川崎大師・大本堂 |
今年になって、田無神社、東伏見稲荷神社へと初詣に行きましたが、川崎大師にも初めて行きました。初詣というのは、「正月(とくに3が日)、その年初めて神社や寺に参詣すること」ですが、この伝統的な(?)初詣が始まったのは明治になってから、そして初詣が定着したのは川崎大師からだとされます。
1.川崎大師
川崎大師と呼ばれ、初詣の人数は明治神宮、成田山新勝寺に次いで3位となる人気の寺社である。正式名称は、金剛山金乗院平間寺(へいけんじ)で、1128年の創建という。由緒によれば、この地で漁師を営んでいた平間兼乗(ひらまかねのり)が海中より弘法大師像を引き上げた。その頃、書国有化の途中であった高野山の尊賢上人が立ち寄り、この霊験奇瑞に感動し、兼乗と力を合わせ、この像を本尊として寺を創建し、姓・平間(ひらま)をもって平間寺(へいけんじ)と号した。
この寺が隆盛するきっかけとなったのが寛政8(1796)年と文化10(1813)年の二度にわたる11代将軍・家斉の参詣である。両年は家斉にとって厄年に当たる年であり、これを契機に厄除大師として急速に発展していったという。
2.なぜ初詣は川崎大師から
近世においては、「恵方詣」「初縁日」などといった正月になって寺社に参ることがあった。「恵方詣」は、その年の縁起のよい方角(歳徳神のいる方角)にある寺社に参詣することで、江戸(東京)から川崎大師は巳牛(ほぼ南南東)にあり、5年の周期で2回まわってくる。また、初縁日というのは、弘法大師が入定したとされる3月21日に基づき、21日が縁日とされ、一年最初の縁日(1月21日)を「初縁日」として多くの人が参詣したという。これらは「いつ」「どこへ」が決まっている参詣であったが、先に述べたように「初詣」は、その年の初めに、寺社に詣でることとであり、「いつ」「どこへ」というものが定まっているものではなく、曖昧で幅広い言葉である。
このような初詣は、鉄道が引かれたことが契機となっている。庶民は、鉄道に乗って郊外の寺社に参詣すことが行楽のとしての楽しみとなった。
川崎大師は、名前の通り、川崎にある寺であり、江戸から参詣するには体力、時間に余裕のあるものでなければ叶わなかった。それが明治に入り鉄道が誕生すると川崎大師へのアクセスが飛躍的に向上した。明治5(1872)年には日本最初の鉄道道、新橋横浜間が開業し、その途中に川崎停車場が設けられた。川崎停車場が開業して間もなくの9月21日(大師縁日)には臨時列車が運行され、往復割引乗車券も発売された。
さらに明治32(1899)年には関東では最初の電気鉄道である大師電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が開業し、官鉄(汽車)と私鉄(電車)の両方がサービス競争を始めることになり、一気に旅客、参詣客が増えた。また、川崎大師から多摩川を渡った先にある穴守稲荷神社にも寄ることができることから京浜鉄道がセットにした回遊切符を発行した。これにより人々の行楽的気分が一層高まり、多くの参詣客、すなわち乗客が増えた。こうした鉄道会社のPRのキーワードとして、「初詣」という幅広い言葉が使われ始めた。それは明治の20年ごろからだという。
庶民にとって、汽車にも乗ってみたい、物珍しい電車にも乗れて、しかも川崎大師、穴守稲荷神社もセットでまわれるという行楽と信心の一石二鳥の「初詣」であったことだろう。
同じように、郊外の千葉にある成田山新勝寺も総武鉄道(現・JR)と成田鉄道(現・京成)という複数の鉄道がそれぞれ競争し、それにお寺も乗って、初詣客=乗客の獲得作戦を展開した。川崎大師も、成田山新勝寺も郊外にあり、しかも複数の路線ができて、しだいに初詣も、信心よりも行楽の楽しみが上回るようになっていった。
(参考):
『鉄道が変えた社寺参詣』平山昇 交通新聞社新書 2012年
『初詣の社会史』平山昇 東京大学出版会 2015年
京急・川崎大師駅 |
大師電鉄の発祥の地 |
3.境内の建物など
京浜急行の川崎大師駅の前からすぐに表参道の門がある。ここから境内までは通常だと10分程度だが、正月三が日となると2時間程度は覚悟しなければならないという。
(1)仲見世通り
仲見世通りには、久寿(くず)餅、せき止め飴、せんべい、まんじゅうなどの土産物や、だるま、福招き猫などの開運グッズ を売るお店が軒を並べる。
仲見世通りの入り口にくると、トントントンとリズム良い音がする。これは、長い水飴を包丁で切っていく音で、「とんとこ飴」、家伝のハーブが入った「せき止め飴」などを売っている。
山門前まで来ると、大正6年の創業から100年以上、お大師様とともに歩んできた 「住吉」というお店。参拝者の多くが手にこの店の「久寿餅(くずもち)」が入った黄色い包み紙の袋を持っている。
ここのくず餅は、葛粉を原料とした「葛餅」ではなく、小麦粉を原料としているという。そのはじまりは、江戸天保(1830年代)の頃、大師河原に住んでいた久兵衛なる者が、嵐に遭って濡れてしまった小麦粉をやむなく樽に移し、水に溶いて放置してしまい、翌年になって樽のことを思い出した久兵衛が、おそるおそる中を覗いてみると、「餅」ができあがっていた。この餅を当時の川崎大師貫主に献上したところ、大変な美味ということで、貫主は川崎大師名物として広めることを提案し、久兵衛の名前と長寿祈願から「久寿餅」と命名したという。
表参道の門 |
仲見世通り |
仲見世通り |
山門前の「住吉」 |
(2)大山門
大きな山門をくぐる。この山門は、1977(昭和52)年の落慶 。京都・東福寺の三門(さんもん)を参考に設計 され、四方には、京都・東寺の四天王像を模刻した像を安置している。
大山門 |
大山門 |
大山門 |
四天王 |
四天王 |
大山門 |
(3)経蔵・献香所
本堂に向かって左手に経蔵がある。この経蔵は、2004(平成16)年の落慶で、中国最後の木版大蔵経といわれる「乾隆版大蔵経」を7240冊収蔵している。本尊は釈迦如来。釈迦如来の前に置かれた五鈷杵(ごこしょ)に金箔を奉納し、仏様とご縁を結ぶことができるとされる。 天井には仏画家・染川英輔による荘厳な「飛天」図があり、京浜急行電鉄により奉納されている。
経蔵の眼には「献香所」が設けられ、ここで焚かれたお線香の煙は、無病息災・病気治癒のご利益があるとされる。治したい部位や気になる部位に煙を浴びると、お大師様のご加護を受けられるということで、みな、煙を体のあちこちに浴びている。なお、大香炉は京浜急行電鉄の奉納。
経蔵・釈迦如来と五鈷杵 |
天井の飛天図 |
献香所 |
大香炉(奉 京浜急行電鉄) |
(4)霊木・イチョウ
経蔵の裏手にあるイチョウの木は、霊木で「奇跡のイチョウ」と言われている。第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失したのですが、奇跡的に復活を遂げた古木です。川崎大師は、戦後の焼け野原から本堂をはじめ七堂伽藍を復興していったが、その歴史を伝えるイチョウだという。
霊木・イチョウ |
霊木・イチョウ |
(5)大本堂
大本堂は、1964(昭和39)年に落慶。本尊の厄除弘法大師を中心に不動明王、愛染明王などを安置している。お詣りの際には、合掌して「南無大師遍照金剛 」と唱える。
大本堂 |
大本堂 |
(6)不動堂
不動堂は、1964(昭和39)年に再建されたもので、本尊の不動明王は成田山新勝寺の本尊を勧請した。
不動堂 |
(7)不動門
不動堂の正面に位置する不動門は戦後、福島県の有縁の地より山門として移設された。大山門の横に位置しており、不動門の前の道の両側には屋台が並んでいた。
不動門 |
(8)八角五重塔
八角五重塔は、1984(昭和59)年に弘法大師1150年御遠忌・大開帳記念として落慶。
八角形の五重塔というのは、あまり見ないが、 八角は最も円に近い建造物の形といわれ、「包容力」「完全性」を象徴しているという。。
八角塔は京都・法勝寺の八角九重塔(1083年建立) 、奈良・西大寺の八角七重塔(塔は八角形で計画されたが、途中で四角形の五重塔に改められた)などが歴史的に存在したが、 現存するのは長野・安楽寺の三重塔を含め、4例ほどとされる。
ここの八角五重塔は、ご縁日(毎月21日)には塔の内部が拝観でき、なかに両界曼荼羅や、恵果和上、弘法大師、興教大師(覚鑁)の三尊像が安置されている。
なお、川崎大師の境内にある昭和から平成にかけて再建されたほとんどの建物は、大岡實建築研究所・大林組が手がけている。
八角五重塔・手前は経堂、献香所 |
八角五重塔 |
八角五重塔・正面は不動門 |
八角五重塔 |
(9)鐘楼堂
鐘楼堂は、1947(昭和27)年に再建されたもので、大晦日の除夜法楽のほか、6月10日の時の記念日、8月6日の広島原爆忌、8月9日の長崎原爆忌、8月15日の終戦の日に鐘が打たれる。
鐘楼堂 |
- (10)「祈りと平和」の像
- 八角五重塔の脇に置かれた「祈りと平和」の像。像全体は金色。中央は富士山の上に光臨した観世音菩薩をモチーフとした女神、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女が置かれ、「祈り」と「平和」を象徴しているという。圓鍔勝三(えんつば かつぞう、1905-2003)の制作。
「祈りと平和」の像と八角五重塔 「祈りと平和」の像と八角五重塔 - (11) 第五十五代横綱 北の湖敏満之像
- 平間寺を菩提所とする第55代横綱 ・北の湖の2017(平成29)の三回忌の折に建立された銅像。
- ほかにも「征清陣込軍人招魂碑」1894(明治27)年の日清戦争で戦死した将兵の招魂の慰霊塔など、多くの石碑が境内に置かれている。
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第五十五代横綱 北の湖敏満之像 征清陣込軍人招魂碑
忠魂碑(乃木希典 書) |
ここ数年はコロナ渦で、初詣も控えられていましたが、今年は、多くの人が初詣に出かけたようです。「初詣」というと、古くからある伝統的な行事・習慣を思われますが、実は明治の中頃から鉄道の開業とともに、新たに「初詣」として広まったということです。その始めが川崎大師であり、成田山新勝寺とともに、いまでも、初詣の多い寺社となっています。正月の初詣のピークをすぎた時期とはいえ、参道は土産物屋などで賑やかでした。
結局、今年になって三度目の「初(?)詣」となりました。
(参照):
「成田山新勝寺1:建築と装飾2021/01/04 」
川崎大師・御朱印 |
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