2024年2月12日月曜日

東京異空間179: 鳥文斎栄之展@千葉市美術館

 

鳥文斎栄之「川一丸舟遊び」

千葉市美術館で開催されている「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」を観て来ました(会期:33日まで)。鳥文斎栄之という浮世絵師は、江戸時代の浮世絵師としては、それほど知られてはいないのではないでしょうか。そもそも名前は「ちょうぶんさい・えいし」と読みます。しかし、美人画を得意とし、同じ時代の喜多川歌麿と拮抗する浮世絵師であったということです。

この展覧会は、ボストン美術館、大英博物館からの里帰り品を含め、錦絵および肉筆画の名品を国内外から集め、鳥文斎栄之の画業をまとまって観ることのできる初めての展覧会ということです。

なお、作品の撮影可は数点のみでした。

1.鳥文斎栄之(1756-1829

鳥文斎栄之は、禄高500石の直参旗本・細田家の長男として生まれるが、17歳の時(1772)に父が亡くなり家督を継ぐことになり、1781年には小納戸役となった。小納戸役とは、将軍に「お世話をする者であり、利発、食膳、庭方、御馬方など様々な役目があった。栄之は、狩野栄川院典信の門人となり、10代将軍・家治の絵の具の役を務めていたという。栄之という号は、家治の意により、師・栄川院より「栄」の一字を譲り受けたものだとされる。

しかし、天明61786)年に将軍家治が死去し、栄之の務めは三年程度で終わり、浮世絵師の世界に入り、武士の身分を離れていったといわれる。身分制度が定着していたこの時代に、サムライから浮世絵師になるには相当な動機、決断があったものと思われるが、詳しいことは不明のようだ。

2.錦絵~紫絵(紅嫌い)~肉筆画

栄之は浮世絵師となっデビューして間もなく、大判錦絵5枚続という大作を制作している。大判の半分の中判が主流であった当時において、その10倍(サイズ、コスト、価格)もする大きな錦絵を新人の浮絵師が手掛けるということは異例のことであった。これは、より高級な作品を、ある程度裕福な層をターゲットとして売り出そうという版元の戦略として、栄之の出自の魅力を利用したとされる。隅田川での舟遊びを楽しむ上流階級の女性たちの姿を描くその題材にも、高級志向が表れている。

初期のころは、鳥居清長(1752-1815)の美人画の画風の影響が強くあったが、清長が鳥居家4代目を襲名すると、錦絵の美人画制作から離れていったため、版元・西村屋与八は、後継者として栄之を据えたとされる。栄之は、清長風の美人画から脱して、独自の美人画スタイルをつくりあげていく。

また栄之は寛政期の前期には、錦絵の鮮やかさを彩る紅の赤を意識的に抜いて、紫色、あるいはほとんどモノトーンのような「紫絵」(紅嫌い)を描いた。この「紅嫌い」の創案者は栄之であるといわれる。 しかも、題材には「源氏物語」などの古典物語を題材に、王朝風俗の雅びを当世の上流身分の人々に置き換えて描いている。これも、より高級志向、裕福な知識層をターゲットとしたものといわれる。

栄之の錦絵における活躍は、寛政年間(1789-1801)には、喜多川歌麿(?-1806)の全盛期とも重なっていた。歌麿は、版元・蔦屋重三郎に見いだされ、美人画のスターとなっていった。歌麿も栄之も吉原の遊女を描いたことから「青楼の画家」ともいわれる。「青楼」とは、幕府公認の吉原遊郭を指す。

歌麿が美人画としては初めて「大首絵」、顔をクローズアップして大きく描く構図、今風に言えばスターのブロマイド)で人気を集めたのに対し、栄之は立ち姿、全身像を八頭身どころか、12頭身ですらりと描き、女性の美しさ、艶やかさを表現した。

しかし、時は老中・松平定信による寛政の改革期であり、出版界にも厳しい目が向けられ、栄之は自らの出自からか、美人画といった錦絵の世界から手を引いていった。

錦絵の版下絵を描くことをやめ、肉筆画に集中していった。版元の意向が大きく絵を左右する錦絵とは違い、1点物の肉筆画は注文主が依頼したものを描くことから注文主の意向がほぼ反映されることとなる。栄之は、寛永101798)年頃から以降、没年まで30年弱の間、肉筆浮世絵の分野で活躍した。その筆は、線の繊細さを持って、華やかで艶のある上品な美人画を描いている。

また、門人も多く、栄昌、栄水、栄里、栄深らが活躍して、一派を形成した。これらの門人は、「大首絵」も多く作成しており、栄之との棲み分けをしていたともいわれている。しかも、門人たちの出自についても、武士ではないかと言われている。「栄」の号が付くことからもその可能性が示唆されている。

(参考)図録「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」千葉市美術館 2024

川一丸舟遊び(大判五枚続)寛政8-9(1796-97)年頃

川一丸舟遊び(左から1枚目)

川一丸舟遊び(左から1枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から2枚目)

川一丸舟遊び(左から2枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から3枚目)

川一丸舟遊び(左から3枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から4枚目)

川一丸舟遊び(左から4枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から4枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から5枚目)

川一丸舟遊び(左から5枚目・部分)

川一丸舟遊び(左から5枚目・部分)

新大橋下の涼み船(大判五枚錦絵)寛政2(1790)年頃

新大橋下の涼み船(左から1枚目)

新大橋下の涼み船(左から1枚目・部分)

新大橋下の涼み船(左から2枚目)

新大橋下の涼み船(左から2枚目・部分)

新大橋下の涼み船(左から3枚目)

新大橋下の涼み船(左から3枚目・部分)

新大橋下の涼み船(左から4枚目)

新大橋下の涼み船(左から4枚目・部分)

新大橋下の涼み船(左から5枚目)

新大橋下の涼み船(左から5枚目・部分)

鳥高斎栄昌「郭中美人競 大文字屋内本津枝」寛成9(1797)年頃

鳥高斎栄昌「郭中美人競 大文字屋内本津枝」部分

鳥高斎栄昌「郭中美人競 大文字屋内本津枝」部分

3.武士と絵画

鳥文斎栄之が、なぜ、武士の身分から浮世絵師の世界に入ることになったかといった動機などについては詳しいことが分かっていない。しかし、その門人たちも武士の出自であった可能性が指摘されるなど、江戸時代の武士と絵画の関係をテーマに、千葉市美術館収蔵作品で構成した小企画「武士と絵画」が同時に開催 されている。

ここで展示されている武士=絵師をあげておく。

(1)戦国の武人画家たち

宮本武蔵(1584-1645)、海北友松(1533-1615

(2)描いた将軍

徳川家光(1604-1651

(3)幕府の御用絵師

狩野探幽(1602-1674)、狩野伊川院栄信(1775-1828

(4)武士と文人画

渡辺崋山(1793-1841)、立原杏所(1786-1840 たちはらきょうしょ)

(5)文人として生きる

浦上玉堂(1745-1820)、田能村竹田(1777-1835

(6)武士と浮世絵

北尾政演(山東京傳、1761-1816)、酒井抱一(1761-1829)、北尾政美(鍬形蕙斎、1764 - 1824

(7)浮世絵ラストサムライ

小林清親(1847-1915)、楊洲周延(1838-1912

渡辺崋山「佐藤一斎像画稿 第三~第七」文政4(1821)年頃

渡辺崋山「佐藤一斎像画稿 第五」

最後の「浮世絵ラストサムライ」としてあげられている楊洲周延については、町田市立国際版画美術館で観ましたが、周延も戊辰戦争を戦ったラストサムライから浮世絵師になり、江戸・徳川の宮廷絵、文明開化の洋装の女性たち、そして「真=新美人」といわれる新時代の美人画 を描きました。今回、鳥文斎栄之がやはりサムライの出であり、その美人画は、喜多川歌麿に拮抗するほどの浮世絵師であったことを知りました。その作品は大判五枚続など大迫力があり、錦絵は12頭身というスラリとした美人画、さらに肉筆画では、より上品で繊細な美人が描かれていて、その魅力に引き込まれました。

鳥文斎栄之の作品を一堂に会したこの展覧会は、評価も高いようです。できることなら、後期にも出かけてみたいものです。

(参照):

「東京異空間170:楊洲周延~文明開化を描いた浮世絵師」(2024/01/10

「東京異空間119:鳥居清長展~回向院」(2023/06/10

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