また、石神井公園に紅葉狩りに行って来ました。いたるところ紅葉、三宝寺池の周辺も水面に映る紅葉。陽の光に照らされて、一段と赤く映えていました。これを「照紅葉」というそうです。
「照紅葉」という言葉の連想から、この地域にある「照姫」伝説を調べてみました。
(参照):
東京異空間362:秋色づくⅠ~武蔵関公園・石神井公園・皇居二の丸庭園(2025/11/17)
1.照姫伝説
室町時代の石神井城主・豊島泰経が江戸城の城主・太田道灌に攻められ落城した際、娘の照姫が父の死を悲しみ三宝寺池に身を投げたという悲劇の伝説がある。
豊島泰経は、1477年、太田道灌と江古田原・沼袋の戦いに敗れ、泰経は、家宝の「金の乗鞍」を愛馬に乗せて三宝寺池に身を投げた。 照姫も父の死を悼み、後を追って池に身を投げた。 道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。この塚はいつしか「姫塚」と呼ばれようになった。
しかし史実では、泰経は石神井城落城の時には死なず、脱出して、平塚城(現・北区)で再挙している。道灌が平塚城攻撃に向かうと、泰経は戦わずして逃亡し、以後行方不明となった。 泰経は石神井城落城の時には死んでいないので、その姫が悲嘆にくれて後を追うわけもなく、照姫にあたる女性も豊島氏関連の系図類には存在しないとされる。
では、どのようにして照姫伝説が生まれたのか。それは、明治の作家・遅塚麗水(ちづかれいすい)が、三宝寺池北側にあった三宝寺の「照日(てるひ)上人」)の塚を見て、石神井城落城にまつわる姫君の悲話を思いつき、『照日の松』 という大衆小説を書いたことによるようだ。 麗水は主人公の名を「照日姫」とし、「都新聞」で小説を連載したが、これが好評を博し、小説内容は次第に伝説化して、「照日姫」の名はつづまって「照姫」となり、「照日塚」も「照姫の墓」とされて「姫塚」と呼ばれるようになったという。
また、泰経とともに沈んだ「金の乗鞍」を発見しようと、明治41年(1908年)には地元から都知事に許可を願い出て池の探索が行われたという。こうして伝説は事実化して、当時すでに地域に浸透していたようだ。
今では、この伝説を元に、石神井公園では毎年4月に「照姫まつり」が開催されている。
(参照):
| 江古田原・沼袋の古戦場に建つ石碑 |
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| 石神井城址 |
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| 姫塚 |
2.照紅葉
陽の光を受けて美しく輝く紅葉の様子を「照紅葉(てりもみじ)」という。この時期、公園内の到るところで、照紅葉を楽しめる。
| メタセコイア |
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