練馬区立美術館「古賀忠雄展」 |
練馬区立美術館で、古賀忠雄展が開かれていて、あわせて木下直之氏のトークイベントがあるということなので、行ってきました。
木下氏は、『股間若衆』『せいきの大問題 新股間若衆』などの著書があり、極わめてユニークな美術論を展開しています。
1.古賀忠雄(1903-1979)
古賀忠雄は、佐賀市に生まれ、戦後は練馬にアトリエを構えていた。彼は、ロダンやブールデル、北村西望等の影響を受け、写実の中にやや誇張した表現を取り入れながら、安定した形態を持つ人体や動物を多く制作している。 その作品は地元の佐賀県立美術館の野外にある「古賀忠雄彫刻の森」 や練馬区内をはじめ、全国各地の公共空間にも設置されている。
今回の展覧会は、古賀忠雄生誕120年記念ということ、練馬にアトリエを構えていたことなどにより、練馬区立美術館で開催されたようだ。展示されている主な作品を観てみる。展覧会のサブタイトル「塑造(像)の楽しみ」にあるように、「彫刻」ではなく粘土などを足し引きし形を生み出す 「塑造」の作品である。
会場の入り口を入りすぐに人物の顔の塑像がある。タイトルは<練馬の男>とある。ブロンズと石膏の二つが並べられている。何故、これが<練馬の男>なのか、単に古賀の知り合いの男なのか。
<鶏舎の朝>という作品は女性が鶏を持って立つ姿である。彫刻で、絵画のような情景を表現するという試みのようだ。
<猫>という作品は、やはり猫の顔の部分のみ。お面のようにも見える。
<鮭>という作品は、すぐに高橋由一の有名な「鮭」の油絵を思い浮かべる。こんな縦長の彫刻というのも珍しい、しかも鮭の口から出た縄を持つ手のみが添えられている。高橋由一の鮭も古賀の鮭もどちらも浮世絵の柱絵の形式が受け継がれているのであろうか。
会場の中央に大きな二人の立像(裸体像)が置かれている。<二つの道>というタイトルである。ひとりはうなだれ、もうひとりは頭を抱えるている。どちらにしてもこれからの道は困難が待ち受けているということだろうか。
練馬美術館の屋外にも古賀の作品が置かれている。<森の幻想>というタイトルで、背中合わせになった男女二人の裸像の間に子供がいる。なぜか、男女ともに天使のような羽を持っている。プレートには「平和で健康な家族の象徴」と書かれている。同じ像が佐賀県立森林公園にも設置されている。塑造がもつ複製性という特徴である。
<練馬の男>石膏・1948年 |
<練馬の男>ブロンズ・1948年 |
<鶏舎の朝>石膏・1948年 |
<鶏舎の朝>石膏・1951年頃 |
<沼の幻想>ブロンズ・1968年 |
<沼の幻想>ブロンズ・1968年 |
<猫>石膏・1944年 |
<草原を行く>1971年頃・石膏 |
<鮭>ブロンズ・1952年 |
<鮭>ブロンズ・1952年 |
<二つの道>ブロンズ・1962年 |
<二つの道>ブロンズ・1962年 |
<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型) |
<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型) |
<森の幻想>ブロンズ・1974年(原型) |
2.彫像の公共性~木下直之の講演より
木下直之氏の講演は、「男性裸体像について」と題するもので、著書にもあるように、明治以降、裸体像が公園など公共の場に置かれ、いかに「股間」を隠すかに工夫がなされてきたことを古賀の作品も例にとりあげて解説された。彫像の公共性ということと合わせ、その時代性に関しても興味深い話があった。
古賀忠雄の作品のなかに、戦前に制作された<総決起>1944年はセメントで、かつての常磐炭鉱(いわき市)に造られた。同じように北海道・芦別には<闘魂>、夕張に<進発>、福岡・大牟田に<減敵>と題した4体のセメント像が造られた。これらは、1944年に結成された「軍需生産美術推進隊」の一員として参加し制作された。この戦意高揚のために造られた像は、<坑夫の像>と題名変更され、戦後復興のための石炭増産のシンボルとなった。
またこれらの像は、上を向き、手を空に向かって高く上げている姿をしている。先に観た、戦後に造られた<二つの道>とは、まったく正反対の姿である。古賀は、後に「戦時中は彫刻はできませんでした」と語っているという。戦時中の自分を「空白」にしたい気持ちがあったのだろうか。
<敗戦から立ち上がる日本>1950年原型、よみうりランドに1963年設置 |
<黙行>ブロンズ・1950年原型、佐賀駅前に1993年設置 |
<闘魂>セメント・1945年頃、現存せず |
<坑夫の像>石・北海道・芦別に設置 |
このように戦前は、戦意高揚のため公共の場に置かれた彫刻が、戦後は一転して平和を祈念する像に替わった作品が広島にあるという。木下氏が例に挙げられたのが「日清戦争凱旋塔」である。
「日清戦争凱旋塔」は、1896年(明治29年)竣工、全高16メートルで、頂部に金属製のトビ(金鵄)の像が飾られている。トビは「金鵄勲章」の金鵄を指す。場所は、「宇品御幸通り」 沿いにある。御幸通りは、1885年(明治18年)明治天皇が広島に行幸した際に、広島から宇品港へ向かう通り道となったことから、その名がついた。
1894(明治27)年)日清戦争が勃発すると宇品港は兵站基地となり、御幸通りを多くの兵士が通って戦地へと向かった。1895(明治28)年日清戦争に勝利すると、兵士たちを迎える凱旋碑としてここに建てられた。あわせて、帰還兵士を出迎えるための凱旋門 (パリの凱旋門に似せたもの)も仮設されたという。こうした記念碑・凱旋門・凱旋碑・忠魂碑は全国各地に造られた。
戦時中の金属類回収令で、多くの彫刻(金属)が次々に外されたものの、塔の頂部の金属像は保たれた。また、広島の原爆投下でも倒壊はしなかった。そして戦後、1947(昭和22)年、進駐軍からの糾弾を恐れ、「凱旋碑」と書かれていた部分をセメントで塗りつぶし「平和塔」に刻み変えられた。
「金鵄」は平和のシンボルである「鳩」に読み替えられたのだろうか。軍国主義から民主主義への変わり身の早さというのだろうか。それにしては勇猛な姿をしている。かつては「鷹の記念碑」とも言われていたという。
先の古賀忠雄の<坑夫の像>もそうだが、公共の場に置かれた彫像は、作者の意図を超えた意味が付け加わり、その役割は時代とともに変化していく。
「日清戦争凱旋塔」(ウィキペディアより) |
トビ(金鵄) |
木下氏の講演は最後に古賀忠雄の西郷隆盛像をとりあげた。西郷隆盛の像と言えば、上野にある西郷さんが有名である。これは大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれ、高村光雲によって制作された(1898年)。
このほかに、鹿児島市立美術館近くに立つ、地元の彫刻家・安藤照による西郷像がある。1937(昭和12)年に立てられた。
そして、古賀忠雄の西郷は「現代を見つめる西郷隆盛」と題された、10.5mに及ぶ大作であった。1977年に制作されたが、発注者が亡くなり、古賀自身もその後亡くなったため長く倉庫に保管されていたところ、1988年に鹿児島空港近くに設置され一帯を西郷公園として整備された。
これら3体の像で着目するのは、西郷の着ている服である。上野の西郷は犬を連れ着流しの服である。犬(ツン)を連れて兎狩りに行く姿だというが、こんな格好して狩りに行くのだろうか?
安藤の西郷は、軍服姿である。古賀の西郷は袴姿で太い腕を組んでいる姿である。西郷は、陸軍大将であり、本来ならば軍服が制服であろう。上野の西郷は、当初は騎乗の軍服姿が構想されたが、ある筋から猛烈な反対が出たという。古賀は、着流しでも、軍服でもなく、その中間ともいえる袴姿である。そしてタイトルに<現代を見つめる西郷隆盛>とあるように、腕を組んで遠くを見つめている姿は堂々として立派である。
時代に応じて像の服装にも意図が付け加えられ変わっていくということだ。なお、偉人、有名人の像は正装した姿がほとんどであるが、無名の人は、裸像となり、股間を隠す姿が多いようだ。いずれにしても、公園や駅前の広場など公共の場にこれほど男女ともに裸像が多く置かれているというのも考えてみれば不思議だ。
<現代を見つめる西郷隆盛>ブロンズ・1977年 |
<現代を見つめる西郷隆盛>西郷公園に設置(ウィキペディアより) |
<現代を見つめる西郷隆盛>西郷公園に1988年設置 |
古賀忠雄の作品を観て、また、木下直之氏の講演会を聞き、裸体像というだけでなく、彫像のもつ時代性というものにあらためて関心を持ちました。
公園などにも多くの彫刻作品が置かれていますが、いわれてみれば男女ともに裸の像が多いのではないでしょうか。日本だけでしょうか、こうした公共の場に裸体像が多く置かれているのは。
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