2025年12月29日月曜日

東京異空間379:北澤楽天と近代日本@慶應義塾史展示館

 

北澤楽天と近代日本@慶應義塾史展示館

慶應義塾史展示館(慶應義塾図書館旧館)で開かれていた「北澤楽天と近代日本」を観て来ました(すでに会期は1213日で終了)。北澤楽天は、*岡本一平とともに日本近代漫画の祖(あるいは父)といわれています。その北澤と慶應義塾とはどのような関係があるのでしょうか。その疑問は最初に展示されていた次の絵を観ると、すぐに氷解しました。

*岡本一平(1886 - 1948)年

一平の妻は、小説家で歌人の岡本かの子、息子芸術家の岡本太郎である。『一平全集』は昭和4年から5年にかけ、全15巻が刊行され、5万セットの予約を受けるほどの大ベストセラーとなった。

「時事新報社編輯局の印象」 昭和61931

大きく描かれている福澤諭吉、その存在感の大きさを表している。左背後に「時事新報」社長の福澤捨次郎。左手前でペンを走らせているのが絵画部の北澤楽天。



楽天は、福沢諭吉より、「絵をもって世の中を動かすには、漫画の外にはない。君は漫画をもって生涯の仕事としたまえ」と激励されたという。

1.北澤楽天(1876-1955)の略歴

北澤楽天


明治91876)年、楽天(本名・保次)は神田駿河台に生まれる。北澤家は代々、埼玉の大宮宿で問屋名主などを務めた名家である。

明治251892)年16歳、画塾「大幸館」で堀江正章より洋画を学ぶ。

明治281895)年19歳、横浜のボックス・オブ・キュリオス社に絵画記者として入社。紙面に漫画を描き始める。このころフランク・A・ナンキベルに西洋漫画を学ぶ。

明治321899)年23歳、福沢諭吉が創設した新聞社「時事新報社」に絵画部員として入社し、漫画を描き始める。前任は今泉一瓢であった。入社を進めたのは諭吉の次男である捨次郎であった。

明治351902)年26歳、新聞『時事新報』に「時事漫画」欄が登場。

明治361903)年27、「楽天」を名乗る。この頃、藤村操の華厳滝での投身自殺が話題になるなど、若者を中心に厭世観が漂っていた。これに対し、保次が紙上で逆説的な人生観である楽天主義を描いたところ、「楽天」の印を作ってくれた人があって、「北沢楽天」と名乗るようになったという。

明治381905)年29歳、有楽社から日本で最初の4色カラー漫画雑誌『東京パック』創刊。 誌名はナンキベルが編集長をしていたアメリカの漫画雑誌『Puck 』にちなむ。

『東京パック』創刊号の表紙(1905年)(ウィキペディアより)

『Puck』表紙(1901年4月6日)(ウィキペディアより)


明治451912)年36歳、有楽社を離れ、『楽天パック』『家庭パック』を自ら創刊。しかし、 この雑誌はわずか13ヶ月で廃刊。

大正101921)年45歳、『時事漫画』に掲載された漫画が、時事新報日曜版付録『時事漫画』として紙面から独立し、楽天は主筆を務めた。

昭和41929)年53歳、欧米の旅に出発(翌年、帰国)。パリで、実業家・薩摩治郎八(バロン薩摩)、画家・藤田嗣治、長谷川春子(戦時中は女流美術家奉公隊委員長)などと交流。藤田のアトリエで行われるエッチング教室や、アカデミーの研究所に通ってクロッキーを学んでいる。また、パリにおける画家の登竜門といわれるで美術展「サロン・ドートンヌ」に入選する。フランス政府からレジオンドヌール勲章を贈られる。

昭和81933)年56歳、 時事新報社を退社。自宅(芝白金三光町)に「楽天漫画スタジオ」開設し、後進の育成に努める。 弟子には、下川凹天、のほか、稲天、抜天、青天、南天、晴天など「天」の字を使うことを許した。そこから「天は人の上に人を造らず・・・」という福澤諭吉の有名な言葉をもじって、「楽天は、天の下に天を造るといへり」といわれた。

昭和171942)年66歳、戦時統制化で「日本漫画奉公会」結成、会長に就任。

昭和231948)年72歳、大宮市盆栽町に「楽天居」を構える。 この邸宅跡地に、漫画を文化として育てていくことを目的として、昭和411966)年に日本初の漫画に関する美術館「さいたま市立漫画会館」が設立。

昭和301955)年79歳、脳溢血のため逝去。

2.北澤楽天の作品

「貴族と遺族」 大正131924

「解散のない貴族院に跋扈する議員の多くは先祖が鑓先で功名をしたおかげで貴族だ。

俺の親は国家の為に名誉の戦死をしたおかげで哀れな遺族だ。

功名を比較すりや貴族は「辶」をかけたものだが・・・」

「貴族」と「遺族」は「辶」のあるなしの違いで皮肉る。また、剣には「特ケン」とある。




楽天全集(昭和56年刊)

12巻を予定していたが、刊行されたのは7冊、第1235679巻の計7冊(48巻は未刊)







「この閻魔さまは時々正直者の舌まで抜くので困る」大正141924



「明治戊辰と昭和戊辰の対照」昭和31928

明治戊辰には男がチョン髷を切り、MOB(乱民)を征伐した。昭和戊辰には女が神を切り、BOB(断髪・ショートヘア)を征伐せよ




「官尊民卑」昭和31928

住宅難、生活難に啼いて居る中に官庁や官邸(官舎)は無暗に立派になるのは官尊民卑の根性がいまだに盛んな証拠である。




「福澤先生、若き日本に西洋文明を教ふ」昭和21927

漫画家による自筆漫画集「肉筆漫画開国六十年史図会」の企画のために描いた福沢諭吉。若侍として擬人化された「若き日本」に文明を説く福澤センセイ。



「やまとひめとブリタニヤ」明治351902

イギリス国王戴冠式にあわせて時事新報読者に配布された寓意画。イギリスを表わす「ブリタニヤ」と日本を表わす「やまとひめ」が並びたち、日英同盟を表現。



「民業を取って食ふ」 明治391908

当時は第一次西園寺公望内閣、角の生えた黄金の西園寺が民業(商人)を食っている。塩や煙草の専売、鉄道国有化など、民業を奪う姿勢を痛烈に揶揄。




「日本のベスピア山」 明治391908

噴煙をあげる火山に見立てられた山縣有朋の横顔。政界に強大な影響力を持つ山縣のご機嫌を気にする首相の西園寺が手前で震えている。西園寺の横の男の背中には「政友會」の文字。イタリアのベスピアス山が噴火したことをモチーフとしている。

「この山がたがもし爆発したら大変と ブルブル震えている人あり」




「北里博士ペスト予防の為満州地方に向ふ」明治441911

満州でのペスト流行を視察する北里柴三郎を、ネズミ(ペスト菌を媒介)を追うネコとして描く。




「浅野山の噴烟」明治441911

「深川の浅野セメントの煙突から噴き出す灰で深川区は勿論、日本橋区まで被害が甚だしいので市民挙ってこの浅野山を掘崩しにかかって居るが、浅間山の噴火口を鎮める程の難事でもあるまいから一致して大いにやるべしぢや」と、住民の一致団結を呼びかけて、ついに会社は工場の撤去を約束したという。漫画の力を示した一枚。



「後藤新平子 取り組ませ そして高見で見物し」 大正121923

東京市長を退いた後藤新平が大都市計画(牛)を長田秀次郎市長(相撲をとる)に引き継ぎ、ソ連との国交回復交渉を川上俊彦(ボクシングをする)に託して眺めている。後藤は、この直後の震災発生で山本権兵衛内閣の内務退陣兼帝都復興院総裁に就任する。



「恐るべき明治の傾政傾国」明治391906

元老として政界に、また三井との深い関係から実業界にも大きな影響力を持った井上馨を「傾城」の芸者に見立てる。




「六閥絵葉書」明治391906

正月の家庭の団欒のために配布された附録。家内で誰が最大の権力者かで「細君閥」「亭主閥」「令嬢閥」「姑閥」を描く。(元は6枚セットで、他は「老人閥」「坊ちゃん閥」)

当時の藩閥である4藩(薩長土肥)に2藩(水戸、肥後)を加えた「六閥」を揶揄。



『家庭パック』創刊号 表紙 明治451912

楽天が刊行した雑誌の一つ。従来の婦人雑誌が「家庭団欒の読物としての要素」を欠いているのを補い、日本人の子孫が「もっと愉快な話し上手な国民になる」ことを理想に謳う。



「新体詩神の春の姿」明治391906

西洋を範とした新体詩が若者に流行を見たころ。ギリシア神話の芸術の女神ムーサの周りを舞うキューピッドは日本の学生風角帽と日本髪姿に。楽天の多彩な画力とユーモアを併せ持つ作品。




「現代婦人思想」大正101921

日本初の別刷りの日曜版新聞である時事新報日曜附録『時事漫画』第一号の表紙。女性の社会的地位改善の諸項目(生活改善、産児制限、婦人参政権、自由恋愛など)を描く。



「細君は流々」昭和6(1931

子どもを何でも大人並みに扱う母、押し込める母、増長させる母。「細工は流々」をもじったタイトル。『家庭パック』1巻10号(191211月)掲載作品を改作。



「弱肉強食」昭和61931

食物連鎖。バイ菌→ハエ→クモ→カエル→ヘビ→キジ→漁師→(猟師を食う)芸者→(娘を芸者にして食う)因業オヤジ→オヤジを食い殺すバイ菌(虎=コレラ)で一巡する。



「日曜日はお母さんの安息日ではないさうぢゃ」昭和61931

日曜日も休まる時間のない母。



「政海の産物」明治391906

政治の海「政海」に漂う生物たち。伊藤オットセイ(伊藤博文)、松方クジラ(松方正義)、井上ワニ(井上馨)、山縣タコ(山縣有朋)大隈マンボー(大隈重信)西園寺タイ(西園寺公望)、桂カレイ(桂太郎)、原サメ(原敬)、山本ウミヘビ(山本権兵衛)、クラゲの政友会が漂うなど、14人政治家と政党などを魚介類にたとえて描いた。

その鋭い人物評をいくつか挙げておく。

「膃肭臍(オットセイ)」伊藤博文:「この獣は水陸両性なり。海産物中最も重要高価のものにして、遠く欧米に、、或いは朝鮮に、都合次第に適所に走り、隠現出没自在なり。其の性すこぶる牝を愛す」

伊藤の権力者で女好き、性豪であったことを膃肭臍(オットセイ)に喩える。

「蛸」山縣有朋:「其の性ヌラクラにして捕捉しがたし。八方に手を広げて、子分を取り込み、味方を吸いをつける力もっとも強し」

山縣は長州出身の陸軍閥のリーダーで、自身の息のかかった人材を送り込み、強固な「山縣閥」 を築いた。

「マンボー」大隈重信:「この魚は身体の全部頭脳にして、口は最も達者なれども、原も腰も足もなし」

大隈は頭が良くても、腹が据わっていない。

「鯨」松方正義:「身体はなはだ大なれども魯鈍なり」

松方は薩摩閥で二度も総理になるが、二度とも閣内分裂で政権を維持できなかった。派閥を結束させる人望がなかった。

「海蛇」山本権兵衛:「前途の発達を知るべからず もし手足生せば龍と化するなきを保せず」

山本は海軍大臣などを務め、勇猛な性格で日清・日露戦争での勝利に貢献するも、のちシーメンス事件などにより内閣総辞職となる。



「日本政界一切の大本尊」明治40(1907)

どの党も山縣有朋(不動明王)に近づこうとする。





「昭和の聖代にまだこんな人身売買が」昭和61931

昭和の時代になっても、両親に娼婦として売られる娘の悲哀を描く。




『時事新報漫画と読物』表紙

デパートの特売場で淑女の仮面を脱ぎ捨てて、商品を奪い合う女性たち。




外遊中のクロッキー 昭和4.5(1929.30)

楽天がフランス滞在中にアカデミーの研究所に通って描いたクロッキー。





「一ぷくいかが」昭和61931)図・左側

「婦人用煙草を政府がこしらへる世の中よ、のまないのは女の恥だわ」この頃政府専売だった煙草の銘側が整理され、翌年、婦人用煙草「麗」(うらら)を発売。しかし物議を醸し、すぐに廃止された。

「ミス、ニッポン『私だっていまに太平洋横断をやってみせるわ』」昭和61931図・右側

『週刊朝日』500号記念で選ばれたミス・ニッポン俵恒子。この頃、青森県三沢市淋代海岸を起点に太平洋横断無着陸飛行の朝鮮が行われており、米幸神飛行士2名搭乗のミス・ビードル号が成功する。



「鬼を追う鍾馗」

楽天は鍾馗と鬼をよく描いた。邪気を払う縁起の良い図柄として人にも与えていたのだろう。





「日曜日のパパ」

生涯変わらなかった夫婦や親子の日常に向ける温かで穏やかなまなざし。毛糸巻きに使われる夫が、子どもに遊ばれている。




晩年の作品は、屏風や軸など日本画、水墨画が主で、見る人が喜ぶ絵を描きたいと話していたという。

展示会場:絵の道具や作品


3.今泉一瓢1865-1904

北澤楽天は明治321899)年23歳のとき、福沢諭吉が創設した新聞社「時事新報社」に入社し、今泉一瓢に代わって絵画部を担当した。

今泉秀太郎(一瓢)は福澤諭吉の甥(妻の姉の子)。慶応義塾卒業後、渡米を経て明治23年に時事新報社に入社。福澤の意向を受け誌面への絵の導入を担当。翌年「漫画」の語を初めて使用。結核で早世。



(1)「漫画」という言葉

言葉としての「漫画」は、江戸時代から存在 した。葛飾北斎の『北斎漫画』はよく知られている。江戸期の「漫画」は、漫然と、気の向くままに描いた絵(スケッチ)という意味で使われた。

文明開化期には、 『ジャパン・パンチ』(1862創刊)のチャールズ・ワーグマンや、『トバエ』(1887年創刊)のジョルジュ・ビゴーによる風刺漫画がある。それに影響を受けた日本人向けの風刺漫画雑誌が多数創刊された。中でも『團團珍聞』(1877年創刊)は特に人気を博し、チャールズ・ワーグマンに絵を習った小林清親や「絵新聞日本地」(1874年創刊)で挿絵を担当した河鍋暁斎などが諷刺画を描いた。これらの画は、ポンチ絵、ザレ絵といわれた。

近代的な「漫画」という意味で、西洋の風刺画「Cartoon」や英語の「Comic」の翻訳語として「漫画」を作り出したのは、1890年代に『時事新報』で、自らの風刺画を「漫画」と称して掲載した、 今泉一瓢と北澤楽天といわれる。

(2)今泉一瓢の作品

「北京夢枕」明治171884

緊迫する東アジア情勢を諷刺。アヘンを吸って寝ている清国の足元からフランス兵が忍び寄る。文章は福澤作で、独、露、英、米の克明を織り込む。アヘンの煙はホラ貝。背後の書籍は儒教の漢籍。

福澤諭吉は一瓢(秀太郎)に絵画の才能があることを見抜き、明治171884)年、秀太郎に命じて錦絵『北京夢枕』を描かせた。



時事新報漫言「殖ても損だ」

時事新報の漫言に添えられた、一瓢作と思われる挿絵。 右側の文は福澤自筆原稿。



『一瓢漫画集』初編

この本が現代的意味での「漫画」という言葉を最初に使用したといわれる。



(3)福澤捨次郎と時事新報

福澤捨次郎(1865-1926

福澤諭吉は三大事業として、①慶応義塾(教育事業)、②時事新報(新聞事業)③交詢社(社交・知識交換事業)を立ち上げた。そのうち、時事新報は、明治151882)年に創刊されたが、諭吉が明治341901)年に死去したことに伴い、次男の捨次郎に継がれた。

捨次郎は、福澤諭吉の次男。諭吉の後、明治29(1896)年に時事新報社へ社長(初代社長は諭吉の甥・中上川彦次郎)として入り、 「日本一の時事新報」というキャッチフレーズのもと、「時事新報」の全盛期を築いた。

北澤楽天を時事新報社への入社を進めたのは捨次郎であった。



なお、時事新報は、戦前、*東京五大新聞の一つに数えられたが、1936年に休刊。戦後復刊後、1955年に産業経済新聞と合同し、『産経時事』となり、最終的に1958年で『産経新聞』に吸収され、2025年には法人も解散、商標権が産経新聞社に譲渡された。

*東京五大新聞

東京日日新聞(現・毎日新聞)、報知新聞(現・スポーツ報知)、国民新聞(現・東京新聞)、東京朝日新聞(現・朝日新聞)

(参考):

『北沢楽天 日本で初めての漫画家』北沢楽天顕彰会 編 さきたま出版会 2019

『北澤楽天と岡本一平 日本漫画の二人の祖』竹内一郎 集英社新書 2020年

「時事新報」明治222月の紙面(ウィキペディアより)


北澤楽天の漫画は、のちの手塚治虫にも大きな影響を与えたといいます。「漫画の神様」と呼ばれる、手塚は鉄腕アトムなど、漫画にストーリーを取り入れ、そこに登場する人物にいろいろなキャラクターを登場させていますが、これらは北澤と岡本一平の漫画からの影響を受けているとされます。

手塚は子供のころから、自宅の書棚にあった『楽天全集』『一平全集』に親しんでおり、「昭和の漫画史といわば、一番初めに語らなければならないのは、やはり北沢楽天と岡本一平なのです」と述べています。いまや日本のマンガ、アニメは世界的な人気を持っていますが、その立役者の一人が手塚治虫です。

北澤楽天と慶応義塾との関係から、日本の近代漫画史の一端を知ることができました。


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