山崎山から流れ出る曲水の周辺を巡り、時雨亭、梅林をまわって随身門から出ました。
1.ラジオ塔
兼六園の長谷池近くにある「ラジオ塔」は、昭和8年(1933年)にNHK(日本放送協会)が公共放送の普及を目的に設置したもの。
戦前には、この塔から名古屋放送局などのラジオ番組が流れ、多くの人々に親しまれていた。1930年(昭和5年)から全国で約460基作られ、各地のラジオ塔の多くは鉄筋コンクリート造であったが、特別名勝である兼六園では、周囲の豊かな緑や歴史的な景観との調和を保つため、あえて上部に木製の灯籠デザインが採用された。各家庭にラジオが普及したことでその役目を終え、現在は当時のラジオ文化を伝える貴重な歴史遺産となっている。
2.松の傷
「松の傷」は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月頃、軍用航空機の燃料とするために松脂(まつやに)を強制採取した歴史的な痕跡である。
1945年 (昭和20年)3月、日本政府は航空機の燃料不足を補うため「松根油等拡充増産計画」を閣議決定した。これは、全国の松から松脂や松の根を採取・乾留し、航空機用の代替燃料(松根油)を大量生産しようという計画であった。兼六園も例外ではなく、園内の松約200本が対象に指定された。同年6月、実際に53本の松から松脂の採取が開始された。1本の木から1昼夜で約1合半(約270ml)の松脂が絞り取られたと記録されている。
最終的に、この燃料で実際に航空機が飛ぶことはないまま、同年8月に終戦を迎える。
戦災に遭わず、江戸時代の美しい庭園の姿をそのまま残す兼六園において、この松の傷は唯一とも言える明確な「戦争の痕跡」である。
3.千鳥配置(ちどりはいち)
千鳥配置とは、石を一直線に並べるのではなく、左右にわずかに互い違いに配置する飛び石の手法である。千鳥が、左右に体を揺らしながら歩く独特の足取りに似ていることからこの名が付けられている。左右、一歩進むたびに景色が変わる仕掛けとなっており、兼六園の庭ではいくつか見られるが、これは「舟之御亭」に向かう飛び石である。
| 奥が舟之御亭 |
4.時雨亭
兼六園のルーツ:時雨亭の始まりは、1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が金沢城内の作事所を移転させ、その跡地に「蓮池御亭(れんちおちん)」を建てたことにある。この蓮池御亭がのちに補修や建て替えを経て、藩政後期に「時雨亭」と呼ばれるようになった。
明治時代初期に一度取り壊されて姿を消したが、2000年の「平成の復元事業」において、残されていた古図や絵図を基に現在の場所に再建された。
5.時雨亭周辺
6.梅林
梅林は、全国から集められた約20種・200本の梅が植えられている名所。加賀藩前田家の家紋は「梅鉢紋」であり、家系が梅をこよなく愛した菅原道真の末裔を称していたことから、元々梅とは非常に強い結びつきがあった。こうした深い縁から、明治100年を記念して1969年 (昭和44年)に梅林が造成された。 造成にあたっては、北野天満宮や太宰府天満宮、水戸偕楽園など、全国の有名な梅の名所から由緒ある苗木が集められた。
7.随身坂口
「随身坂」は、この坂のそばに、兼六園の敷地に隣接する「金沢神社」の神門が「随身門」と呼ばれることに由来する。
「随身坂口」を出て、兼六園に隣接している「金沢神社」に参ります。
兼六園を一回りしたところで、その歴史を振り返っておく。
江戸時代:歴代藩主による作庭と改修
江戸時代は、火災による焼失を乗り越え、周辺の平地(千歳台)を取り込みながら、現在の広大な庭園へと拡張されていった。
1676年(延宝4年)
5代藩主・前田綱紀が金沢城に面する傾斜地に別荘「蓮池御殿」を建て、その周辺を庭園化し、「蓮池庭」を造る。これが兼六園の始まりで、現在の瓢池周辺にあたる。
1759年(宝暦9年)
「宝暦の大火」により金沢城下と蓮池御殿、庭園の大部分が焼失。
1774年(安永3年)
11代藩主・前田治脩が蓮池庭を再興。このとき、現在も残る茶室「夕顔亭」や「翠滝(みどりたき)」が造営された。
1792年(寛政4年)
11代藩主・前田治脩が、蓮池庭の上部にある広大な平地「千歳台」に藩校「明倫堂」と「経武館」を創設。
1822年(文政5年)
12代藩主・前田斉広が千歳台の藩校を移転させ、広大な隠居所「竹沢御殿」を築造。
同年、白河藩主・松平定信の筆による「兼六園」の扁額を授かり、庭園の名称が定まる。
1837年(天保8年)
13代藩主・前田斉泰が竹沢御殿を取り壊し、跡地を「竹沢御庭」として再整備。
「霞ヶ池」を掘り広げ、内橋亭を移築、唐崎の松を植樹するなど、現在の壮大な景観の骨組みが作られた。
1861年(文風元年)頃
13代斉泰が金沢城内に噴水を設けるための試作として、園内に日本最古とされる自然水圧の「噴水」を設置。
1863年(文久3年)
13代斉泰が母(12代斉広の正室・真龍院)の隠居所として、園内に「成巽閣(せいそんかく)」を造営。
1867年(慶応3年)
瓢池と霞ヶ池、千歳台の一帯が一体化する大規模改修が完了し、現在の兼六園の姿がほぼ完成した。
明治時代〜現代:市民への開放と文化財としての歩み
明治維新によって国有地となった兼六園は、博覧会会場や近代的な施設が置かれるなど、公共の「公園」へと大きく役割を変えていった。
1871年(明治4年)
園内の一部が初めて一般市民に日時限定で開放される。山崎山の下に「異人館」が建設された。
1872年(明治5年)
金沢で最初の近代博覧会。兼六園内の「夕顔亭」や「蓮池庭」周辺、旧藩校の「明倫堂」などが会場となる。以後、兼六園は、明治時代に3度の博覧会の会場となり、近代文明の発信地となる。
1874年(明治7年)5月7日
太政官布告に基づき、石川県の公園として全面的に一般無料開放が開始。これに伴い、園内に多くの茶店が軒を連ねるようになった。
1878年(明治11年)10月2日
明治天皇が兼六園に行幸。
当日は(旧)藩主13代・前田斉泰、自らが園内を先導し、明治天皇を案内した。
行幸が兼六園に、もたらした歴史的影響
(1)徽軫灯籠(ことじとうろう)の改作:明治天皇に披露するにあたり、前田斉泰が灯籠のバランスや庭園の景観的な「見せ方」を考慮し、あえて片脚を短くした状態で据えた、という考察がある。
(2)「日本三名園」選定のきっかけ:兼六園・偕楽園(水戸)・後楽園(岡山)を「日本三名園」と呼ばれるようになったのは、明治天皇が巡幸で訪れ、称賛された3つの庭園がもととなり、のちに三名園として定着したという説がある。
(3)「明治紀念之標(日本武尊像)」の建立:行幸から2年後の1880年(明治13年)にこの「標」が建てられたが、その際、明治天皇から100円、旧藩主・前田斉泰から700円という多額の寄付が寄せられた。
1880年(明治13年)
西南戦争の戦死者を慰霊するため、日本最古の屋外銅像とされる「明治紀念之標(日本武尊像)」が建立される。
1922年(大正11年)
国の「名勝」に指定される(当初は「金沢公園」の名で指定、1924年に「兼六園」へ名称復帰)。
「ラジオ塔」が建てられる。
1945年(昭和20年)
戦闘機の燃料とするため、松から松脂の採取が開始され、「松の傷」が残る。
1969年 (昭和44年)
明治100年を記念して、梅林が造成された。
1976年(昭和51年)
園内の観光化に伴う環境荒廃を防ぎ、維持・保存を徹底するため、それまでの無料開放から有料化へと踏み切る。
1985年(昭和60年)
国の「特別名勝」に格上げされ、庭園における国宝に相当する最高格付けを得る。
2000年(平成12年)
長谷池周辺の整備事業が竣工。明治初期に取り壊されていた「時雨亭(しぐれてい)」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が130年ぶりに再現・復元された。
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