| 祖父・渋沢栄一の像 |
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| 敬三の定宿「松濤館」から西伊豆の三津浜を望む |
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これまで、「保谷民博」にかける渋沢敬三の「博物館の夢」、そして高橋文太郎の「埋もれた夢」をそれぞれみてきたが、もうひとり「保谷民博」をつくるに大きな貢献をした今和次郎の夢はどのようなものであったか、をその活動から見ていきたい。
1.野外博物館の構想
渋沢敬三は民族博物館をつくるにあたって、そのグランドデザインを今和次郎に依頼した。今が描いた「日本民族博物館全景」という俯瞰図が残されている。これは、博物館の完成予想図というものである。
博物館は、本館の展示室(地上3階、地下1階)、と別棟の研究所(地上2階)、そして「野外展観」という野外博物館とで構成されている。
このうち本館の建物の設計については、今の弟子であった蔵田周忠により設計され、地上3階、地下2階の鉄筋コンクリート造りとしている。展示室は、ガラスを使った展示ケース、照明、暖房などを含めたトータルのデザインをしている。
また今がデザインした「野外展観」には、近畿、中国、東北、信州、西多摩、甲州などの「農家」と、九州五箇所、飛騨白川、岩手二戸郡などの「民家」、そして当時の植民地であった台湾、南洋、南鮮、北鮮などの「家屋」が置かれている。これらは、敬三らアチックの同人たちが民俗調査を行い、生活を再現するために家の中のすべてのモノ、民具を収集した所でもある。なお、「農家」「民家」「家屋」とそれぞれ使い分けられていることにも注目しておきたい。
こうした建物群の周りには、養蚕のための桑畑などが描き込まれている。これは同じ蚕を飼うスペースを持っていても、その工夫のあり方によってさまざまな形の家があり、屋根の形が変わることについても理解できるように構成されている。
さらに、これらの建物に付属する樵小屋、炭焼小屋、水車小屋、船小屋など小規模な建物が配置されている。
加えて、倉、小祠や石仏、井戸、厠といった「建築外の建築」といわれるものが配置されている。
このように今が描いた理想的な野外展示は、ありのままの生活をあらわすものとして、次のような視点を持った展示の仕方だという。
「民家とともにその生活環境を含んだトータルな生活の場と捉えている視点、民家一戸に置かれた生活用具のありのままの姿をあらわそうとする視点、そこにくらした家族の姿をあらわす視点によってつくられ、さらに実演を構想にいれていた展示を考えていたと想われる。」 (青木俊也「生活再現展示の思考」)
このグランドデザインの発想は、敬三がロンドン滞在中にみたスウェーデンのスカンセン博物館、ノルウェーの野外博物館、また今和次郎も欧米視察でみたこれらの博物館がそのもとになっている。今和次郎は、1930年にスカンセンやノルウェーの野外博物館を訪れているが、その視察の前に敬三がスカンセン博物館のガイドブックを送り、ぜひ見てくるようにとアドバイスをしていたものであった。今は、「スウェーデン及びノルウェーの戸外博物館の印象は、あの方法こそ最高のものである」といっている。
そして、この野外博物館は今和次郎が取り組んできた「民家」研究の集大成と言えるものであった。この生活のうつわとしての「民家」に敬三の収集研究した生活の用具として「民具」が一緒になる場が、「民族博物館」であった。それが彼らの夢でもあった。
しかし、すでに前のブログでも見たように、国立の民族博物館としては実現せず、展示館は鉄道省工事現場事務所として使われていた建物、研究所は東武鉄道仮事務所の建物、いずれも木造バラックの建物を移築したものであり、野外展示には、高橋文太が所有し空き家となっていた農家を移築した「武蔵野民家」(木造藁葺平屋)、今和次郎の設計による「絵馬堂」(木造杉皮葺)、稲荷の小祠などが配置されたのみであった。(なお、戦後になって北海道から「アイヌ住居」、奄美大島から「高倉」を移築している)
敬三は、「ひとまずこうしておけば、やがて本格的なものを作りうるだろう」と考えてスタートしたものであったが、その間の経緯について、つぎのように述懐している。
「現保管場所を撰定したるはちと甘き夢を見たる為に候 それは少なくとも民族学的標本に於いては堅牢なる建物内に展観保存を要すべきは勿論乍ら一部はオープングラウンドミュージアムに致し度各地の民家大の物迄もその儘に移して保存致す方よろしく(中略)たまたま紀元二千六百年記念事業に関連せしめてこの意図を成就せしめんとしたるが為に有之候その為収蔵家屋の急設を要し・・・きわめて貧弱なるバラックなるは御恥ずかしき次第に御座候 此間同地の高橋文太郎の同人としての御骨折も嬉しく存居る所にて、・・・農家は同君により標本として寄贈され今和次郎氏の手を入れられしものに有之候 右記念事業との関連は不幸にして事無く数位致し一場の夢と相成候」(新村出日本民族学協会会長宛て書簡 昭和19年)
「一場の夢」となったものの、保谷につくられた民族博物館は、敬三の言う「オープングラウンドミュージアム」が今和次郎により設計され、武蔵野の農家が移築されたことは、日本で初めての野外博物館として位置づけられ、今和次郎にとっても重要な業績とされる。
(なお「野外博物館」という言葉は、戦後になってから使われる。)
2.日本の「民家」から考現学へ
「一場の夢」となった民族博物館に、今和次郎は、どのような経緯から関わり、野外博物館のグランドデザインを描くに至ったのだろうか。彼の活動から見ていこう。
1888(明治21)青森県弘前市で、代々津軽藩の典医をつとめる家の次男として生まれる。渋沢敬三(1896年生まれ)とは8才の年の差。
1907年:19才 東京美術学校(現東京芸大)図按科に入学。ろくに勉強していなかったことから、入学試験のない学校ということで選んだという。「図按科」は、工芸から建築のデザインまで幅広く扱っていた。
1912年:24才 美術学校を卒業し、早稲田大学建築学科助手となる。早稲田大学に私学として初めての建築学科ができ、岡田信一郎の推薦により佐藤功一教授の助手となった。(創設間もない建築学科は、伊東忠太、岡田信一郎、佐藤功一、内藤多仲らの布陣であった。なお、佐藤功一は、大隈講堂、日比谷公会堂などを設計している。)
1915年:27才 同郷の先輩新渡戸稲造により行われていた郷土会に参加し、柳田国男、石黒忠篤らを知る。その後、数年にわたって柳田に従い各地を歩く。(石黒忠篤は、農政の神様と言われ、戦後の農地改革を推進した)
1917年:29才 柳田国男、佐藤功一らによる各地の古い家屋を保存することを趣旨とした白茅会に加わる。
1920年:32才 早稲田大学教授 このころ東大の学生であった渋沢敬三にレコードを聴きに来るよう誘われたのが、最初の出会いであった。
1922年:34才 「日本の民家」を出版
ここまでの活動を整理しておくと、今和次郎は、佐藤功一の影響を受け、建築を学ぶとともに、スケッチの腕を見込まれ柳田国男について、民俗の収集に各地を回り、また石黒忠篤の支援により各地の農家を回ることになった。こうした成果が『日本の民家』として刊行された。
「民家」という概念は、今によって確立されたものである。今は、「民家」に建築としての構造をみるのではなく、そこに暮らす人々の生活、営みを探求することに努めた。
建築家たちからは視野の外に置かれた「民家」(「郷土建築」とも言っていた)を対象に選び、構造物としての民家ではなく、生活の場としての民家を探求した。
また、今は、言葉よりも「スケッチ」、すなわち観察者の眼を大事にした。民家の外形、空間の観察から、そこに住む人々の行動へと、その把握を深め居心地や住まいの心性へと探求を展開していった。柳田国男が「民間伝承」すなわち言葉の探求により「民俗学」を確立していったのとは、方法論の違いだけでなく、その学問領域も異なって行かざるを得なくなり、新たに「考現学」を確立していくことになる。
今が、「考現学」に至ったのは、関東大震災後の東京の復興に目を向けざるをえないようになったことからだった。その間の活動を略歴から記しておく。
1923年:35才 関東大震災。麹町富士見町の借家で被災
バラック装飾社を設立
1925年:37才 銀座の街頭で初の考現学調査
1927年:39才 新宿紀伊国屋書店で「しらべもの<考現学>展覧会」を開催
1930年:42才 『モデルノロヂオ<考現学>』を出版
今にとっての「民家」は、地方の農家だけでなく、また過去のものではなく、都会の、そして現在の人々の生活の場として捉えられている。その「民家」が関東大震災によって、ことごとく破壊されてしまった。自らの家も被災した今の眼は、震災後の人々の生活空間としての「バラック」に向かう。バラックとは、応急措置として仮に建てられる建築であり、本来の「建築」から外れたものである。しかし、そこにも人々の生活がある、営みがある。だから今は、眼をむけたのである。いや、むかざるを得なかったのである。
震災後の街には応急のバラックによる仮店舗がつぎつぎにつくられた。今らは、「バラックを美しくする仕事一切」をするバラック装飾社を設立する。
さらに復興に向け、生活を改善していく姿に目を向け、銀座の街で人々の風俗を観察し、スケッチし、分析した。
それを「考現学」と名付けた。考古学が、発掘されたモノにより古代の生活を研究するのに対し、人々の服装などモノによる観察から現在の生活の姿、風俗を探求し、未来への生活の改善まで研究していく、それが考現学である。
柳田の「民俗学」の基本がモノではなく口承、言葉によって「過去」の「農村」の人々の生活、営み、すなわち「民俗」を探求するのに対し、今の「考現学」は、モノを観察することにより「現在」の「都市」の人々の「風俗」を探求するという、方法論の違いだけでなく学問領域も異なっている。
ただし、関東大震災は、柳田をも「風俗」の領域に広げさせた。それが『明治大正史世相篇』1931年刊行である。その中の「家と住心地」の章で、次のように語る。
「大正12年の震災は、関東地方の都市と農村において、古い新しいいろいろの家を破壊して、それにからまる旧来の行きがかりを一掃してくれた涙なくしては早期で来ぬ歴史ではあったが、より良き将来を期すべく人々はこの機会を利用したのであった。」
今の民家論は、震災を契機に、こうした思いを共有しながらも、さらに柳田とは異なる方向<考現学>に進んでいった。
今は、後年、この時期の民家~バラック~考現学までの活動をつぎのように振り返って語っている。
「私はつくづく、自分はいま現在のこと、人々が働き、楽しみ、いろいろくふうをこらしているさまに興味をもつ性格だったのだと思う。だからこそ震災後の焼け跡に、つぎつぎと仮小屋がたてられ、人々が焼け落ちたかこのなかから新しい生活をたてなおす姿をみて、ほんとうに感動できたのだし、考現--いまを考え、未来をつくることのひつようを痛感したのであったと思う。私の長い民家の旅をふりかえってみても、同じことがいえる。」『日本の住まい』1972年より
3.破門された夢
ここに、師・柳田国男との関係に事件が起きる。今によれば、「街のしらべものをもっともらしいものにみせかけるのに<考現学>という旗を立てた。それがいけなかった。柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」という。
しかし、この事件については、弟子の竹内芳太郎がたしかめたところ、柳田は「私は別に今くんを破門なんかしていない、彼が自分でそういっているだけだヨ」と応えたという。
つまり、破門は、今和次郎の柳田「民俗学」への訣別宣言だった。破門という言葉を使ったのは、自らを不肖の弟子とすることによって、師に対する礼節と尊敬とを持ち続けようとしたともいえる。
こうして、二人の学問領域、方法論などの違いが、今を柳田の「民俗学」から渋沢敬三の「民族学」に近づけることになった。
柳田と渋沢の二人の民俗(族)学の違いをあえて比較して見ると、
柳田は、民間伝承に基づき、民俗学を確立したが、文字資料、モノではなく、あくまでも口承によるものであった。一方、渋沢は、「理論づける前にまず総てものの実体を掴(つか)むことが大変大切」として、常民の生活を実証的、実体的に研究するために「民具」というモノ、生活の道具に着目した。
対象とする「常民」という言葉についても、渋沢は「コモンセンス=常識」と訳することから、「コモン・ピープル=常民」という意味で使っているのに対し、柳田の「常民」は稲作に従事する農民として使う場合が多い(柳田の常民概念については、幅広く議論が多いが、ここでは単純化し対立的に捉えている)。
このような方法論的な違いだけではなく、そもそも、民族学(エスノロジー)と民俗学(フォークロアー)の違いが、二人の学問領域の差でもあった。
柳田が「一国の民俗学」を唱えたのに対し、渋沢敬三は、エスノロジー(民族学)とフォークロアー(民俗学)は車の両輪であり、ふたつともやるべきだという考えであった。日本文化を知るには、諸民族の文化を知らないと、なにが日本文化の特質かがわからない。かといって諸民族の研究をするとしてもその民族の人になり切ることはできないのだから、文化の価値判断の基準は自分の生まれ育った民族(俗)文化の尺度ですることになる。だからエスノロジーとフォークロアー両方をあわせたものを「民族学」として考えた。
そもそも、実際に、渋沢と今とが最初の接点を持ったのは、渋沢からのアプローチだった。敬三が、東大の学生だったころ(1920年:24才)、親戚筋の石黒忠篤を介して今和次郎をレコードを聴きに来ませんかと誘ったという。当時、今はすでに早稲田大学建築科の教授になっていた(32才)。
学生であった渋沢が、8歳年上で、すでに早大の教授になっている今に「レコードを聴きに来ませんか」と誘ったのは、敬三の育ちの故、というよりも、今に対しての学問的興味と、それ以上に人間的な関心が強かったからということであろう。
今が、敬三のアチックと関わり合いを持った時期がいつ頃かは、はっきりしないようだが、少なくとも1929年ごろからとみられる。そして、すでにみたように、1930年、今が欧州視察をした際、敬三から渡されていたガイドブックをもって、スェーデンのスカンセン野外博物館を訪れた。ただ、今は、スカンセンよりもノルウェーの野外博物館のほうを高く評価している。
渋沢の博物館の夢は、これら北欧の博物館の見聞をお互いに共有することにより、今の野外博物館のグランドデザインへと具体化が図られた。民族博物館の構想に進む前に、いまではほとんど知られていない小規模な「博物館」がつくられ、そこに今の民家を展示するという夢が注ぎ込まれた。
それが明治神宮外苑にある日本青年会館につくられた「大日本聯合青年団郷土資料陳列所」である。日本青年会館内の3室に設けられた郷土資料陳列所で、1934年から1937年までの4年ほどの短い期間しかなかったため、幻の郷土資料館となった。この小さな陳列室に今は、自らのアイディアを注ぎ込んでいる。具体的には、民家の模型(1/50の縮尺)をつくって展示したのである。今は、ヨーロッパに見た博物館を日本にもつくりたいという思いが、小規模ながらつくる機会を得て、たいへんな熱意をもって、この民家の展示に取り組んだ。
今は次のように、さらなる熱意を語っている。
「この小さな郷土博物館が、やがて大きな日本民族博物館となる日も必ずしも遠いことではないと信ずる。日本を愛するものは、先ず我が郷土を研究し、これを開発することを根本とせねばならぬ。」
実は、この郷土資料館の設立にあたっては、渋沢敬三も深く関わり、アチックの郷土玩具のコレクションを寄贈するなどの支援をしている。この郷土資料館が民族博物館への予備段階でもあった。
今は、同じく「小博物館の開設に際して」という文の中で、「さる人の理想談を聴いてかかる博物館の意義に痛感した事があった。それは現在の二重橋の大広場に、一方に、我が国の上流の生活を示す物件を収集した博物館を建て、これと相対して他方に、我が国の平民大衆の生活を示す物件を収集した博物館を建て、この両々相まって陛下の統べられる或いは統べられた過去を物語らしめるならば、それは見事ではないか、というのであるが、不幸にして我国には、まだありし我国の大衆生活の様相を示さんと用意を持った博物館の小規模のものもなかったのである。」
今が理想談を聴いた「さる人」とは、渋沢敬三ではないかと想像される。ここで、今は敬三と同じ「博物館の夢」を抱いたのではないだろうか。
今の「破門された夢」が、敬三の「博物館の夢」と重なって、その実現にむけて取り組んだのが「保谷民博」の野外博物館のグランドデザインであったと言えるだろう。
しかし、敬三が、「百年たてば、ここは近代日本を語る正倉院になる」と言い続けたという民族博物館の夢は、すでにみてきたように実現には至らなかった。
余話:今和次郎と東伏見
今和次郎のことをいろいろ調べているうちに、今が東伏見駅(西武新宿線)南口にあった長者園という住宅地に住んでいたということを知り、そのあたりのことをメモしておく。
今は、1928年:40才のときに結婚し、翌1929年に自ら新居を設計し、北多摩郡上保谷(現在の西東京市)に転居した。
同じ年に、中島飛行機の社員研究所であったところに、京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し、東伏見稲荷神社が建てられた。これに伴って駅名も上保谷から東伏見となった。
(東伏見稲荷神社には、中島飛行機武蔵野製作所で亡くなった人々の慰霊碑がある。なお、かっての武蔵野製作所の場所が、NTT武蔵野研究所である)。
当時の西武鉄道は、この地域の沿線開発の柱として、伏見稲荷神社の勧請とともに、早稲田大学への土地(25000坪)の提供(1925年)をしている。早稲田大学は、この土地を運動部のグランドと合宿所にあて、現在でも東伏見キャンパスとして野球部をはじめ、いろいろな運動部が集まっている。
沿線開発のもうひとつの柱が長者園という住宅分譲であり、早稲田の関係者が多く移り住んだという。早大の教授であった今もこちらに転居した。他にも早大の建築科で、今と同じ佐藤功一の門下であった佐藤武夫(建築音響工学の先駆者)も移り住んでいる。
その佐藤が今の新居について、次のようにちょっと茶化して語ったという。
「曰く、今和次郎は「早稲田一の変人」と言われていたのに家は常識的な郊外住宅である。数千冊の蔵書が積んである18畳の書斎が白壁の洋館として独立しているほかは、大工任せの安っぽいものだ。今先生はおそらくあの器用なフリーハンドで方眼紙にかいて大工さんに渡してしまったのだろう。コールテンの洋服を新宿の夜店で買ってこられる態度でこの家ができたものらしい。そのへんは先生らしくて面白い。もっとも、先生にコールテン理論ががあるように、この家にも相当の理論があるかも知れぬ。今度聞いてみよう。」
今の人柄を垣間見るようなコメントである。一般的に建築家の自邸は、その造形理念や美意識が反映され、代表作となる場合が多いとされるが、今の場合は、それに当てはまらない。残されている自邸のスケッチからは次のように説明されている。「増築を重ねた後は部屋同士が直接つながり、まるでいくつもの建物が集まる村のようでもある。 (中略) 統一された造形理念ではなく、むしろ緩やかな個人と共有の空間の集合という今和次郎の家族観そのものが空間化された結果といえよう。」『今和次郎 採集講義』2011年
残念ながら、この今和次郎の自邸が東伏見のどのあたりにあったのか、まだ確認できていない。これからも散歩をしながら見つけてみたいものである。
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| 安部球場 |
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| 乗馬クラブ |
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| 早稲田合宿所 |
| 谷中銀座 |
朝倉彫塑館を出て、谷中銀座から谷中霊園、そして日暮里駅まで歩いてみました。
1.谷中銀座
谷中銀座は、1950年代から続く昔ながらの商店街であり、下町風情を残した町並みで、飲食店なども並んであり、人気の場所となっている。最近は外国人観光客も多いようだ。
谷中銀座の入口は、階段になっていて、高台からは夕焼けがきれいに見えるということから、「夕やけだんだん」と名付けられている。名付け親はタウン誌『谷根千』編集者の森まゆみ。『谷根千』の創刊は、1984年、地元を愛する森まゆみなど3人の主婦が始めた。地元の人々からの聞き書きを中心とした編集で、地域誌を超えた人気を得るとともに、同地域(谷中、根岸、千駄木)を人気スポットにした。雑誌は、2009年に終刊となった。なぜこのような地域雑誌が人気を得たのだろうか。地元の「記憶」を「記録」にという編集のうまさもあるだろうが、時代背景として、高度成長からバブル崩壊、低成長へ、昭和から平成へといった転換期にあって、下町のような風情、人情を求めていたのかもしれない。例えば、あの映画「男はつらいよ」は、1970~90年代に人気を博し。柴又が有名になったが、これも下町の風情。人情が受けたのだろう。
ちなみに、森まゆみは、1973年、大学一年生の時に朝倉彫塑館でアルバイトをして、時給200円、一日行って1500円くらいの安いバイトであったが、そこで過ごす時間は夢のようだったと言っている。
(参考):
『谷根千のイロハ』森まゆみ 亜紀書房 2020年
2.谷中霊園
谷中銀座から戻って、日暮里駅近くから谷中霊園に入った。
明治政府は、明治5年に太政官布告で、寛永寺と天王寺の寺域の上地をして、明治7年に谷中新葬地(現・谷中霊園 )を開設した。これまでの寺請制度から、神道でゆく方針をとったことから、寺の墓地ではなく公共の墓地を造った。霊園は、甲と乙のエリアに分かれていて、甲のエリアは、かつての天王寺の境内で、五重塔が建っていた。乙は、もと寛永寺の境内であったエリアで、徳川家関係の墓がある。ほかにも有名人のお墓が多くある。
(1)徳川慶喜の墓
「徳川慶喜公墓所」が寛永寺谷中第二霊園に隣接する形で存在する。15代将軍・慶喜は、谷中霊園内に神道形式で埋葬された。これまで15代にわたる徳川将軍は、家康、家光が日光に、そして慶喜が谷中に、あとの12人は、ちょうど6人ずつ、増上寺と寛永寺に埋葬された。
なぜ、慶喜の墓は谷中なのか。慶喜は大政奉還後、14代までの徳川宗家と別家になり、明治政府(天皇)に恭順の意を示すため謹慎生活を送った。それによって徳川宗家は残り、16代に家達が就き、慶喜は明治天皇から公爵に叙せられた。明治政府の方針である神道により、天皇もこれまでの仏式の葬儀ではなく、神式となったことから、慶喜家は、故人の遺志をふまえて、「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため神式で行うこととした。慶喜が神葬を望んだのは、天皇(皇室)へに配慮とともに、父・徳川斉昭が廃仏論者であったこと、謹慎生活を送った大慈院で僧徒らに嫌な思い出があったこと、などがあげられる。
しかし、これまでの葬儀の慣例先である寛永寺は神式の選択に反発し、話し合いの結果、寛永寺の裏手にあった空き地に斎場を設けることで折り合いが付き、神式で葬儀を行い、その後、谷中墓地に埋葬された。その葬儀委員長は、慶喜の寵臣・渋沢栄一が執り行った。
ちなみに、16代当主・家達は、寛永寺に墓がある。「つまり、慶喜家の選択は、この面でも例外的な将軍であった慶喜にふさわしい措置であった」と 歴史学者・家近良樹は述べている。
(参考):
『徳川慶喜』家近良樹 吉川弘文館(人物叢書) 2014年
(2)渋沢栄一・敬三の墓
渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と称され 、その肖像を描いた新一万円札がこの7月には発行される。明治維新以降の渋沢の功績はよく知られているが、渋沢は一橋家・慶喜の家臣であった。そのためか、慶喜公の墓からそれほど離れていないところに渋沢栄一の墓がある(乙の11号-1側)。
渋沢栄一の墓は、墓碑に「青淵澁澤榮一墓」と刻まれていて、大きく立派であるが、その横に、ほとんど一般の人と同じような大きさの墓がある。こちらは、栄一の孫にあたる渋沢敬三の墓である。敬三は、財界人としての活躍とともに、民俗学者としても多大な事績を残している。とくに宮本常一など多くの学者を援助した。この墓は、栄一とは違う、敬三の生き方、性格をあらわしているようにもみえる。敬三の墓には妻・登喜子の名も刻まれている。なお、両脇の大きな墓は、栄一の妻、千代・兼子二人 の墓である。
(参照):渋沢敬三については、
東京異空間24:保谷にあった民族学博物館Ⅱ~渋沢敬三の「博物館の夢」2020/07/07
| 渋沢家(中央・栄一、両脇の大きい墓は栄一の二人の妻)の墓 |
| 青淵澁澤榮一墓 |
| 渋沢家の墓(左・栄一、その横が敬三) |
| 渋沢敬三・登喜子の墓 |
(3)有名人の墓
谷中霊園には、有名人のお墓が多くある。朝倉文夫の墓もここにある。朝倉彫塑館で観た作品《墓守》は、谷中墓地の墓守の爺さん・田辺半次郎をモデルにしたものである。この作品は、墓守のオーラがあふれていて、熟年の作家による作品に見えるが、朝倉が27歳の時の作品である。
霊園には、ほかにも、横山大観、牧野富太郎などの墓があるが、今回は見つけられなかった。わかったなかでは、浅草で有名な「神谷バー」の創業者、神谷伝兵衛の墓、俳優の長谷川一夫の墓碑、川上音二郎の墓、大きな石碑が建てられている初代大審院長・玉乃世履(たまのせいり)の墓などがあった。
神谷伝兵衛の墓 玉乃世履の墓碑 長谷川一夫の墓碑 川上音二郎の墓碑(この上に銅像があった)
3.天王寺
天王寺は、先に述べたようにその寺域を明治政府に上地されたことから、谷中霊園の中に入り組んだ形になっている。
寺は、鎌倉時代の創建とされ、感応寺という日蓮宗の寺院であった。江戸時代になると、法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派に属していたため幕府より邪宗として改宗を命ぜられ、住職が遠島されるなど、廃絶の危機に追い込まれた。 しかし、東叡山輪王寺の法親王が、由緒ある当山が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府に説いて認められた。天保4年(1833)に、感応寺から現在の護国山天王寺へ 改称した。
寺の経済的支援のため、享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。
また、「笠森お仙」でも知られている。お仙は、感応寺(天王寺と改称)の塔頭・福泉院境内にあった笠森稲荷社の門前にあった鍵屋という茶店の美女で、鈴木春信が描いた浮世絵が評判となり、今でいうアイドルとなった。
しかし、明治維新の上野戦争では、天王寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失した。その五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとされたが、昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失した。このとき、朝倉文夫は、五重塔の再建を提唱したが叶わなかった。現在は跡地となって、都の文化財に指定されている。
現在の天王寺の境内には、奈良の十輪寺を模したという優美な姿の本堂と、1690(元禄3)年に造られた釈迦牟尼如来坐像が鎮座している。この仏像は、「谷中大仏」といわれ戦前は谷中墓地の中にあったが、戦争中に門の中、本堂の前に移した。それは、戦争中の金属供出を避けるためであったという。
こうした戦時の金属回収について、朝倉文夫は文部省や陸軍、海軍にその不合理を説いて回り、ついには東条英機のところにいき直訴した。しかし、東条は朝倉の説得に対し「半年前にその話をきいていたらやらなかったろう」という返事をしたので、「私(朝倉)は天を仰いで嘆いた」という。(『私の履歴書』)
また、先に見た谷中霊園にあった川上音二郎の墓の銅像などは供出させられ、いまは台座部分が残るのみとなっている。
谷中大仏 谷中大仏 奈良・十輪寺を模した本堂 
五重塔(ウィキペディアより)
4.日暮里駅前の銅像
谷中霊園から日暮里駅に向かった。駅前には、二つの銅像が立っている。ひとつは鷹狩り装束で弓を手にする「太田道灌騎馬像」 、もうひとつは山吹の花を差し出している乙女の像。これは「山吹の里伝説」をあらわしたもので、鷹狩の途中、急な雨にあった道灌が、農家に立ち寄り蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、何も言わず、一枝の山吹を差し出すのみであった。その「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は家臣から「山吹」の意を教えられる。 「七重八重花は咲さけども山吹の実のひとつだになきぞ悲かなしき」という古歌を引いて「実の」と「蓑」をかけ、蓑がないことをお詫びする気持ちを一枝の山吹に託したものだということを知り、以後、道灌は和歌の道に精進したという伝説である。
なお、朝倉文夫が制作した《太田道灌像》が有楽町の東京国際フォーラムに置かれている。この像は、かつて旧都庁に置かれていて、江戸・東京のシンボルでもあった。
山吹の花 一枝 太田道灌騎馬像 
朝倉文夫《太田道灌像》東京国際フォーラム(ウィキペディアより)
谷中を歩いて、朝倉彫塑館の作品や庭園を観て、谷中銀座から谷中霊園では徳川慶喜の墓、渋沢栄一・敬三の墓などを見て、さらに駅前の二つの銅像を見て、一日、銅像や、石碑など彫刻を見る散歩となりました。また、銅像、墓などに表わされたぞれぞれの人物についても、より知ることが出来た歴史散歩でもありました。
井波・八日町通り 瑞泉寺門前の八日町通りは、井波彫刻の工房が並び、町のあちこちに作品を観ることができます。この彫刻の街並みを歩いてみました。 1.町の歴史 「八日町」という名の通り、中世には定期市が開かれていた。 1390 年に本願寺第 5 代の綽如上人によって「瑞泉寺...