2024年4月18日木曜日

東京異空間191:慶應義塾大学日吉キャンパス~歴史を語る建物

 


日吉図書館前にある福沢諭吉の銅像

慶應義塾大学の入学式に、卒業50年ということで招待され、日吉キャンパスに行ってきました。日吉に行くのも50年ぶりだと思います。

日吉キャンパスには、歴史を語る建物がいくつかあります。これらは戦時中は海軍に、戦後はGHQに使われていました。そうした建物を中心とした歴史を見てみました。

1.現在:歴史的な建物

(1)記念館

東急・東横線の日吉駅で降りると真直ぐにつづく銀杏並木があり、広く緩やかな坂道をあがっていくと正面に校旗を掲げた記念館が見えてくる。記念館の前は広い中庭となっていて、左右には第一校舎、第二校舎があり、ギリシア風の白い建物が並ぶ。ここで入学式が行われることから大勢の新入生と、それにまじって招待された卒業50年になるシニアたちが集まっている。

この建物は、2020年に新たに竣工した「新・日吉記念館」で、最大収容人員は1万人という。旧の記念館は、1958(昭和33)年、創立100年を記念して建てられた大講堂兼体育館であった。日吉キャンパスの戦後復興を象徴する建物だったが、建設当時は高度経済成長に向かっていくところで、資材の質はあまり良くなかったことから、老朽化が進み、2017(平成29)年に解体され、2020年に「新・日吉記念館」に建て替えられた。

銀杏並木と記念館

記念館と前の中庭

記念館

記念館

記念館

入学式

(2)第一校舎、第二校舎

記念館の左右にある白い建物が第一校舎、第二校舎である。この二つの建物は日吉キャンパスが出来た当初に建てられ、歴史的な建物となっている。

「第一校舎」(現在は慶應高校が使用)は、1934(昭和9)年に、鉄筋コンクリート4階建ての建物。「第二校舎」(現在は自然科学系の一般教養科目教室)は、鉄筋コンクリート3階建ての建物で1936(昭和11)年に完成した。

右側に第一校舎

左側に第二校舎

第一校舎

第一校舎

第一校舎

(3)陸上競技場

記念館に向かって、銀杏並木の緩やかな坂道を上がっていく途中、右手に陸上競技場が開けている。この陸上競技場は、日吉キャンパスが1934年に創設されたときに、第一校舎の建設ともに、すでに現状に近い形で、400mのトラックとスタンド(3,000人収容)で造られていた。その後、改修や補修を適宜行いながら維持されてきたが、2008年、慶應義塾創立150年を機に、記念事業の一環として大規模な改修工事が行われ、今の姿に生まれ変わった。

陸上競技場

陸上競技場

(4)日吉チャペル

第一校舎の横を歩いてキャンパスの南の端にいくと、赤い屋根の小さな建物が見えてくる。チャペルで正式な名称は慶應義塾大学キリスト教青年会館」 という。

ミッションスクールではない慶應義塾大学のキャンパス内にチャペルがあるのはなぜか。この建物は、1937(昭和12)年、慶應義塾基督教青年会のOBである里見純吉(1878-1952)を中心に募金活動により建てられ、義塾に寄贈された。建設当時から現在まで青年会の拠点として利用されている。青年会は、1898(明治31)年の創立で塾内の文化団体連盟では3番目に古い団体である。里見純吉は青年会の創立者の一人で、卒業後に大丸の社長となり、YMCAの各種役員や、多くの教育機関でも役員を務めた。慶應のようなミッション系でない大学内にこのような集会の場所を構えることは、青年会設立者たちの悲願であったのだろう。

なお、設計は、日本各地で西洋建築に携わった建築家のウィリアム・ヴォーリズである。

チャペル

チャペル

チャペル

チャペル

チャペル

(5)寄宿舎

キャンパスの南端、通称イタリア半島と呼ばれている場所に寄宿舎がある。「寄宿舎」という言葉も今となっては古めかしいが、日吉寄宿舎は1937(昭和12)年の創設で、その源流は、慶應義塾創設者の福沢諭吉が塾生と寝食をともにした塾舎までさかのぼるといわれる。

現在も、同寄宿舎では全国から集まった約30人の学生が、23人が相部屋で、食事を含め寮費は約3万円/月で共同生活をおくっているという。

なお、建物の設計はモダニズム建築で知られる谷口吉郎である。2011年に横浜市から歴史的建造物として認定されたのを機に創建当時に近い状態に復元され、館内の全面リニューアルが行われた。創建時は南・中・北と三棟建てられたが、リニューアルされたのは南棟のみである。

寄宿舎

寄宿舎

寄宿舎

2.戦前:理想的学園の建設

(1)日吉キャンパス

日吉キャンパスは、1934(昭和9)年に創設され、銀杏並木や陸上競技場、第一校舎、第二校舎など、今のキャンパスの原型がその頃、出来上がっている。当時、塾は三田キャンパスが狭隘となり、郊外に新たなキャンパスを探していた。ここ日吉が選ばれたのは、東京横浜電鉄(現・東急電鉄)が無償で土地を提供するという申し出があったことによる。この時代、私鉄沿線が郊外に延び、各社とも住宅開発や大学等の誘致に力を入れていたことから東急以外にも、小田急からは相模原、箱根土地(現西武鉄道系)からは小金井土地提供の申し出があった。そうしたなかで、最終的に日吉に決まったのはなぜなのか。日吉への誘致に重要な役割を果たしたのが、私鉄の経営モデルを作ったといわれる小林一三(阪急グループの創業者)であった。関西の私鉄事業者だった小林一三だが、東京横浜電鉄(東急の経営にも一部携わっており、また、慶應義塾の卒業生で評議員もつとめていたので、学校側が何を求めているかを知っていたことによるとされる。

(2)理想的学園

日吉に広大な土地を得て、当時の塾長・林毅陸は、「教育に最も好適の地にして、其至良の環境の中に完備せる校舎並びに寄宿舎を建築し運動設備を整え大学予科其他を之に移して理想的学園を建設する」と、そのビジョンを述べている。

すなわち、知育・体育・徳育という三育を養うため「知」:第一校舎、「体」:陸上競技場、「徳」:寄宿舎を整備し理想的学園を建設するというものであった。このビジョンをグランドデザインに落とし込んだのは三田の図書館なども手掛けた曾禰・中条建築事務所であった。そして建物の設計を任されたのは、事務所の若手建築家・網戸武夫(1905-1999)であった。彼の処女作である第一校舎の設計について、「初々しい28歳の、しかし汗と野心にたぎった、泥まみれの作品です」と自ら述べている。第一校舎は、鉄筋コンクリートの打ち放しに白色スプレーを吹付け、ギリシア風な列柱を配して、「理想的学園」の理念を具現化したものであった。1934年に竣工した。それに対になるように第二校舎が1936年に竣工している。

また、「体育」については、陸上競技場が400mの楕円形トラックと 3000人収容可能なスタンドで構成され、現状に近い形で造られていた。あわせて柔剣道場などの体育会施設1934年に完成している。

三育のうちの「徳育」の寄宿舎については、慶應義塾の起源である江戸・鉄砲洲(現在の中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内の蘭学塾で、福澤諭吉と塾生たちは寝食を共にして学んだことから始まっている。寄宿舎は学生の住居であると同時に徳育の場であることから、日吉の理想的学園を建設するうえで、新たな寄宿舎の建設が望まれた。

日吉の寄宿舎は、先に述べたように建築家・谷口吉郎の設計によるモダニズム建築で、北寮・中寮・南寮の3棟と炊事室・浴室・娯楽室を含む別棟からなる鉄筋コンクリート造であった。全寮の暖房は最新式のパネル・ヒーティングを採用し、水洗式装置のトイレが各階に備えられ、ローマ風呂とよばれた豪華な共同浴場が設けられた。寝具も家具も備わっていて、寄宿生は身の回り品、衣類、学用品を持って来ればよかった 。しかも、部屋は相部屋ではなく、個室であった。また、各寮に配置された舎監・副舎監計6名のうち必ず1名は医師を置いていた。「寄宿舎」というとバンカラをイメージするが、日吉の寄宿舎は建物がモダンであるだけでなく、部屋の利用についても当時の常識を超えたモダンな利用の仕方であった。

「知」校舎・「体」陸上競技場・「徳」寄宿舎と三育の理想的学園を掲げて建設は進められたが、この時点では、正面にあるはずの記念館(大講堂)は建てられていなかった。キャンパスの軸線の中央で、最も高い丘の上のシンボリックな場所に何も作らず、空地のままであった。しかし、グランドデザインの鳥観図には、そこに「大講堂」が描かれていた。これまで、慶應義塾の入学式、卒業式、その他大学の主な式典はすべて三田の大講堂で行われていた。三田の大講堂は1945年の東京大空襲により焼失したが、先に述べたように、日吉に記念堂が出来たのは戦後しばらく経った1958(昭和33)年、創立100年記念の時であった。

3.戦中:海軍の拠点

「理想的学園」を林毅陸塾長から引き継いだのは、小泉信三塾長(1888-1966)であった。小泉信三は、1933(昭和8)年から1946(昭和21)年まで塾長であった。この時期は第二次世界大戦の時期であり、塾の伝統である個人主義、自由主義は、軍国主義に覆われ、「理想的学園」は軍事施設へと変わっていった。

(1)軍令部・連合艦隊司令部

日吉キャンパスが開設された1934から10年ほどで理想的学園は急激に変転した。戦局が深まり、学徒出陣により学生が戦場に行き、キャンパスには学生がいなくなった。194310月に明治神宮外苑競技場で行われた雨の中の出陣学徒壮行会はよく知られているが、11月には日吉の陸上競技場でも予科の壮行会と運動会が行われた。そして、少なくなった学生に替わりに入ってきたのが軍人であった。

1944年、まずは海軍の作戦指揮を統括する軍令部が第一校舎などに入ってくる。これに続き、連合艦隊の司令部が寄宿舎を拠点とした。日吉キャンパスが海軍の拠点になったのは、 日吉は東京・霞ヶ関と横須賀軍港の中間にあるので交通の便が良い こと、また、高台にあって無線通信に好都合であること、地下壕を掘るための広い敷地があること、といった地理的、地形的条件の他、第1校舎や第2校舎といった鉄筋コンクリート製の屈強な校舎があることなどの条件が適合したことによる。

軍令部第三部が入ってきた第一校舎の白い建物は黒いコールタールで迷彩され、屋上には無線アンテナが並ぶ、その姿は学生の目には「でっかい黒い軍艦」のよう映ったという。

連合艦隊司令部は寄宿舎を拠点とした。それまで連合艦隊司令部は海軍の旗艦であった木更津沖に停泊する「大淀」に置かれていた。司令部を海上から陸上に移すにあたり、旗艦と同様に、必要な部屋を確保できる寄宿舎が選ばれた。

第一校舎、寄宿舎のほかにチャペルも、軍令部第三部の日系二世などが国際情報を翻訳し、それを理事生とよばれる若き女性がタイプを打つ場として情報活動を支える軍事施設となっていた。

(2)日吉台地下壕

地下壕は1944(昭和19)年7月に慶應大学日吉キャンパスの第1校舎付近から掘り始め、その奥地にある「マムシ谷」と呼ばれる山の中なども含め、総延長2.6kmにのぼる地下壕が設けられた。さらに、敗戦の年である1945(昭和20)年に入ると、今度はキャンパス外にある夕日山にも総延長2キロ以上にのぼる地下壕建設を始めた。工事に邪魔だとの理由から付近の家が強制的に移転させられ、また朝鮮人労働者の徴用もあったという。こうして総延長約5キロに及ぶ巨大地下壕が建設されたが、完成の翌日に敗戦を迎えた。

軍事教練で日吉第一校舎前を行進する塾生たち(慶應義塾福澤研究センター提供)

4.戦後:GHQ接収

1945815日の敗戦の玉音放送により、日吉キャンパスにある軍事施設から暗号文書など関係書類が直ちに焼却され、足元から鳥が飛び立つように軍人が去っていった。そして、キャンパスには、海軍に替わって学生ではなく、米軍が入ってきた。

194592日、東京湾に停泊していた戦艦ミズリー号において降伏文書に調印した。これによって日本は占領下に入る。米軍が日吉に最初に来たのは、降伏文書調印の二日後、そして全面接収されたのは、四日後、米軍の東京進出と同じ日であった。

第一校舎は米軍兵士の宿舎となり、寄宿舎は、独身士官の宿舎となった。

GHQにとって、日吉は教育施設ではなく軍事施設とみていた。そのため、接収令状の前に「ノー」はあり得なかった。その後の返還交渉にも長い道のりがあり、1949年になって接収解除となった。第一校舎には、新制の高等学校が入り、また1950年からは新制大学の12年生の授業が日吉で始まった。

日吉キャンパスもまた、戦争という悲劇の歴史を背負っている。

(参考):

『キャンパスの戦争』阿久澤武史 慶應義塾大学出版会 2023

『日吉台地下壕 大学と戦争』阿久澤武史 他 高文研 2023

『フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕』白井厚監修 平和文化 2006

(参照):三田キャンパスについては、次の拙ブログを参照。

東京異空間115:建築と美と歴史~慶應義塾大学三田キャンパス

東京異空間165:慶應義塾大学三田キャンパス~建築とアート


0 件のコメント:

コメントを投稿

東京異空間249:明治神宮御苑を歩く

  明治神宮 明治神宮へは参拝に訪れることはありますが、明治神宮御苑には入ったことがありませんでした。 10 月下旬に訪れました。 (参照): 東京異空間 81 :明治神宮 ( 内苑)と神宮外苑Ⅰ ( 2023.3.19 ) 東京異空間 171: 明治神宮外苑はいかにして造ら...

人気の投稿