| 旧岩崎家別邸庭園 |
箱根湯本にある吉池旅館にある旧岩崎家別邸の庭園に行ってみました。
これまでも、岩崎家ゆかりの邸宅、庭園などはいくつか訪れたことがあります。今回は、それも振り返る機会になりました。
1.旧岩崎家別邸
(1)庭園「山月園」
箱根湯本の吉池旅館の敷地内にある庭園は、明治41年(1908年)頃に三菱財閥の2代目総帥・岩崎彌之助が別荘を構えた際に造園された、1万坪を超える広大な回遊式庭園である。
戦後、1940年に開業した吉池旅館の敷地および庭園として引き継がれ、現在も当時の面影と自然美を大切に保存されている。
(2)別邸建物
1902年、三菱2代目社長・岩崎彌之助は、欧米旅行の際に訪れたスイスでの見聞をきっかけに、帰国後すぐ箱根での別荘建設に乗り出した。
和館:
和館は、京都出身の岩崎家建築技師・清水仁三郎に設計を委ね、広大な回遊式庭園を取り入れた。庭園の池は近くを流れる須雲川から引き入れ、草花や石ひとつに至るまで吟味し、全国から集めるほどのこだわりようだったという。
洋館:
和館が完成すると、今度は三菱ゆかりの建築家ジョサイア・コンドルに、洋館の設計を依頼した。水辺に建つ、煉瓦造りの、瀟洒なヴィラ風の建物。それは彌之助がスイスで感銘を受け、心に描いたものだった。
しかし、1908年、竣工まであと数ヵ月というときに彌之助は逝ってしまい、土地はすべて息子の小彌太に譲られた。この洋館は1923(大正12)年の関東大震災によって倒壊してしまい、現在は残っていない。
(参考):
2.真光庵と暁庵
数寄屋造りの「旧岩崎彌之助邸別邸和館」のほか、徳川家16代目から継承された茶室「真光庵」と、山縣有朋の別邸から移築された茶室「暁庵」が館内で見ることができる。(こちらは見逃したが)
(1)真光庵(しんこうあん)
真光庵は、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の養子となり、徳川宗家16代目当主となった徳川家達(いえさと)から継承されてきたといわれる茶室である。
昭和62年(1987年)頃に吉池旅館が譲り受け、現在の旧岩崎家別邸和館の隣へと移築された。
真光庵の建物自体は内部非公開だが、隣り合う旧岩崎家別邸和館との間に露地庭(茶庭)が造られている。周囲に配置された石灯籠や手水鉢、そこからこぼれ出る清らかな水のせせらぎが、侘び寂びのある風情を醸し出している。
(2)暁庵(あかつきあん)
明治の元勲・山縣有朋が小田原に建てた別邸「古稀庵」から移築された茶室である。
明治40年(1907年)、山縣有朋が自身の古希(70歳)を記念して小田原の板橋に造営した広大な別邸「古稀庵」の一角に貞子夫人のために設けた離れ家(茶室)が、現在の「暁庵」にあたる。
昭和末期、古稀庵の敷地改修などに伴い、建物が取り壊される運命にあった。しかし、その歴史的価値を惜しんだ地元・箱根湯本ホテルによって建物(離れの「暁亭」など)が譲り受けられ、箱根へと移築。その際、茶室部分が現在の吉池旅館へと移された。
山縣有朋は政治家としてだけでなく、「明治の庭園王」とも称されるほど造園や数寄(茶の湯などの風流)に深い造詣を持っていた。よく知られている庭園には、京都「無鄰菴」、東京「椿山荘」などがある。
| 暁庵の入口(門) |
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| * 暁庵 |
(3)源泉・池・テラス
山月園をまわると、源泉が噴き出しているところがある。さらに池の周りにはテラスがあり、ゆっくりと庭を眺めることができる。
| 自家源泉 |
| 自家源泉 |
| 待合 |
| 待合 |
| 展望テラス |
(4)吉池旅館
岩崎家の由緒ある別邸建築や庭園を受け継ぐ形で、「吉池旅館」として1940年(昭和15年)に創業・開業した。
| 近くを流れる須雲川 |
3.岩崎家の別邸・庭園
岩崎家は初代の彌太郎から二代・彌之助、三代・久彌、四代・小彌太、そして五代となる予定だった彦彌太まで、それぞれに別邸、庭園などを残している。
(1)初代:岩崎彌太郎
1870年〜1885年。三菱の創業者。土佐藩の九十九(つくも)商会を母体に海運業を開始し、明治政府の軍事輸送(台湾出兵や西南戦争)を一手に引き受け、日本の「海運王」として基盤を築いた。
清澄庭園
沿革: 江戸時代の元禄期に豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる地。のちに下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、明治11年(1878年)に彌太郎が買い取り、ここを社員の慰安や貴賓をもてなす「深川親睦園」として開園した。関東大震災で大きな被害を受けた後、岩崎家は東半分を当時の東京市に寄付し、整備を経て昭和7年(1932年)に市民の公園「清澄庭園」として公開された。
(参照):
東京異空間133:大名庭園を歩く10~清澄庭園(2023/7/7)
岩崎彌太郎生家(高知)
沿革: 彌太郎が生まれ育った江戸時代末期の茅葺き民家。
弥太郎が少年時代、自ら庭に日本列島を模して配置したといわれる石組みが残っている。
(2)二代:岩崎彌之助
1885年〜1893年。彌太郎の弟。海運の独占から、「鉱山・造船・地所(丸の内)」への多角化へと舵を切る。国から購入した東京・丸の内の荒れ地を近代的なオフィス街(のちの「一丁ロンドン」)へと変貌させた。
また、文化・芸術への造詣も深く、美術品の収集(静嘉堂文庫の基礎)にも尽力した。
静嘉堂文庫(世田谷)
沿革:1892年(明治25年):彌之助が神田駿河台の自邸内に「静嘉堂文庫」を設立。恩師である歴史学者・重野安繹(成斎)を初代文庫長に迎え、東洋の古典籍の蒐集を開始する。
彌之助の没後、息子で4代・小彌太が遺志を継ぎ、コレクションをさらに拡充。美術品の蒐集も本格化した。
世田谷区岡本に、書籍庫(静嘉堂文庫)が竣工。設計は桜井小太郎によるもの。
1977年(昭和52年):世田谷に「静嘉堂文庫美術館」が開館し、一般公開する。
2022年、美術館は丸の内に移転したが、世田谷には、大正時代に建てられた英国風の「静嘉堂文庫」 と、ジョサイア・コンドル設計の「岩崎家玉川廟」を擁する緑豊かな庭園が今も残されている。
(参照):
東京異空間117:饒舌館長ベスト展~静嘉堂文庫美術館in世田谷(2023/6/1)
六義園(りくぎえん)
沿革: 江戸時代に五代将軍・徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保が造営した、和歌の趣味を反映した大名庭園。明治11年(1878年)に岩崎彌之助が購入し、荒廃していた名園を三菱の財力によって見事に復興させた。のちに三代・久彌の時代(昭和13年/1938年)に東京市へ寄贈され、一般公開された。
吉池旅館庭園(旧岩崎彌之助別邸)
沿革: 明治期に彌之助の別邸として建てられた。現在は温泉旅館「吉池旅館」に庭園と一部の建物が大切に保存されている。(上記)
関東閣(港区高輪)
沿革:明治22年(1889年)に、のちに3代当主となる岩崎久彌(彌太郎の長男)が伊藤博文の邸宅地だったこの土地を購入。
明治33年(1900年)に岩崎彌之助(2代当主)が土地を譲り受け、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルに設計を依頼して本格的な洋館の建設を進める。
彌之助自身は完成直前の明治41年(1908年)に亡くなるが、同年に建物が完成。その後は彌之助の長男である小彌太が数年間住まいとして使用した。
昭和13(1938)年に小彌太がこの土地建物を三菱社に譲った時に「開東閣」と命名された。
現在は三菱グループのプライベートな迎賓館として利用されていて、一般非公開である。
(3)三代:岩崎久彌
1893年〜1916年。彌太郎の長男(彦彌太の父)。三菱合資会社を設立して各事業を近代化し、組織を盤石にした。育英事業や日本最大級の東洋学研究図書館「東洋文庫」を設立するなど、文化・社会貢献への功績も大きい。
東洋文庫
沿革:1917年、久彌がオーストラリアのジャーナリスト、G. E. モリソン博士から購入した、欧州言語による東洋関係の書籍・絵画などの破格のコレクション、約2万4千冊(モリソン文庫)が基盤となっている。1924年(大正13年)に文京区本駒込に「財団法人東洋文庫」が設立された。
ミュージアム内の、床から天井まで本棚が敷き詰められた「モリソン書庫」の美しさは圧巻である。
(参照)
東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫(2024/5/17)
旧岩崎邸庭園
沿革: 越後高田藩榊原家などの屋敷地を彌太郎が取得した後、長男の久彌が本邸として大規模に建て替え、明治29年(1896年)に竣工した。当時は約1万5,000坪の敷地に20棟以上の建物があったが、現在は洋館・和館(大広間)・撞球室の3棟と庭園が残っている。
洋館: ジョサイア・コンドルによる設計。17世紀英国のジャコビアン様式を基調に、イスラム風のモチーフなどが融合した木造2階建ての名建築。2階には貴重な「金唐革紙」の壁紙が残る。
和館(大広間): 洋館と完全に結合された、当時の名棟梁・大河喜十郎の手による純和風の書院造り建築。
撞球室(ビリヤード場): 洋館から地下道で繋がっている、珍しいスイスの山小屋風木造建築。
(参照):
三養荘(静岡県伊豆の国市)
沿革:1929年(昭和4年)、3代・久彌の別邸として建てられた数寄屋造りの建築。
現在はプリンスホテル系列の最高級旅館となっており、京都の名造園家・小川治兵衛が手掛けた広大な日本庭園と、近代建築の巨匠・村野藤吾が設計した新館の和風建築が見事に融合している。
旧岩崎久彌末廣農場別邸公園(千葉県富里市)
沿革:大正末期〜昭和初期に、久彌が先進的な農牧事業を行う「末廣農場」を開設。その中央部に滞在用別荘として別邸(主屋・東屋・石蔵など)が建築される(設計は津田鑿)。
戦後、GHQの占領政策による東京本邸の物納に伴い、久彌は末廣別邸へと移り住み、晩年を過ごし、昭和30年(1955年)に90歳でこの地で亡くなる。
2020年〜2025年にかけて歴史公園「旧岩崎久彌末廣農場別邸公園」として整備され、一般公開されている。
(4)四代:岩崎小彌太
1916年〜1945年。彌之助の長男。三菱の各部門(造船、商事、重工、銀行など)を独立した株式会社に分け、「近代的巨大コンツェルン(財閥)」へ完成させた。
国際文化会館庭園(旧岩崎小弥太鳥居坂本邸)
沿革: 昭和4年(1929年)に岩崎小弥太の麻布鳥居坂本邸として建設された。戦後、建物は失われたが、現在は「国際文化会館」となり、庭園は、七代目小川治兵衛作庭の回遊式庭園である。
(参照):
東京異空間131:大名庭園を歩く8~国際文化会館(2023/7/1)
小田急 山のホテル(旧岩崎小彌太元箱根別邸)
沿革: 明治44(1911年)に小彌太が芦ノ湖畔に造営した別荘「見南山荘」の跡地。現在はリゾートホテル「山のホテル」となっている。
大庭園とツツジ: 芦ノ湖と富士山を望む絶好のロケーションにあり、小彌太が植えさせた男爵ゆかりのツツジやシャクナゲが、今も春になると咲き誇る。
(5)岩崎彦彌太
1895-1967年。久彌の長男。三菱財閥の5代目当主になる予定だったが、GHQによる財閥解体に伴い、なることはできなかった。
殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)
沿革:1913年(大正2年)から1915年にかけて、満鉄副総裁などを務めた実業家・江口定條(さだえ)の別荘として整備されたのが始まり。赤坂の庭師・仙石荘太郎によって作庭され、当時は「随冝園(ずいぎえん)」と呼ばれていた。
1929年(昭和4年)、彦彌太がこの地を買い取り、岩崎家の別邸とした。彦彌太は津田鑿(さく)の設計により、昭和9年にモダンな洋館を竣工させ、数寄屋造りの茶室を新設するなど、和洋折衷の回遊式林泉庭園として現在の形に完成させた。
昭和40年代、周囲の開発計画により、庭園が失われる危機に瀕したが、地域住民による強い保存運動が起こる。これを受けて1974年(昭和49年)に東京都が買収し、1979年に有料の都立庭園として開園した。
(参照):
東京異空間108:都会の中の庭園~殿ヶ谷戸庭園(2023/5/4)

















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