている。
4.弥生門
弥生町にあることから名付けられた。弥生町は弥生式土器、弥生時代の名として知られている。門を入ると、正面に工学部3号館がある。これは内田祥三の設計であったが、取り壊され、内田ゴシックを継承した工学部新3号館が建っている。
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