2026年8月8日土曜日

高岡を歩く6~勝興寺(1):前史

 

大伴家持の像

JR氷見線に乗り、伏木駅で降り、勝興寺にやってきました。駅から300mぐらいで勝興寺です。ここも見どころがたくさんあり、何回かに分けて整理したいと思います。

勝興寺のあるところは「高岡市伏木古国府」といい、地名の通り、奈良時代には越中国府があったとされています。寺の門の前には、国府に赴任したという大伴家持の像が立ち、国府館があった跡といわれるところには、旧・私立伏木測候所があります。

伏木駅から勝興寺に至る坂道


1.越中国府

勝興寺の一帯は、越中国府の国庁や国守館があったとされる。勝興寺の前史として、その伏木の歴史と大伴家持についてみてみる。

* 伏木台地推定復元ジオラマ(高岡市万葉歴史館蔵)

奈良時代、律令制のもとで各国に「国府」が整備された。越中国の国府が伏木に置かれた理由は、交通の要衝という、その地理的優位性にあった。伏木は、小矢部川(射水川)の河口に位置し、日本海に面した港(伏木港)を持つ「海の道」「川の道」「陸の道」の結節点であり、都や他国との物流・情報伝達に最適な拠点だった。

国府の構成:現在の勝興寺を中心とする台地一帯に、政務や儀式を行う「国庁」、国守が暮らす「国守館」、さらに近くには「国分寺」などが配置され、先進的な都の文化が流入する地方都市として栄えた。

大伴家持の赴任: 日本最古の和歌集『万葉集』の代表的歌人であり、編纂者ともされる貴族・大伴家持は、天平18年(746年)に29歳の若さで越中国守として伏木に赴任した。彼は都へ戻る天平勝宝3年(751年)までの5年間、この伏木の地で政務を執り行った。

家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、地方に追いやられた左遷であるとする説があるようだ。 5年後、天平勝宝3年(751年)7月に少納言に任ぜられて平城京へ帰還した。

家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749年)に従五位に昇進するが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっている。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかった。その背景には、橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたとされる。

家持にとって越中国時代が、最も充実した黄金期とされる。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位であり、そのうち、越中国時代5年間の歌数が223首もあるという。

大伴家持の像の横にある歌碑には、少納言となって都へ戻ることとなった家持が、餞別の宴で詠んだ歌が刻まれている。

しなざかる 越に五年住み住みて 立ち別れまく 惜しき宵かも

(訳)都を離れて山野層々たる越の国に、五年ものあいだ住み続けて、今宵かぎりに立ち別れゆかねばならぬと思うと、名残惜しい。





奥に見えるのは勝興寺の総門


大伴家持が去った後、平安・鎌倉時代を経て国府としての機能は失われていくが、伏木の台地はその後も歴史の舞台であり続けた。

中世の城郭化:戦国時代、国庁の跡地は、守山城の出城である「古国府城(ふるこくふじょう)」という城砦として利用されていた。

勝興寺の移転(天正12年・1584年):一向一揆の拠点として各地を転々とし、一時期は坊舎を失っていた浄土真宗の有力寺院「勝興寺」が、越中を治めた武将・佐々成政や与力の神保氏張からこの「古国府」の地を寄進され、移転してきた。

このように、「古代の政治の中心(国庁) → 戦国時代の城砦→ 近世・近代の巨大寺院(勝興寺)」という重層的な歴史が、現在の伏木古国府の土地に刻まれている。

2.私立伏木測候所(観測所高岡市伏木気象資料館)

江戸時代から明治にかけて、伏木は日本海を行き交う北前船の重要な寄港地として大いに栄えていた。船乗りや商人たちにとって、天気の急変や暴風雨は命や財産(積み荷)を失う最大の脅威であった。

明治16年、伏木の発展に尽力した地元の廻船問屋である藤井能三らが、「安全な航海には正確な気象観測が絶対に必要だ」と考え、私財を投じて「私立伏木測候所」を設立した。国ではなく、民間の手によって作られた測候所としては日本初とされる。

最初は伏木港近くの「伏木燈明台」の一室で観測を始めたが、明治42年(1909年)に、二度目の移転先として丘の中腹にある現在の場所(古代の越中国守館跡の推定地)に新築移転された。ここは、見晴らしが良く、風や天気の観測に最適な高台だった。
昭和14年(1939年)には国営(中央気象台)に移管され、平成10年(1998年)に無人化されるまで、100年以上にわたり毎日欠かさず気象データを記録し続けた。

現在残る建物は明治42年(1909年)の移転当時のもので、明治後期の貴重な木造洋風建築である。また、敷地内には、昭和12年(1937年)に建てられたコンクリート製の「測風塔」も残されており、こちらも庁舎とともに登録有形文化財に指定されている。



藤井能三像

高台から立山連峰を望む


3.如意の渡し

伏木駅近くに「如意の渡し」銅像がある。もともとは小矢部川沿いの船着場にあったが、より多くの人の目に留まるよう駅前に移設された。この像は、 『義経記』の逸話をモチーフにしており、ここ伏木の「如意の渡し」が舞台とされている。

源頼朝と不和になり、奥州を目指す義経一行。 小矢部川の「如意の渡し」で船に乗ろうとした際、渡守に義経ではないかと怪しまれた、その絶体絶命のピンチを救うため、弁慶がとっさの機転で「お前のせいで疑われるのだ」と激怒し、主君である義経を扇で激しく打ち据えて疑いを晴らしたという。銅像は、その名場面を再現している。

渡し船「如意の渡し」は、伏木と対岸の射水市庄西町を結ぶ、小矢部川の河口に古くからあり、2009年まで運航されていた。しかし、ほぼ同じ位置に「伏木万葉大橋」が開通したことでその役目を終え、歴史ある渡船としての幕を閉じた。 それにちなみ、この銅像が造られた。

如意の渡

扇で激しく打ち据える弁慶

山伏に変装した、堪える義経

つづいて、勝興寺に入り、その歴史を辿ってみます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

東京異空間438:向日葵から彼岸花へ

  9 月の半ばを過ぎましたが、東京は 21 日連続して雨が観測されています。そんな不順な天気ですが、植物はしっかりと季節を伝えてくれます。 雨が上がり、少し日が差してきたので、カメラを持って散歩に出ました。向日葵が夏の名残りを残すように咲いていて、近くには真っ赤な彼岸花が秋...

人気の投稿