「生誕120年 安井仲治 僕の大切な写真」@東京ステーションギャラリーを観て来ました。安井仲治という写真家は、それほどよく知られてはいないと思いますが、土門拳、森山大道などから高く評価されている戦前のアマチュア写真家です。
2004年に生誕百年の回顧展が開かれて以来、20年ぶりの大規模な展覧会で、愛知県美術館、兵庫県立美術館で開催され、東京ステーションギャラリーが最後の巡回地でした。会期は4月14日まで。
印象に残った作品をあげてみます(すべてではないですが)。
1.安井 仲治(やすい なかじ1903-1942)
大阪に安井洋紙店の長男として生まれ、裕福な家庭に育った。学生時代にカメラに興味を持ち、1922年には浪華写真俱楽部に入会し、写真展で入選を果たすなどメンバーとしても活躍した。
安井は、アマチュアとして自由な撮影対象を選び、写真の芸術性を求め、また街角のスナップによる写真の社会性をとらえ、さらにそのカメラの視線は犬などの動物、植物などの自然に及び写真の人間性を表わしている。しかし、その写真家人生は20年程度であり、38歳で惜しまれて亡くなる。
1930年代の安井仲治 |
2.写真の芸術性
写真が普及するにつれ、写真に芸術性を求めるようになった。安井も初期の作品<分離派の建築と其周囲>に見るように、絵画のような写真を制作している。 安井が東京の上野公園で開催された平和記念東京博覧会(1922年)を訪れたときの写真で、アーチのある建物は堀口捨己が設計した分離派建築のパビリオンだという。
安井は、こうした「芸術写真」といわれる、ソフトフォーカスで画面をぼかすといった写真の枠組みを超えて、マン・レイなどのシュールな写真まで多彩な写真を作り出した。また写真技法としても、フォトモンタージュやソラリゼーション、ハイコントラストなどを駆使している。
そして自ら「半静物」という概念を作り出し、見つけたものをそのまま写すのではなく、そこに手を加えて配列、形に創造性を持たせた。その代表的な作品として<斧と鎌>がある。斧と鎌が置かれ、そこにできた影とのコントラストがユニークなフォルムを形成している。もともとは写真に撮る気もないまま、斧と鎌の配置を置き換えているうちに気持ちが乗って、撮影に至ったという。
<斧と鎌>1931年 |
<蛾>1934年 |
3.写真の社会性
安井の写真はスナップ写真やルポルタージュといった社会性を持つ対象に迫っていく。とりわけ有名なのは、「流氓(るぼう)ユダヤ」シリーズである。これはナチス・ドイツ(当時は日本の同盟国であった)から逃れ、神戸に着いたユダヤ人々を撮ったものだ。
戦時下の写真として、<白衣勇士>は、大阪陸軍病院に入院する傷痍軍人と留守家族に対する慰問として撮影されたものだ。
「メーデー」シリーズでは、<旗>、<歌>といった集団の中の個人をアップで捉え、その眼差しが社会性を訴えているようだ。
こうした写真は、戦後の土門拳などに代表されるリアリスムの先駆けとなっている。土門拳が安井を高く評価するのも頷ける。
<流氓ユダヤ>1941年 |
<流氓ユダヤ>1941年 |
<流氓ユダヤ>1941年 |
<緑陰>1940年 |
<白衣勇士>1940年 |
メーデー<歌>1931年 |
<凝視>1930年 |
4.写真の人間性
安井は、さまざまな人々の眼差しにレンズを向け、その人間性を突き詰めている。
<猿廻しの図>は、猿や猿回しの芸人とともに、彼らを見る子供たち、その後ろにいる大人、立場が違う人たちの眼差しにレンズが向けられている。
サーカスの一団を撮した「山根曲馬団」シリーズも、団員たちの眼差しを追っている。
<顔>と題される作品は、女学生の集団の顔ばかりを撮している。不思議な光景だ。
<犬>は、大学病院に行ったときに見た医療実験用の犬だという。張り紙には「食事ヲサスナ」とある。犬の恨めしそうな眼差しは、こちらの人間性を見つめる眼差しである。
<猿廻しの図>1925年 |
<山根曲馬団>1940年 |
<道化>1940年 |
<馬と少女>1940年 |
<顔>1940年頃 |
<顔>1940年頃 |
<犬>1934年 |
5.アマチュア写真の終焉
安井の晩年の作品には、死の予感が漂う。
<雪・月・花>と題する作品のうち<花>は失われたようだ。とくにひきつけられたのは<月>、この世とは思えないような静かな空間に、死の影を予感させるような空気感がある。これを見つめていると、胸にこみあげてくるものがあった。
安井は、このころ(1940年ごろ)には、弟、妹、次男などの近親者を次々に亡くし、妻も長期の入院生活を送らざるを得ない状況にあり、自らも腎臓病による身体の異常を自覚し始めていたようだ。1942年には腎不全のため38歳の人生を閉じることになる。
この時期、戦時色が高まり、写真材料は手に入らず、撮影場所は厳しく制限される。アマチュアカメラマンとしての写真の終わりと自らの命の終わりを予感していたようだ。
<雪>1941年 |
安井は写真だけでなく、文章や俳句などにも天性の才能を備えていた。その批評精神とユーモア感覚は写真作品とともに、彼の人間性を表わしている。それがよくあらわれているのが、いろは歌留多として詠んだ次のような句である。
光芒亭主人 「写真家四十八宣 しゃしんうつすひと よんじゅうはち よろし」
い いつそスラムプは大なるがよろし
ろ ろくでもないもの感心せぬがよろし
は ハツと感じたら写すがよろし
か カメラ自慢はせぬがよろし
つ 常にカメラと離れぬがよろし
う 写るのはあたりまえと心得るがよろし
い 井の中の蛙、自惚れぬがよろし
ま まるで下手でも根気ある人よろし
せ セメテたまにはホメられてよろし
す すぐに天狗にならぬがよろし
京 きようの写真より明日の写真よろし
写真展をみて、感動したのは久しぶりでした。それほど、充実した作品が並べられていました。
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