《花を摘む少女》部分 |
三鷹市美術ギャラリー入口 |
三鷹市美術ギャラリーで開催されている美術展「少女たち」を観てきました。展示作品は星野画廊のコレクションで構成されています。星野画廊は、京都東山岡崎にある老舗画廊で、星野夫妻が50年にわたり、描いた画家の名前にとらわれず、不遇に埋もれていた優品を数多く発掘してきたことから、展示作品の中にも作者不詳やあまり知られていない画家の作品も多く展示されていました。その中から、特に印象に残った画家について、その作品と関連する人々についても取り上げてみました。
1.笠木治郎吉(1862ー1921)
その画家とは笠木治郎吉という。笠木治郎吉は、加賀の生まれで横浜に出てきたといわれるが詳細はよくわかっていないようだ。明治から大正にかけての横浜で、日本人の風俗を描いた水彩画家である。水彩画といっても、水彩を日本画で用いる膠で溶くことによって油絵を思わせる濃厚な彩色と、細部まで描きこまれた緻密な作品を残している。しかしながらその作品の多くは、横浜を発つ外国人に土産として買われたこと、また作品の下絵などが関東大震災で焼失したことにより、作品が国内に残っていなかった。近年、これらの作品がコレクターなどにより海外から買い戻されてきたことにより、笠木のことも次第に知られるようになった。
まず展示されている作品を観てみる。《下校の子供たち》小学校から下校する少女、肩からそとばんと帳面(「明治丗二年 清書双紙」と書かれている)を下げている。門には村立尋常小と書かれている。女の子が男の子と一緒にこれから勉強できる、まさに「読み・書き・そろばん」を頑張るという意欲を持った表情が窺える。描かれたのは明治30~40年代とされる。その時代の風俗を水彩により油絵のように緻密に描いている。
他にも《花を摘む少女》《蓮池の少女》《筏師の娘》《網を繕う漁師の娘》といった作品が並ぶ。これらは明治のリアルな暮らしを描いているように見えるが、おそらくそれぞれモデルにポーズをとらせて描いているのだろう。《花を摘む少女》などの作品のモデルには治郎吉の妻・ヨシの面影が窺えるという。
こうした絵は、外国人向けのお土産絵(「横浜絵」とも)といわれ、ほとんど海外にいっていた。またこれを扱っていた美術商のサムライ商会は、関東大震災によりその資料等を焼失してしまったことから、忘れさられた絵となり、<J.Kasagi> というサインのみで、画家も忘れられていた。2000年代に入り、コレクターが海外からこれらの絵を購入し里帰りするなど、画家のことも次第にわかってきた。<J.Kasagi>は笠木治郎吉、金沢で生まれ、青年期に単身横浜に移り住み、月岡芳年門下の山村祥柳に師事した。祥柳が五姓田義松に師事していたことから洋風表現を身につけたとされる。1890年には洋画家・矢田一嘯 *の弟子として日本パノラマ館の作品購入のため渡米したという。1905年には、20歳以上年下の平野ヨシと再婚し、ヨシをモデルとした絵を描いたと伝えられる。
*矢田 一嘯(やだ いっしょう、1859-1913)は明治時代に活躍した洋画家。元寇などを題材としたパノラマ画を多く残した。
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《花を摘む少女》笠木治郎吉 |
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笠木治郎吉 |
2.コレクション
埋もれていた笠木治郎吉の作品を掘り出したのは、高野光正というコレクターである。高野氏は明治の絵画のコレクターであり、欧米に散逸する明治の絵画を数人のエージェントを通じて収集してきたが、J.Kasagiのサインのついた水彩画に目を奪われた。そして、Kasagiという姓を頼りにしらみつぶしに電話をかけたという。そこで出会ったのが横須賀で画廊をしていた「かさぎ画廊」の笠木和子さんであった。和子さんの夫の父が治郎吉であり、そこから治郎吉の情報が次第にわかってきた。
また、もう一人のコレクターが今回の展覧会「少女たち」の作品を所蔵する星野画廊である。星野画廊も埋もれた画家、作品の発見を手がけてきた画廊である。そのコレクションの素晴らしさは、今回の展覧会でもわかるが、さらに『星野画廊50年史』、『石を磨く』に語られている。
高野光正、かさぎ画廊、星野画廊のコレクションによって、笠木治郎吉の作品30点余りが里帰りした。
2003年(9/6-10/19)府中市美術館ほか巡回展示された『もうひとつの明治美術』に笠木治郎吉の《提灯やの店先》《帰農》《菊畑》の3点が初めて一般に公開された。その後も、府中市美術館は『おかえり美しき明治』(2019/9/14-12/1)、『ただいま やさしき明治」(2022/5/21-7/10)において笠木治郎吉の作品を展示している。
3.サムライ商会
明治の横浜において外国人向けに笠木の絵などを外国人向けに販売していたのが、明治27年(1894)開業の古美術店「サムライ商会」である。開いたのは美術骨董商の野村洋三(1870-1965)。彼はアメリカやヨーロッパを訪問した際、現地の美術館や博物館を巡るうちに商売を思い立ち、サムライ商会を開業した。 アメリカでは、ボストン美術館のフェノロサなどと交わり、また渡米の帰路には船中で出会った新渡戸稲造の影響を受け、武士道の精神を世界に広める商売ということから「サムライ商会」の名を付けたと言われている。
しかし、関東大震災でサムライ商会は消失した。野村は、震災後の横浜の復興に尽力する。一緒に協力したのが原三渓(富太郎)である。原と野村は同じ岐阜の出身、歳の差も2歳ということからお互い事業にも協力し合った。震災がれきを埋め立てた山下公園の造成やホテルニューグランドの建設など、今の横浜のランドマークはこの時に造られた。野村はニューグランドホテルの会長になり、戦後、マッカーサーをこのホテルに滞在させた。
なお、最初の「グランドホテル」は明治3年に外国人の手により本格的な洋式ホテルとして誕生したが、やはり関東大震災で崩壊してしまった。その後、新たに建設されたのが今の「ニューグランドホテル」である。
一方。原三渓(富太郎)は、製糸業などの実業家として、そして25歳の時から集め始めたという美術品コレクターとして、また当時の画家、前田青邨、小林古径などのパトロンでもあった。コレクションの中では、井上馨から購入したという平安時代の仏画《孔雀明王像》(現・国宝)知られている。また横浜・本牧に三渓園を開園し、三重塔など古建築を移築し、庭園と調和させ市民に公開した。三井財閥の益田鈍翁などとともに数寄者としてもよく知られている。また、関東大震災後の際には復興会会長を敢えて引き受け、私財も注いで復興に努めている。
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サムライ商会 |
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野村洋三 |
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原三渓(富太郎) |
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《孔雀明王像》 |
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三渓園(2019/8/26撮影) |
4.来日した美術家たち
日本の近代美術史において、幕末から維新にかけ来日した美術家の影響により日本の洋画が始まった。笠木治郎吉もその影響を受けている。
まずはチャールズ・ワーグマン(英:1832-1891)滞在1861~1891である。彼は幕末期に記者として来日し、日本のさまざまな事件や風俗を描いた。初代英国駐日公使ラザフォード・オールコック に同行し、長崎から江戸への記録に挿絵を担当している。また、イギリス公使館があった高輪・東禅寺に水戸藩の浪士が襲撃した「東禅寺事件(1861年)」にも遭遇し、そのスケッチを残している。
日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を1862年に創刊、約22年間刊行した。1865年に五姓田義松、1866年に高橋由一、1874年には小林清親等を指導し、初期洋画に影響を与えた。ワーグマンは日本人女性と結婚し、亡くなるまで30年間を日本に滞在した。
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チャールズ・ワーグマン |
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「東禅寺事件のスケッチ」F・ベアト |
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「西洋紳士スケッチの図」チャールズ・ワーグマン 油彩・1870年頃作 |
この時期、西洋から入ってきた絵画とともに写真が大きな影響を与えた。ワーグマンを頼って中国経由で日本に来た写真家がフェリックス(フリーチェ)・ベアト(1832-1909)滞在1863~1884 である。当時イギリス領であったコルフ島(現・ギリシア)で生まれ、コンスタンティノーブル(現。・イスタンブール)で育ち、イギリス国籍を持つ。22歳でクリミア戦争の戦場カメラマンとしてスタートし、インド独立戦争のインド、アヘン戦争の中国などを撮影している。
ベアトは1863年頃、ワーグマンを頼って横浜に上陸する。1861年からそこに住んでいたチョールズ・ワーグマンとともに「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、1864年から1867年まで共同経営した。ワーグマンはここでもベアトの写真を基に挿絵を描いている。一方、ベアトはワーグマンのスケッチや作品を撮影している。
ベアトの撮った日本の風景、風俗などは、「横浜写真」といわれ、手彩色されたカラー写真が外国人の土産として人気となった。とくに「愛宕山から見た江戸のパノラマ写真」は維新期の江戸の姿を映したものとして歴史的にも貴重である。また、戦場カメラマンとして長州藩と列強四国の戦いである「下関戦争(1863年)」の写真も撮っている
日本の風俗や庶民などの人物写真も多く撮っているが、これらはスタジオを使って演出を施しているとみられる。外国人向けに演出した写真といえる。先に見たように笠木の水彩画も外国人の好みに合わせるかのように演出されたポーズである。いわゆる「横浜絵」と「横浜写真」は外国人向けの商品として共通した表現を持っている。
チャールズ・ワーグマンによって近代日本美術史の幕が開き、ベアトのあとに下田出身の下岡蓮杖らが続くことにより、日本写真史の幕が開いた。その後の西洋画の展開については、日本最初の美術学校である工部大学校が1876年に開校した。そこで洋画を指導したお雇い外国人がアントニオ・フォンタネージ(伊、1818-1882))である。浅井忠、五姓田義松、小山正太郎などを指導した。また女性画家としてニコライ堂のイコンを描いた山下りんも在学していた。しかし、工部大学校は、1883年にわずか7年で廃校となり、フォンタネージは1878年にすでに帰国していた。
フォンタネージの帰国と入れ替わるように、同じ年にアーネスト・フェノロサが来日、日本美術の再評価を行い、国粋主義により西洋画排斥運動が広がる。1889年、岡倉天心が校長として東京美術学校が開校したが西洋画科は設置されなかった(1896年に設置)。
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フェリックス(フリーチェ)・ベアト |
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「愛宕山から見た江戸のパノラマ写真」 F・ベアト |
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「下関戦争(1863年)」F・ベアト |
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「ハウスメイド」F・ベアト |
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「私たちの散歩」F・ベアト |
(参考):
『星野画廊50年史』星野桂三・万美子 青幻舎 2023年
『石を磨く』星野桂三 産経新聞社 2004年
『レンズが撮らえたF・ベアトの幕末』小沢健志 監修 山川出版 2012年
『幕末日本の風景と人びとーフェリックス・ベアト写真集』横浜開港資料館編 明石書店1987年
『神奈川の記憶』渡辺延志 有隣新書 2018年
「孤高の高野光正コレクションが語る ただいま やさしき明治」 府中市美術館(2022/5/21-7/10)
「おかえり美しき明治」府中市美術館(2019/9/14-12/1) 図録
(ブログ内参照):
GO TO YOKOHAMA 2:ニューグランド(2020/10/16)
伊豆の旅Ⅷ:幕末・明治の二人の写真師(2020/11/18)
思い出のアルバム9~塔2・関東編(三渓園)(2022/8/7)
東京異空間33:二つの禅寺~泉岳寺・東禅寺(2021/1/16)
「少女たち」という展覧会で惹きつけられた《下校の子供たち》、それを描いた笠木治郎吉という画家に関心を持ち、それに関連する人物等についても興味が広がり、色々調べてみました。
明治期の横浜では外国人向けの横浜絵、横浜写真が売られ、それらは日本における洋画、そして写真の歴史の始まりでもありました。
展覧会の作品の中には、こうして埋もれた作品、画家が多くありました。サインのみで画家については不詳という作品もありました。こうしたこれまでの日本美術史からは外れてしまった画家、作品に興味を持つことができる展覧会でした。
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