日本の版画の歴史をたどる美術展が町田市立版画美術館で開かれているので、観に行ってきました。この美術館は、日本では数少ない版画専門の美術館として、1987(昭和62)年に芹ケ谷公園内に開館しています。2023年には、楊洲周延展を観に行きました。
(参照):
東京異空間170:楊洲周延~文明開化を描いた浮世絵師(2024/1/10)
今回は、所蔵作品から日本の版画の歴史をたどるという興味深い企画でした。展示は古代から現代まで、7章で構成されていました。解説をもとに、作品を各時代に整理し、日本の版画の歴史をたどってみました。
1.版と祈りー日本版画のあけぼの
版画の始まりは、奈良時代、764年に制作された《百万塔》に納められた《無垢浄光大陀羅尼経》である。これは、称徳天皇が鎮護国家を祈念するために発願し、塔を建立することにより成仏できるとの教えを説いた経典『無垢浄光大陀羅尼経』に基づいて制作された。
かつては、日本最古の印刷物というだけでなく、「現存する世界最古の印刷物」とされていたが、その後、韓国でより古いとされる木版摺の『無垢浄光大陀羅尼経』が発見されたことから、「制作年が明確な現存最古の印刷物」となった。
平安時代になると、木版画の制作が活発になり、主として仏像内部に納められるために印仏や摺仏が制作された。南北朝時代に至ると、仏教版画は大型化し、版で摺られた上から手で彩色され、礼拝の対象として祀られるようになる。
主な出品作品
《無垢浄光大陀羅尼経》
奈良時代(767-769頃)
《大日如来坐像印仏 》伝根来寺伝来 治承 3 年(1179) 紙本墨印
《十二天像(与田寺版)》 室町時代 木版手彩色
地天・閻魔天・帝釈天・梵天 |
《風天像》室町時代15-16c 紙本墨摺手彩色 |
《毘沙門天像》室町時代15-16c 紙本墨摺手彩色 |
《融通念仏絵巻》(天保版楽山本) 天保 15 年(1844) 紙本墨摺
2.出版文化の隆盛―拡散するイメージとその受容
16世紀から、イエズス会士はキリスト教布教のために中国へ渡り、西洋の文物を伝えた。そうしたなか、西洋画から学んだ透視図法が用いられるようになり、さらには西洋画を消化した独自の遠近表現が見られるようになる。また、中国では画譜出版文化が隆盛を迎えており、日本でも舶来の画譜を基にした独自の版本が次々に制作された。
主な出品作品
《円窓の二美人》清時代(18世紀頃) 木版手彩色
王概(編)『芥子園画伝』(和刻) 宝暦3年(1753) 木版多色摺
建部凌岱 『海錯図』 安永 4 年(1775) 紙本多色摺
3.
変わり続ける浮世絵―舶来文化の吸収と再創造
江戸時代になると、舶来文化の影響を受け、葛飾北斎や歌川広重は浮絵の手法を発展させ、浮世絵風景画という新ジャンルを確立するが、その淵源には蘇州版画や西洋画があるといわれている。さらに明治期になると、小林清親は「光線画」という、西洋画をヒントに夕日や灯火といった繊細な光の微妙なうつろいを描き、変わりゆく新都会東京の風景を描いた。
明治30年頃になると、印刷技法が発展するなどにより、浮世絵という木版画がすたれていく。
主な出品作品
葛飾北斎「冨嶽三十六景 遠江山中」天保2年(1831)頃 横大判錦絵歌川広重「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」天保4-5年(1833-34)頃 横大判錦絵
歌川広重 「東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図 」 天保 5〜6 年(1834〜35)頃 横大判錦絵
歌川国芳 唐土廿四孝 呉猛 嘉永元〜3 年(1848〜50) 中判錦絵
歌川豊春 阿蘭陀フランスカノ伽藍之図 西村屋与八 安永期( 1772 〜 81 )~天明 (1781〜89)初期 横大判錦絵
司馬江漢 画室図 寛政 6 年(1794) 紙本銅版
亜欧堂田善・新井令恭 画/ 宇田川玄真 著 医範提綱内象銅版図 須原屋伊八 文化 5 年(1808) 紙本銅版
月岡芳年 魁題百撰相 鷺池平九郎 大橋屋弥七 明治元年(1868) 大判錦絵
小林清親 海運橋 第一銀行雪中 版元印なし 明治 9 年(1876)頃 横大判錦絵
4. 創作版画と新版画―両洋の眼・浮世絵の超克
伝統的な浮世絵に代わるかのように、明治30年代、「自画・自刻・自摺」を理想としてかかげた「創作版画」が登場する。また、大正期初めに浮世絵版画の画家・彫師・摺師の体制を継承する「新版画」が渡邊庄三郎によって創始され橋口五葉や 川瀬巴水といった絵師(画家)が登場する。両者は西洋美術に刺激を受け、浮世絵版画を超克する近代日本版画となっていく。
主な出品作品
石井柏亭 《東京十二景 よし町》 明治
43
年(1910)
木版
橋口五葉《髪梳ける女》大正 9 年(1920) 木版
小早川清《近代時世粧 瞳》1930年 木版
川瀬巴水《霧之朝(四谷見附)》1932年 木版
5.版画誌がつなぐネットワーク―日本と中国の「創作版画」
創作版画運動が盛り上がると、1920年代から日本各地で版画家のグループが結成され、版画誌が隆盛する。日本留学中にこの動きを知った魯迅は、中国の創作版画ともいえる「新興版画」を提唱した。版画家・編集者の料治熊太が主宰した創作版画誌『白と黒』や『版藝術』は、こうした日中版画交流の舞台になった。しかし1937年に日中が本格的な戦争状態に突入すると、両国の版画交流は途絶えざるをえなくなる。
主な出品作品
編集:料治熊太『版藝術』〈勝平得之版画集 全国郷土玩具集の[九] 秋田郷土玩具集〉1935年9月 木版
編集:料治熊太『版藝術』〈現代創作版画研究会(中華民国版画集) 南中国郷土玩具集〉1936年1月 木版
6. 占領下における新しい版画の胎動―中央と地方、モダニズムとリアリズムの往還
1945年の敗戦後、海外との交流をきっかけに新しい版画が生み出され始めた。ここでは恩地孝四郎を慕う版画家が集った「一木会」と、山形県南村山郡山元村にあった山元中学校(通称「山びこ学校」)が取り上げられる。前者はアメリカ進駐軍関係者との交流を経て抽象作品を育み、後者は中国木刻が紹介されたことをきっかけに、無著成恭により生活綴り方を版画に応用させた。2つの動きは戦後の教育版画運動のなかで合流し、1960年代から小中学校教育で版画が取り入れられることにつながっていく。
主な出品作品
恩地孝四郎《リリックNo.9 はるかな希い》1950年 木版
山形県南村山郡山元村山元中学校『炭焼きものがたり』1951年 木版
炭焼き物語 |
7. 「国際版画展」の季節―「版画の国」を広め育てる
冷戦期は各国が文化政策の一環として国際展を開催し、日本も国際文化交流に力をいれた。なかでも棟方志功が1956年ヴェネツィアビエンナーレで受賞したことは、「版画の国」としての日本の存在を内外に示した。棟方は自分の版画を「板画」と呼んだ。
主な出品作品
棟方志功《二菩薩釈迦十大弟子》1939年 木版
横尾忠則《聖シャンバラ 火其地》 昭和 49 年(1974) スクリーンプリント
靉嘔《レインボー北斎 ポジションA》1970年 スクリーンプリント
日本の版画の1200年をたどる歴史を、展示された作品を通じて知ることができる企画展でした。作品もいくつかは撮影可となっていましたので、楽しく観ることが出来ました。
別室では、「ふぞろいの版画たち」と題して、西洋版画によるステート(刷りの段階や状態)の違いを展示していました。
ヴェンツェスラウス・ホラー(1607-1677)
自画像 1647年 エッチング
アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『黙示録』より ヨハネと七つの燭台 1498年 木版
レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
足のきかない男を癒す聖ペトロと聖ヨハネ 1659年 エッチング
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