2024年2月23日金曜日

東京異空間183:古賀忠雄展@練馬区立美術館

練馬区立美術館「古賀忠雄展」

練馬区立美術館で、古賀忠雄展が開かれていて、あわせて木下直之氏のトークイベントがあるということなので、行ってきました。

木下氏は、『股間若衆』『せいきの大問題 新股間若衆』などの著書があり、極わめてユニークな美術論を展開しています。

1.古賀忠雄(1903-1979)

古賀忠雄は、佐賀市に生まれ、戦後は練馬にアトリエを構えていた。彼は、ロダンやブールデル、北村西望等の影響を受け、写実の中にやや誇張した表現を取り入れながら、安定した形態を持つ人体や動物を多く制作している。 その作品は地元の佐賀県立美術館の野外にある「古賀忠雄彫刻の森」 や練馬区内をはじめ、全国各地の公共空間にも設置されている。

今回の展覧会は、古賀忠雄生誕120年記念ということ、練馬にアトリエを構えていたことなどにより、練馬区立美術館で開催されたようだ。展示されている主な作品を観てみる。展覧会のサブタイトル「塑造(像)の楽しみ」にあるように、「彫刻」ではなく粘土などを足し引きし形を生み出す 「塑造」の作品である。

会場の入り口を入りすぐに人物の顔の塑像がある。タイトルは<練馬の男>とある。ブロンズと石膏の二つが並べられている。何故、これが<練馬の男>なのか、単に古賀の知り合いの男なのか。

<鶏舎の朝>という作品は女性が鶏を持って立つ姿である。彫刻で、絵画のような情景を表現するという試みのようだ。

<猫>という作品は、やはり猫の顔の部分のみ。お面のようにも見える。

<鮭>という作品は、すぐに高橋由一の有名な「鮭」の油絵を思い浮かべる。こんな縦長の彫刻というのも珍しい、しかも鮭の口から出た縄を持つ手のみが添えられている。高橋由一の鮭も古賀の鮭もどちらも浮世絵の柱絵の形式が受け継がれているのであろうか。

会場の中央に大きな二人の立像(裸体像)が置かれている。<二つの道>というタイトルである。ひとりはうなだれ、もうひとりは頭を抱えるている。どちらにしてもこれからの道は困難が待ち受けているということだろうか。

練馬美術館の屋外にも古賀の作品が置かれている。<森の幻想>というタイトルで、背中合わせになった男女二人の裸像の間に子供がいる。なぜか、男女ともに天使のような羽を持っている。プレートには「平和で健康な家族の象徴」と書かれている。同じ像が佐賀県立森林公園にも設置されている。塑造がもつ複製性という特徴である。

<練馬の男>石膏・1948年

<練馬の男>ブロンズ・1948年

<鶏舎の朝>石膏・1948年

<鶏舎の朝>石膏・1951年頃

<沼の幻想>ブロンズ・1968年

<沼の幻想>ブロンズ・1968年

<猫>石膏・1944年

<草原を行く>1971年頃・石膏

<鮭>ブロンズ・1952年

<鮭>ブロンズ・1952年

<二つの道>ブロンズ・1962年

<二つの道>ブロンズ・1962年

<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型)

<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型)

<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型)


2.彫像の公共性~木下直之の講演より

木下直之氏の講演は、「男性裸体像について」と題するもので、著書にもあるように、明治以降、裸体像が公園など公共の場に置かれ、いかに「股間」を隠すかに工夫がなされてきたことを古賀の作品も例にとりあげて解説された。彫像の公共性ということと合わせ、その時代性に関しても興味深い話があった。

古賀忠雄の作品のなかに、戦前に制作された<総決起>1944年はセメントで、かつての常磐炭鉱(いわき市)に造られた。同じように北海道・芦別には<闘魂>、夕張に<進発>、福岡・大牟田に<減敵>と題した4体のセメント像が造られた。これらは、1944年に結成された「軍需生産美術推進隊」の一員として参加し制作された。この戦意高揚のために造られた像は、<坑夫の像>と題名変更され、戦後復興のための石炭増産のシンボルとなった。

またこれらの像は、上を向き、手を空に向かって高く上げている姿をしている。先に観た、戦後に造られた<二つの道>とは、まったく正反対の姿である。古賀は、後に「戦時中は彫刻はできませんでした」と語っているという。戦時中の自分を「空白」にしたい気持ちがあったのだろうか。

<敗戦から立ち上がる日本>1950年原型、よみうりランドに1963年設置

<黙行>ブロンズ・1950年原型、佐賀駅前に1993年設置

<闘魂>セメント・1945年頃、現存せず

<坑夫の像>石・北海道・芦別に設置

このように戦前は、戦意高揚のため公共の場に置かれた彫刻が、戦後は一転して平和を祈念する像に替わった作品が広島にあるという。木下氏が例に挙げられたのが「日清戦争凱旋塔」である。

「日清戦争凱旋塔」は、1896年(明治29年)竣工、全高16メートルで、頂部に金属製のトビ(金鵄)の像が飾られている。トビは「金鵄勲章」の金鵄を指す。場所は、「宇品御幸通り」 沿いにある。御幸通りは、1885年(明治18年)明治天皇が広島に行幸した際に、広島から宇品港へ向かう通り道となったことから、その名がついた。

1894(明治27)年)日清戦争が勃発すると宇品港は兵站基地となり、御幸通りを多くの兵士が通って戦地へと向かった。1895(明治28)年日清戦争に勝利すると、兵士たちを迎える凱旋碑としてここに建てられた。あわせて、帰還兵士を出迎えるための凱旋門 (パリの凱旋門に似せたもの)も仮設されたという。こうした記念碑・凱旋門・凱旋碑・忠魂碑は全国各地に造られた。

戦時中の金属類回収令で、多くの彫刻(金属)が次々に外されたものの、塔の頂部の金属像は保たれた。また、広島の原爆投下でも倒壊はしなかった。そして戦後、1947(昭和22)年、進駐軍からの糾弾を恐れ、「凱旋碑」と書かれていた部分をセメントで塗りつぶし「平和塔」に刻み変えられた。

「金鵄」は平和のシンボルである「鳩」に読み替えられたのだろうか。軍国主義から民主主義への変わり身の早さというのだろうか。それにしては勇猛な姿をしている。かつては「鷹の記念碑」とも言われていたという。

先の古賀忠雄の<坑夫の像>もそうだが、公共の場に置かれた彫像は、作者の意図を超えた意味が付け加わり、その役割は時代とともに変化していく。

「日清戦争凱旋塔」(ウィキペディアより)

トビ(金鵄)


木下氏の講演は最後に古賀忠雄の西郷隆盛像をとりあげた。西郷隆盛の像と言えば、上野にある西郷さんが有名である。これは大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれ、高村光雲によって制作された(1898年)。

このほかに、鹿児島市立美術館近くに立つ、地元の彫刻家・安藤照による西郷像がある。1937(昭和12)年に立てられた。

そして、古賀忠雄の西郷は「現代を見つめる西郷隆盛」と題された、10.5mに及ぶ大作であった。1977年に制作されたが、発注者が亡くなり、古賀自身もその後亡くなったため長く倉庫に保管されていたところ、1988年に鹿児島空港近くに設置され一帯を西郷公園として整備された。

これら3体の像で着目するのは、西郷の着ている服である。上野の西郷は犬を連れ着流しの服である。犬(ツン)を連れて兎狩りに行く姿だというが、こんな格好して狩りに行くのだろうか?

安藤の西郷は、軍服姿である。古賀の西郷は袴姿で太い腕を組んでいる姿である。西郷は、陸軍大将であり、本来ならば軍服が制服であろう。上野の西郷は、当初は騎乗の軍服姿が構想されたが、ある筋から猛烈な反対が出たという。古賀は、着流しでも、軍服でもなく、その中間ともいえる袴姿である。そしてタイトルに<現代を見つめる西郷隆盛>とあるように、腕を組んで遠くを見つめている姿は堂々として立派である。

時代に応じて像の服装にも意図が付け加えられ変わっていくということだ。なお、偉人、有名人の像は正装した姿がほとんどであるが、無名の人は、裸像となり、股間を隠す姿が多いようだ。いずれにしても、公園や駅前の広場など公共の場にこれほど男女ともに裸像が多く置かれているというのも考えてみれば不思議だ。

<現代を見つめる西郷隆盛>ブロンズ・1977年

<現代を見つめる西郷隆盛>西郷公園に設置(ウィキペディアより)

<現代を見つめる西郷隆盛>西郷公園に1988年設置


高村光雲作「西郷隆盛像」上野公園1898年に設置(ウィキペディアより)

安藤照作「西郷隆盛像」ブロンズ・1937年制作、鹿児島市立美術館そばに設置(ウィキペディアより)

古賀忠雄の作品を観て、また、木下直之氏の講演会を聞き、裸体像というだけでなく、彫像のもつ時代性というものにあらためて関心を持ちました。

公園などにも多くの彫刻作品が置かれていますが、いわれてみれば男女ともに裸の像が多いのではないでしょうか。日本だけでしょうか、こうした公共の場に裸体像が多く置かれているのは。


2024年2月21日水曜日

東京異空間182:神楽坂の横丁と寺社

 

「神楽坂」

印刷博物館から神楽坂にまわってみました。神楽坂は、かつては花街として栄え、一つ路地を入ると、その風情が残っているところがあります。日本料亭のほかに、フレンチやイタリアンなど洒落たお店が多いようです。また、毘沙門天で知られる善国寺や、赤城神社などの寺社も散在しています。そんな神楽坂を散策してきました。

1.神楽坂の横丁

「神楽坂」という名の由来は、近くの神社から神楽の音が聞こえてきたことからという説などがあるようだ。飯田橋駅から外堀通りに出ると、神楽坂下交差点があり、ここが神楽坂下で、坂を登り、毘沙門天善国寺を通り過ぎ、大久保通りとの交差点、神楽坂上までが、神楽坂である。なお、神楽坂通りは神楽坂上を更に越えて地下鉄東西線・神楽坂駅の赤城神社側出口辺りまでを指す。

表通りから一歩入ると静かな路地があり、かつての花街の趣を残した横丁の名前が付けられている。そこには、政治家なども利用するという老舗の料亭などがある。

(1)「かくれんぼ横丁」

横丁の名は、「お忍びで遊びに来た人の後をつけても、横に入られると見えなくなる」ことが由来 。

〇「天孝」:初代 は天ぷら職人として他店で働いている時に、その天ぷらに惚れ込んだ神楽坂の芸者から独立して神楽坂でやりなさいと言われ、その芸者宅の一階を借りてスタートしたという。

〇「山路」:築70年の料亭「山路」をフルリノベーションした一棟貸しのホテル。元料亭かつ芸者の稽古場だった「花街建築」と称される歴史ある外観は、「山路」の看板も含めて、そのまま生かしたという。

〇「八仙」: 現役の神楽坂芸者がオーナーとなり2011年から「貸席八仙」として営業し、2023年からは「料亭八仙」として営業をはじめたという。政治家も利用するようだ。

「天孝」

「山路」

「八仙」

「八仙」

(2)「兵庫横丁」

神楽坂の中でも最も古い道といわれており、その名は戦国時代に武器庫(兵=兵器/庫=倉庫)があったことに由来。

〇「和可菜」:旅館「和可菜(わかな)」は1954(昭和29)年に女優・木暮実千代が出資して、建築、妹が女将として経営した。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として知られた。2015年末に一時閉店し、隈研吾設計事務所の手を借りて、再出発の予定という。

〇「幸本(ゆきもと)」: 創業から60年を超える歴史ある老舗の日本料亭。 兵庫横丁の風情ある佇まいである。

「幸本(ゆきもと)」

「和可菜」



(3)「見番横丁」

芸者衆の手配や稽古を行う「見番(けんばん)」が沿道にあることから名付けられた。

〇「鳥茶屋 別亭」:うどんすきなど関西料理のお店。本店は神楽坂通りに面してあったが2020(令和2)年に閉店。コロナの影響が大きかったようだ。別亭は見番横丁の近く、 「芸者小道」と呼ばれる場所で営業。

「見番横丁」

「鳥茶屋 別亭」

(4)「本多横丁」

江戸中期から明治初期にかけて、旗本の本多対馬守の屋敷があったことに由来。

〇「伊勢藤(いせとう)」: 創業は昭和12年だが、創業店は戦災で焼け、昭和23年に再度建築。町屋造りの酒亭で、静かに酒を飲む所という。本多横丁から入った「酔石横丁」にある。

「本多横丁」

「伊勢藤(いせとう)」


2.神楽坂の寺社

(1)善国寺

神楽坂の途中にある街のシンボル的な存在で、創建は文禄4(1595)年、徳川家康が鎮護国家の意を込めて創建したとされる。江戸時代は、毘沙門天信仰の寺として、浅草の「正法寺」、芝の「正伝寺」と並び江戸三毘沙門に数えられていた。

毘沙門天は、仏教を悪から守る護法善神と呼ばれる守護神の一人で、北の方角を守るとされる。 日本では、独尊で祀られる場合には「毘沙門天」と呼ばれ、四天王として祀られる場合には「多聞天」と呼ばれている。また、毘沙門天は、北方の守護神であるとともに、財宝の神様であるということから、七福神の一つになっている。

「四天王」:多聞天 (北)、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)

「七福神」毘沙門天、恵比寿、寿老人、大黒天、福禄寿、弁財天、布袋

また、毘沙門天は、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたとされていることから、現在も正月、五月、九月の初寅の日に御開帳される。

そのことから、本堂の前に鎮座しているのは、狛犬ではなく2体の石虎。台座には、寄進者の名も刻まれ、善国寺周辺の住民の寄進であることがわかるという。

ちなみに、開基とされる徳川家康は、寅年生まれとされる。

善国寺

善国寺

石虎

石虎

(2)伏見火防稲荷神社

見番横丁の近くにある小さな神社。社名にあるように地域一帯の火伏のご利益を願うお稲荷。玉垣に「神楽坂三丁目自治会」と「東京神楽坂組合」とあり、他にも料亭の名前が多数刻まれている。

伏見火防稲荷神社

伏見火防稲荷神社

伏見火防稲荷神社

(3)赤城神社

正安2(1300)年に創設されたと伝わる「赤城神社」は、群馬県赤城山麓の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりとされる。 江戸時代には、神楽坂の地を見守る牛込の総鎮守として、「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」と称された。

現在の社殿は、「赤城神社 再生プロジェクト」の一環として建築家の隈研吾(神楽坂に在住)のデザインにより2010年に再建された。

本殿の他に末社として、蛍雪神社、八耳神社、出世稲荷神社、東照宮を祀る。

蛍雪神社:御祭神・菅原道真公を祀る。旺文社の寄付により再興された。その名は旺文社発行の『蛍雪時代』に由来し、受験生の合格を祈願する。

八耳神社:御祭神は、上宮之厩戸豊聰八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと) 、すなわち聖徳太子を祀る。

出世稲荷神社:御祭神・宇迦御霊命(うかのみたまのみこと) 。赤城神社がこの地に遷る以前から牛込の鎮守とされてきた地主神。

東照宮:御祭神・徳川家康公 。牛込西五軒町にあった天台宗宝蔵院に鎮座してたが、明治の神仏分離に伴い境内へ遷した。

赤城神社

赤城神社

赤城神社

赤城神社

狛犬

こちらは狛犬、スフィンクスではなく「加賀白山犬」という江戸時代に流行した形という。


狛犬

蛍雪神社・雪が残る

大百足

その昔、赤城山の神「ムカデ」と二荒山の神「マムシ」が中禅寺湖の領有をめぐって戦いをした。そこが奥日光の「戦場ヶ原」だという。

八耳神社、出世稲荷神社、東照宮

八耳神社、出世稲荷神社、東照宮

赤城神社・参道

赤城坂

神楽坂は、一歩路地に入ると、花街の風情を残しており、老舗の料亭などが静かな佇まいを見せています。石畳の道は、迷路のようですが、夜のこの街を歩いてみたくなります。

帰りは、地下鉄神楽坂駅から。この駅に直結しているように昭和レトロな喫茶店があります。気になるような看板ですが、まだ入ったことはありません。

(参照):

時空トラベラー「牛込神楽坂散歩~裏路地の迷宮を徘徊す」(2023/12/02)

https://tatsuo-k.blogspot.com/

昭和レトロな喫茶店


東京異空間440:萩の月

  萩が咲いています。ここ一か月ほど東京は雨の日が続いています。そんな中、運よく中秋の名月を見ることができました。 タイトルを「萩の月」と付けましたが、これは仙台の銘菓としてよく知られています。 (参照): ハギ「萩」~秋を楽しむ ( 2021/9/26 ) 1.萩 2....

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