荻窪にある大田黒公園に紅葉がりに行ってきました。この公園には紅葉時期には訪れていますが、今回は、この周辺にある古い建物も見てきました。
(参照):
東京異空間166:散りもみじ~荻窪の二つの庭園(2023/12/18)
東京異空間263:大田黒公園~紅に染まる(2024/12/18)
1.大田黒公園の紅葉
大田黒公園は、入口のイチョウ並木、そして池の周りの紅葉が楽しめる都内の紅葉スポットとしても知られる。もともとは、音楽評論家の大田黒元雄の屋敷跡地を杉並区が回遊式日本庭園として整備し、1981年に開園した。
この庭園をデザインした造園家・伊藤邦衛は、笹の葉の揺れる音までも計算していたという。四季によって美しく彩られる植物を堪能できるよう、庭園中心に芝生地の空間が取られ、水は裏の池井戸から木立の間を流れて錦鯉が泳ぐ池に注がれている。
伊藤邦衛(1924-2016)は、北の丸公園の千鳥ヶ淵緑道 、そのほか、徳川園(愛知)、三景園(広島)、池上本門寺松涛園(東京)などの設計、改修整備を手掛けている。
2.荻窪の由来など
今回は、大田黒公園とその周辺の建築もあわせて見てきたが、あらためて、ここ「荻窪」の由来などを調べてみた。
(1)荻窪の由来
「荻(オギ)」とはイネ科の多年草植物で、ススキに似て河川敷などの湿地に群生する。この荻が低い窪地に繁茂していたことに由来する。飛鳥時代のこと、仏像を背負った行者がこの地を通りかかった時、急に仏像が重くなったため、この地に何か縁があると信じ、近くに生い茂っていた荻を集めて草堂を建て仏像を安置したと伝えられる。通称「荻寺」「荻堂」と呼ばれ、このお寺の周辺を「荻窪」と呼ぶようになったという。 現在は「慈雲山荻寺光明院」となっている。
(2)荻窪の歩み
荻窪は、江戸時代は主に農村地帯であり、また、徳川将軍家の鷹狩りの休憩所(御殿)も設けられた。旧中田家長屋門(後述) は、名主・中田家の屋敷にあった長屋門で、11代将軍・家斉が鷹狩の際に立ち寄った休憩所として特別に建築が許されたものである。
また、江戸城修築用の石灰を運ぶ青梅街道が通り、その宿場が置かれるなど、交通の要衝としての役割も持っていた。
明治に入ると、「甲武鉄道」(現・JR中央線)が、1889(明治22)年に新宿~立川間で開業し、1891(明治24)年に「荻窪駅」が開設されたが、駅周辺は民家が2軒ほどのほぼ原野で、しばらくは発展もなかったという。
大正から昭和初期にかけて、東京近郊の別荘地として住宅が増加した。とりわけ、関東大震災後には被災者の移住により人口も増えた。
1937(昭和12)年に、公爵で、内閣総理大臣の近衛文麿が別邸「荻外荘」を構えたころから閑静な住宅街として評価が高まり、井伏鱒二、太宰治など多くの文化人が私邸を構えるようになった。井伏鱒二『荻窪風土記』には昭和初期の荻窪の風景や作家たちのエピソード が描かれている。
そうした文化人の一人が大田黒元雄であり、彼も荻窪に、1933(昭和8)年に邸宅を構えた。
(参照):
東京異空間262:荻外荘~その建築と歴史(2024/12/17)
3.大田黒公園とその周辺の建築
(1)大田黒邸宅
音楽評論家の大田黒元雄はドビュッシーなどを日本に紹介したことでも知られる。 ピンク色の建物は1933年に大田黒氏が仕事部屋として建てたもので、欧米の建築様式に日本瓦の屋根という和洋折衷の建物である。設計は前田健二郎。
前田健二郎 (1892-1975)は、1917年(大正6年)逓信省に勤務。第一銀行を経て独立。1918年(大正7年) に募集が行われた帝国議事堂コンペティション第1次競技に入選している。
「コンペの前健」の異名をとり、帝国議事堂・大阪市美術館・神戸市公会堂・早稲田大学大隈記念堂・京都市美術館と多くの設計コンペで一等当選を果たすが、彼の案が改変或いは全く異なるデザインで実施されたものが多く、その意味で不遇な建築家といわれる。
庭には、数寄屋造りの茶室が設けられている。庭園は、 設計が伊藤邦衛で、施工は蛭田貫二とされている。
(2)旧中田家長屋門
「旧中田家長屋門」は江戸時代に建てられた中田家の門を移築したもの。寛政年間(1789~1801年)頃、11代将軍・家斉が鷹狩りの際に休憩するため、下荻窪村の名主を務めていた中田家の屋敷に武家長屋門をつくらせた。また、明治になると、1883(明治16)4月に埼玉・飯能で近衛兵の演習の統監に向かう明治天皇が立ち寄り、その際に屋敷の離れを休憩所とした。同月、小金井で開催された観桜会の際にも立ち寄っている。長屋門の前に、「明治天皇荻窪御小休所」の石碑が建っている。
戦後に邸宅を取り壊して高層ビルを建てる際に小休所は壊されてしまったが、長屋門は壊されずに残っている。現在は、門の裏側は駐輪場や物置のようにも使われているが、屋根裏をみると、太い柱が組まれていて古さが分かる。
| 「明治天皇荻窪御小休所」の石碑 |
(3)NTT荻窪電話局(旧荻窪郵便局電話事務室 )
「旧荻窪郵便局電話用事務室」は、1932(昭和7)年に竣工した建物。設計は逓信建築の先駆者的存在の山田守。
山田守(1894-1966)は、逓信省経理局営繕課に所属し、郵便局や電話局、逓信病院、また震災後の永代橋、聖橋など、数多くの公共建築を手がけた。戦後は、逓信省を退官し独立する。創設者・松前重義(逓信院総裁・工学博士)とともに東海大学の設立に関わり、設立後は東海大学工学部建設工学科教授として後進を指導した。晩年には日本武道館、京都タワーといったよく知られている建築の設計を手がけた。
(参照):
荻窪郵便局電話用事務室は、昭和7年(1932年)に竣工した。竣工当時は、時代の先端を行く白亜のスマートなビルで、丸みがかかったアール部分は2階建てで、白い壁面に大きなガラス窓が特徴であった。当時の写真を見ても、とても電話局のビルとは思えないモダンな建物である。いまは、褐色のパネルに覆われ、スーパーが入っている。
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| 荻窪郵便局電話用事務室 |
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| 荻窪郵便局電話用事務室 |
(4)旅館西郊・西郊ロッヂング
「西郊(せいこう)」は東京の西郊外。下宿を英語にすると「ロッジング Lodging」で、荻窪の高級下宿屋として1935(昭和10)年に本館が竣工、1938(昭和13)年に新館を増設した。当時としては珍しく、洋間にベッド、クローゼットなどを備え、内線電話も設置されたモダンな高級下宿だった。 先に述べたように、震災後のこの時期の荻窪に移住してくる人も多くなり、また、文人や政治家が多く住む上流階級の別荘地でもあった。こうした背景の中で、西洋風の近代的なデザインと、プライバシーと快適さを考慮した室内設備は、当時の日本では画期的であった。
初代経営者は平間美喜松。震災前は本郷で下宿を営んでいたという。建物の設計者は不明だが、丸みをおびた建物のデザインは、初代の平間美喜松が、技術者として野方配水塔(中野区)の建設にかかわったことから生まれたといわれる。
荻窪電話局ビルがエリート建築家による純モダニズム建築なのに対して、こちらの建物は所々に和の要素が入り込む和洋折衷モダニズムといえる。
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| 野方配水塔(中野区) |
大田黒公園の紅葉にひたり、そのあと周辺の古い建物を訪ねて、荻窪の町の一端を知ることができました。






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