2023年3月19日日曜日

東京異空間81:明治神宮(内苑)と神宮外苑Ⅰ

 

明治神宮・本殿 両脇に楠の大木

明治神宮は、初詣で一番の人出を記録する。一方で、神宮外苑があり、こちらはオリンピックが開催された国立競技場、他にも神宮球場、イチョウ並木に絵画館などがある。明治神宮を内苑とし、外苑と一体となって明治神宮である。神宮への道には、青山からの表参道がある。表があれば裏もあるということで、あまり知られていないが、千駄ヶ谷を通る中央線沿いがその裏参道である。

ところで、これらの明治神宮が出来たのは、いつのことだろうか。そして、誰がこれを造ったのであろうか、なぜ内苑と外苑があるのだろうか、なぜ初詣の人出は一番なのだろうか、などなどたくさんの疑問が出てくる。

明治神宮(内苑)と外苑にある絵画館などを訪れたのを機会に、こうしたことについて調べてみた。

1.明治神宮は、誰が造った?

明治天皇が崩御されたのは、明治45年(1912)7月30日とされる。明治天皇が亡くなってすぐに、渋沢栄一(1840-1931年)とその娘婿で当時の東京市長であった阪谷芳郎(1863-1941年)は、天皇陵を東京につくることを提案した。しかしながら、81日には、宮内庁は天皇陵は京都・伏見桃山に内定していることを公にした。天皇の遺志だという。

それでは、陵墓の代わりになる、天皇を祀る神社を東京に造ろうとする構想が浮上した。東京商業会議所は、8月20日には「覚書」を作成し、その構想を推進した。覚書は、次のような構成になっていた。

神宮は内苑と外苑からなる。

内苑は国費によって、外苑は献費を以って造営する。

内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場を最適な場所とする。

外苑には、聖徳記念の宮殿および臣民の功績を表彰する陳列館、林泉等を建設する。

そして結果として、ほぼこの構想通りに明治神宮がつくられることになった。明治神宮(内苑)の創建は、大正9年(1920)で、明治天皇と大正3年(1914)に崩御された昭憲皇太后を祭神として祀る。

しかし、ここに至るまでは紆余曲折があった。当時の有力メディアである新聞には、有識者からの賛否両論の意見や、投書欄には一般人からも様々な意見が投稿された。

まずは場所である。渋沢らの覚書では、内苑は代々木御料地、外苑は青山練兵場とあり、どちらも当時は砂埃舞う原っぱである。それに対し、神社は森厳なる空間にあるべきだという意見から、各地で誘致運動が起きた。遠くは富士山、筑波山、箱根など、自然豊かで風光明媚な場所が名乗りを上げた。また風致ではなく由緒があるということから、名乗りを上げるところが出る。埼玉にある朝日山は、かって東京奠都に際し、武蔵国の氷川神社に天皇が参拝されたこともあり、神社に相応しいことを強調した。また千葉の国府台はかっては下総国の国衙が置かれていたことから推していた。もちろん東京府内でも、上野公園、陸軍戸山学校敷地、井の頭御料地、御嶽山(多摩)など多くが手を挙げた。

しかしながら、先に述べたように代々木と青山に決まる。それには時代のリーダーである渋沢の存在が大きかった。すなわち明治神宮の生みの親は渋沢栄一といってもよいだろう。ところで、なぜ、渋沢らは当初の覚書の時からこの地を選定していたのだろうか。そもそも、この二つの場所は、日本大博覧会の会場の予定地であった。日露戦争(1905年)に勝利した日本は、その国力を示すために万博の開催を計画した。当初は明治45年を期して計画されたが、財政難もあり、明治50年の開催へと延期されたものの、結局、明治天皇の亡くなる前に中止となった。その博覧会の会場の計画として、青山会場は都会的にして、幾何学的な道路をつくり、建物は西洋風にする。いっぽう代々木会場は杉木立を生かし田園趣味で道路は曲線にし、建物は東洋風風に造るものと計画した。他に主要な建物として、学芸館、美術館、機会館、電気館などに加え競技場も計画された。

すなわち、日本大博覧会の会場予定地が、そのまま明治神宮の内苑と外苑につくられた。明治神宮は、いわば博覧会の再チャレンジであったともいえるだろう。

2.内苑と外苑とはなぜ造られた?

場所については、日本大博覧会の会場プランが参考にされただろう。しかし、なぜ内苑と外苑を造ったのだろうか。すぐに思いつくのが、伊勢神宮の内宮と外宮だが、こちらは内宮には天照大神を祭神として祀り、外宮には豊受大神を祭神として祀る、どちらも神宮である。それに対し、明治神宮の内苑は明治天皇を祭神として祀る神苑であり、外苑は明治天皇の聖徳を記念する公園である。

内苑は、神殿を中心として森厳な杜に覆われており、外苑は聖徳絵画館を中心として競技場などの近代的な公園が造られている。この二つがそれぞれ明治天皇の崇敬を伝統に従って表し、また明治天皇の聖徳を西洋的、近代的に記念することにより、国民(臣民)の期待、要望を叶えるものとして造られた。そうした明治神宮の生みの親は渋沢栄一らとしても、内苑・外苑のそれぞれを具体的に造っていった人々をみてみる。


明治神宮造営に当たって、神社奉祀調査会を立ち上げ、会長には大隈重信がつき、調査会のもとに委員会を設置して、建築には伊東忠太(1867-1954年)、佐野利器(1880-1956年)、大江新太郎(1879-1935年)など、園芸は福羽逸人(1856-1921年)、原煕(1868-1934年)、林学は、本多静六(1866-1952年)、上原敬二(1889-1981年)、造園には本郷高徳(1877-1949年)、折下吉延(1881-1966年)らの当時一流の学者が集められ基本計画が作られた。その後、内務省に明治神宮造営局が設けられ事業が開始された。

内務省に設けられたというのは、この時代、神社神道は「国家の宗祇」(明治4年の太政官布告)として、国の機関として位置づけられ、仏教やキリスト教などの「宗教」ではないとされていたことによる。

したがって、明治神宮・内苑は国費を持って、国営事業として建設されることとなった。いっぽう、明治神宮・外苑は、渋沢が中心となった明治神宮奉賛会が国民からの寄付をもって建設された。ただ、こちらも具体的な造営は明治神宮造営局に任された。

3.明治神宮・内苑は誰が造ったのか?

明治神宮の神殿の設計を手掛けたのは、伊東忠太である。伊東は、すでに多くの神社等の設計を担っていた。明治神宮の設計に当たっては、新たな様式を期待されたようだが、結局、「流造」という広く用いられた様式に収まった。神社建築の様式としては、伊勢神宮にみられる「神明造」、京都・下賀茂上賀茂神社にみられる「流造」、ほかにも「大社造」、「春日造」「権現造」などがあるが、中でももっと多くの神社が「流造」となっており、伊東もこの様式を明治神宮に取り入れた。それは、神宮内苑には、伝統的で、広く受け入れられる様式が最も適当だと考えられたことによる。


明治以降には、天皇を祀る神宮として、いくつか創建あるいは増改築されている。ひとつは、橿原神宮が神武天皇を祭神とし、明治23年(1890)に畝傍橿原宮とされる地に創建された。この設計は伊東忠太による。同じく神武天皇をまつる宮崎神宮も改築され(明治40年)、やはり伊東忠太が設計に当たっている。

その後、平安神宮が桓武天皇と孝明天皇を祭神として創建されたのが、明治28年(1895)である。これは平安遷都1100年を記念し、第4回内国勧業博覧会の開催にあわせてつくられた。設計はやはり伊東忠太で、神苑は、七代目小川治兵衛(植治)による。

他にも、吉野神宮が、後醍醐天皇を祭神とし明治25年(1892)創建されたが、昭和7年(1932)に整備され建物も一新された。近代神社建築史上 重要な役割を果たした角南隆(1887-1980年)が設計を担 った。

角南(すなみ)は、近江神宮の設計も手掛けている。近江神宮は、天智天皇を祭神とし、昭和15年(1940),皇紀2600年を記念して創建された。

また、橿原神宮が、皇紀2600年を記念して整備拡張が行われたが、その設計も角南隆による。角南隆は、内務省神社局に所属する神社建築専門とするテクノクラートであり、当時の植民地である朝鮮、台湾などの神社建設など含め、多くの神社の設計に携わった。

戦後、明治神宮が空襲で焼失したの後に再建の設計を手掛けたのも角南隆である。

建物としては、神殿の北側に「宝物殿」が建てられている。正倉院を思わせるこの建物の設計は、大江新太郎である。宝物殿は明治天皇ゆかりの品々を保存・展示する建物で、明治神宮創建の翌年である1921年に竣工した。建物の設計は、日光東照宮の修理、神田神宮や乃木神社などの設計も手掛けた建築家の大江新太郎による。なお、大江の息子・宏(1913-1989年)は、昭和に入り国立能楽堂の設計を手掛けている。

また、北門を出てすぐの所に建つ神社本庁の建物は、建築家の菊竹清訓1928-2011年)がデザインした菊竹は、両国の江戸東京博物館などの設計者としても知られている。

このように神社建築において、伊東忠太、その門下の大江新太郎、角南隆などが多くの神社の設計を手掛け、国家としての神社神道を進めた。その中心となったのが、明治神宮の建設であったといえよう。

大鳥居(明神鳥居)



夫婦楠

夫婦楠から本殿

菊の紋章


本殿

明治神宮ミュージアム(隈研吾の設計)

神宮橋

次に、神社には社殿といった建物が仮になくても、「鎮守の森」をいわれるように森厳たる空間が必須である。しかしながら、鎮座地となった代々木御料地には、森といった風致はなかった。そこで先に見たように、富士山、箱根、筑波山など東京近郊が風致の良さを掲げて立候補したのだった。

しかも、伊勢神宮などに見るように、森は杉や檜によってその森厳たる空間を形成するものと思われていたが、この代々木はすでに都市化による煤煙などがひどく、杉や檜といった常緑針葉樹が育つ環境にはなかった。この神社の森を手掛けたのは林学者・本多静六であるが、そもそも彼自身が、環境的にこの地を鎮座地とすることに反対であったという。

本多静六は、日本で最初の近代的公園といわれる日比谷公園の設計を手掛けていた。日比谷公園の設計は、辰野金吾などいろいろな人の手で検討されたが、最終的に本多に託された。本多は、ドイツで林業を学び、日比谷公園(1903年に仮開園)についてもドイツの公園に倣って設計した。

日比谷公園・1907年発行の『東京案内』Wikipediaより

その日本の公園の父ともいえる本多が、代々木の地に鎮守の森を造るのは環境的にも無理だという反対の立場であった。その無理なところに立派な神苑を造ることを決意させたのは、やはり渋沢栄一の切々たる熱情であったという。渋沢は、人工で天然に負けない大風景、大森林を造り出して欲しい、と本多に懇々と説いたという。

本多の林学に、造園学の橋渡しをした人物が本郷高徳である。本郷もドイツに学び、日本で最初の造園学を始めた。日比谷公園の設計は本多静六であったが、それに基づき具体的図面を引いたのは本郷高徳であった。明治神宮の森を造るのにあたっても、本多のグランドデザインに実践計画を描いたのが本郷の「林苑計画」である。これまでの神社の森を形成していた杉・檜などの常緑針葉樹の森に替わり、新たに環境に適応するため楠、椎、樫などの常緑広葉樹による森を造ることに大きな基本方針を定めた。本郷が描いた「林苑計画」の第一段階は、松を主木とし、その間に成長の早い杉、檜等の針葉樹を植える。さらに仮想には生来の主林木となる樫、椎、楠などの常緑広葉樹を配する。第二段階では、檜等の針葉樹が松を圧倒し数十年後には最上部を形成する。第三段階では、樫等の常緑広葉樹が支配木となり、この樹間に檜等の大木が混生する。そして第4段階で、樫、椎、楠がさらに成長し針葉樹は消滅し、最適な天然樹林が形成されることになる。いわば百年の計で、森厳たる空間を造るということだった。

本郷の「林苑計画」(明治神宮による)

もうひとり、人工の森林を造るのに力を発揮したのが、やはり本多の門下の上原敬二であった。上原は、当時の官幣大社約80社のうち約40社の神社の境内、樹林を実地調査した。こうした調査はこれまで行われたことなく、前人未到の領域であった。調査の中でとりわけ上原の神社林の理想形と心を捉えたのが仁徳天皇陵であった。上原は特別に天皇陵に入る許可を得て視察し、その人の手が全く加わらない照葉樹の森、原生林のような佇まいに荘厳さを感じ取った。明治神宮の森の模範を、古代の天皇陵の森に見出した。この時点では、上原はまだ海外視察は経験していなかったこともあり、新しい神社の森を古墳の森からイメージを得たという点でも興味深いことである。

上原は、その後、海外留学を経て「造園学」を興し、造園学校(東京農大・造園学科の前身)の設立に尽力している。明治期の平安神宮の神苑にあたっては「植治」こと小川治兵衛が、いわば伝統的な暗黙知によって作庭したのであったが、大正期の明治神宮の神苑には、近代的な形式知が新たな森を造り上げたともいえるだろう。

本多静六、本郷高徳、そして上原敬二といった林学から造園学を学んだ専門家により、神宮の森が造られ、1920年の鎮座祭から100年経った現在、都内に森厳な空間が形成されている。

あわせて、こうした植林のため全国から約10万本の献木がなされたことも、明治天皇の崇敬を表すものとして大きな意味があった。このように多くの国民(臣民)が明治神宮の建設にかかわることにより、天皇との距離が縮まったといえよう。また、天皇陵は京都に、皇霊殿は皇居内にあり、一般の人は天皇を近くに拝することはできなかった。しかも、それまで東京には求心力のある神社はなく、それが明治神宮という社ができ、天皇の崇敬を表す場所が近づき、天皇=神社=国民(臣民)が一体化することになっていった。

また、初詣といえば、成田山、川崎大師など郊外の寺院に行く人が多かったが、交通網の発達も手伝って、明治神宮が初詣で一番の人出を集めるようになった。それには崇敬の場である内苑だけでなく、外苑の近代的な公園が行楽的な要素も併せ持っていたことにもよる。

南参道


南参道

南参道


南参道・参道のみきれいに清掃する

南参道・両脇から森が空を覆う

奉納された酒樽

大鳥居から正参道

大鳥居

大鳥居から正参道

次回は、明治神宮外苑がいかにして造られたのか、その中心である絵画館、そしてオリンピックが行われた競技場などが、なぜ造られたのか、についてみてみることにしたい。


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