福澤諭吉のお墓があった品川区上大崎の常光寺に行ってみました。「お墓があった」という回りくどい言い方をしましたが、いまは福澤のお墓は港区元麻布にある麻布山善福寺というお寺にあります。
何故でしょうか?福澤諭吉の墓にまつわる不思議を調べてみました。
1.葬儀と埋葬が異なる不思議
福澤諭吉は、 1901(明治34)年2月3日、脳溢血のため東京で亡くなった、享年満66歳。
亡くなった日の5日後となる2月8日、 葬儀当日に柩が三田から福澤家の菩提寺でもある善福寺に向かい葬儀が執り行われた。慶應義塾の塾生を始め1万5000人もの会葬者が葬列に加わったそうだ。
しかし、葬儀が終わると柩は直ちに上大崎に向かい、白金大崎村(現在の品川区上大崎)にある本願寺に運ばれ、本願寺が管理する廃寺(正福寺)の墓地に埋葬された。この正福寺と合併したのが現在の「正福山常光寺」である。
葬儀と墓地が別のお寺、というのは、当時でもかなり珍しい不思議なこと。江戸時代に檀家制度(寺請制度)があり、檀那寺である善福寺に埋葬されるのが普通であっただろう。
2.埋葬された不思議
では、どうして常光寺に埋葬されたのだろうか。それは、諭吉が生前にその墓地を手に入れていたからだ。ここを選んだのは、高台にあり、周辺の眺望が良かったことから気に入ったとも、慶應幼稚舎を創立した諭吉の門下生*和田義郎の墓があったからとも言われる。
また、諭吉は土葬を希望していて、善福寺は土葬禁止の地区で、大崎は土葬が可能だったというのも墓所の選定理由だったという。
しかし、この辺りに多くの寺があるが、常光寺を含め、これらは増上寺の末寺であり、浄土宗のお寺である。いっぽう、菩提寺である善福寺は浄土真宗である。宗派にこだわらず墓地を選んだというのも不思議なことだ。
*和田義郎(1840-1892)
慶應義塾に学び、福澤の勧めにより、1874年に三田の自宅で年少の塾生を預かり 「和田塾」を開き、夫婦で教育を行った 。のちに「幼稚舎」と改称し、亡くなるまで舎長を務めた。
常光寺の入り口付近に福澤が自ら記した 和田の墓誌があり、その末尾は「親友福澤諭吉、涙を揮(ふるい)て之を記す」と結ばれている。
3.改葬された不思議
常光寺近辺は、増上寺の末寺が移転した浄土宗の9つの寺が集まる寺町になっている。諭吉が埋葬された常光寺は、本堂の建て替えに際して、墓の所有者は浄土宗信徒であることを条件としてしまったため、浄土真宗の福澤家は常光寺にお墓を持てなくなってしまった。その結果、福澤家は昭和52年(1977年)、墓を善福寺に移転し改葬することを決める。
なお、改葬にあたっては、1948(昭和23)年に制定された墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)に定められており、市区町村長の許可なく遺骨を墓地外に持ち出すことはできないことになっている。改葬ではなく、あるいは、浄土真宗から浄土宗へ宗旨替えという選択肢もありえただろう。いずれにしても、なぜ常光寺に墓を求めたのか、諭吉の選択に不思議は戻ることになる。
現在、善福寺には諭吉の墓があり、毎年2月3日の諭吉の命日「雪池忌(ゆきちき)」には、慶應の塾生やOBなど、相当な数の人が墓参りに訪れるという。いっぽう、常光寺の埋葬地跡には、慶應義塾の手により、建築家・谷口吉郎の設計による「福澤諭吉先生永眠之地記念碑」が建てられている。
4.屍蝋化された不思議
改葬することになり、諭吉が眠る墓の掘り返し作業が数日間かけて実施された。まず2m掘ったところで、「福沢諭吉先生永眠之地」との銘が刻まれた石が出てきた。さらに地下3mの地点で、錦(きん)夫人の遺骨が出てきた。そして、地下4mの地点で諭吉の棺が見えた。棺を開け、関係者が中を覗き込むと、中は冷たい伏流水で満たされ、着物を着た諭吉が寝ていた。白骨化することなく、ついこの前に亡くなったかのような姿だったという。遺体はミイラというより、屍蝋(しろう)化していた。
土葬であったこと、また高台にあり、水温の低い地下水に浸っていたことから、不思議なことに遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘された。この諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったが、 遺族の強い希望で荼毘にふされ、善福寺に埋葬された。
〇福澤諭吉先生永眠之地記念碑
〇和田義郎の墓碑
〇常光寺
常光寺の福澤諭吉の永眠地を訪ね、いろいろな不思議をみてきましたが、まだ善福寺には参ったことはありません。機会がありましたら、訪れたいと思います。できれば「雪池忌」にでも。
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