2025年12月31日水曜日

 


北澤楽天の展示がされていた慶應義塾史展示館(慶應義塾図書館旧館)の写真も撮ってきました。慶應義塾三田キャンパスの建物については、2年前に見て回り、この旧図書館についても取り上げています。

(参照):

東京異空間115:建築と美と歴史~慶應義塾大学三田キャンパス2023/5/19

東京異空間165:慶應義塾大学三田キャンパス~建築とアート2023/12/17

1.展示館(旧図書館)の内部

旧図書館は、曾禰達蔵・中條精一郎の設計によるゴシック様式の建物で、明治45年(1912)、慶應義塾創立50年記念の寄付金によって建てられた。しかし、建物は、大正12年(1923)の関東大震災で大きく損傷し、八角塔は一度解体された。また、昭和20年(1945の米軍による東京空襲では、本館部分(大閲覧室や事務室、ステンドグラスなど書庫以外の部分)を全焼、書籍にも被害が出た。そのたびに修復を重ねて建物は守られ、平成2830年(201619)にかけて免震化工事を実施し、あわせて外装も修復された。

玄関ホール奥の緑色大理石の三連アーチをくぐると、階段があり、踊り場に大きなステンドグラスが飾られている。2階は、福澤諭吉記念慶應義塾史展示館となっており、2021年(令和3)に開館した。常設展示室では福澤諭吉の生涯や慶應義塾史に関する各種資料が公開されており、企画展示室での特別展も年に数回開催されている。 北澤楽天展は、こちらで開催されていた。





(1)ステンドグラス

2階に上る階段踊り場にあるステンドグラスは、和田英作の原画により*小川三知が制作したものであったが、戦災で焼失した。その後、小川門下の大竹龍蔵がステンドグラスの復元を申し入れ、和田英作の原画をもとに制作し、1974(昭和49)年に完成した。

図の右側に描かれているのは西洋文明の象徴としての女神。光あふれる門から現れ、右手に慶應義塾のシンボルである「ペンマーク」を高く掲げる。

左側に描かれているのは、封建的な旧体制(武断政治)を象徴している武将。甲冑を身にまとった武将が白馬から降り、ひざまずいて女神を迎える姿は、古い軍事社会から新しい知的な文明社会への移行を表している。

下部中央にはラテン語で「Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)」の文字があり、その左右には、MDCCCLVIII (1858):福澤諭吉が蘭学塾を開いた慶應義塾の創立年と、MCMVII (1907):創立50周年。この図書館旧館がその記念事業として建設された年がローマ数字で記されている。

*小川三知(1867-1928

小川は、東京美術学校で日本画を学んだ後に海外で修行を積んでステンドグラスの技術を習得し、日本で最初にステンドグラスを普及させた。

左:MDCCCLVIII (1858) 中央:Calamvs Gladio Fortior」 右:MCMVII (1907)



(左)武将vs.女神(右)

Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)


(2)大理石の柱

玄関ホールを入ると、階段の手前に重厚な緑色大理石の三連アーチが立つ。






(3)彫刻

「手古奈」 北村北海 1909

大理石の柱の横に「手古奈」という彫刻が置かれている。作者の北村北海(1871-1927)は、日本における大理石彫刻の先駆者とされる。「手古奈」とは「真間(現・市川市真間)のてこな」で、自らに求婚する男たちが争うのを悲しみ入水したという伝えられ、万葉集の歌人たちに謳われた女性である。

この彫刻は、明治45(1912)年に竣工した図書館玄関ホールに設置された。しかし、 1945年の東京大空襲によって被災し、戦後まもなくより図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。 その後、約60年ぶりに修復され、2009年に完成、公開された。修復にあたっては、本作品が経てきた歴史的痕跡を留める方針とし、欠損部分は補填せず、戦禍による痕跡についても残すこととなり、とれてしまった手などはそのままになっている。




「平和来」 朝倉文夫 1952

図書館の前の公園に「平和来」の彫刻が置かれている。

この像は、朝倉文夫の作で。「平和来(へいわきたる)」というタイトルにふさわしく、戦没塾員の霊を慰める趣旨で、1957年に卒業生有志により寄贈された。台座には戦時中に塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。

「丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ 小泉信三 識」


小泉信三の碑文


「福澤諭吉胸像(小)」 柴田佳石 1953

福澤の親族のほか、北澤楽天に助言を求めて完成した胸像で、同じく柴田による演説館の前にある大型の像の完成後に、一般頒布用に作成された。


演説館の前の福沢諭吉胸像(大)


2.建物の外観

(1)図書館旧館

旧図書館の外観は、赤煉瓦と花崗岩による壮麗な外観を有している。





八角塔

八角塔

壁面上部の直径5尺の大時計は、ラテン語の「TEMPUS FUGIT(時は飛ぶ) 」(「光陰矢の如し」と同じ意味 )を文字盤に並べたもので、工芸家・沼田一雅の作である。この時計は空襲で機械部分は焼失したものの、表示盤は無傷であった。内部の機械は銀座・天賞堂が英国から取り寄せて寄贈した。



正面玄関上部に掲げられた「創立五十年紀念慶應義塾図書館」の文字は篆刻家・山本拝石の書を*岩村透が指図して天賞堂に鋳造させたもの。

*岩村透(1870-1917

明治後期から大正期の美術評論家。1910年以降、森鴎外の勧めにより慶應義塾で西洋美術史を講義した。 階段のステンドグラスをはじめ、図書館の意匠の監修ともいえる働きをした。


正面玄関


(2)幻の門

東館を抜け、左側に上るスロープの先に「幻の門」と呼ばれる門柱が見える。慶應義塾が三田に移転した明治時代初期、当時はこちらが表門=「正門」だった。門の経過を略記しておく。

1871(明治4)年、慶應義塾は芝・新銭座から三田の肥前島原藩松平家の中屋敷に移転した。現在の東館の辺りに大名屋敷の名残である木造の黒塗り門があり、それをそのまま慶應義塾の門として使うことになった。

1901(明治34)年、福澤諭吉葬儀の際は 三田山上の福澤宅から出発した葬列は表門を抜けて、三田通りを赤羽橋、一の橋と経て、葬祭場の善福寺に向かった。まさに慶應義塾の表玄関であった

1943(昭和18)年、三田で塾生出陣(学徒出陣)の壮行会が挙行された。大講堂前を出発した出陣学徒は他の塾生たちに見送られ、表門から旅立ち、福澤の墓参に向かった

1945(昭和20)年、空襲で表門も被災したが、その2年後に三田会の寄付などによって修復された。

1959(昭和34)年、慶應義塾創立100年事業の一環で、南校舎が建設され、同時に現在の正門が新設された。それまでの表門は正式名称が「東門」に変わったが、塾生の間では「幻の門」の異称で親しまれた。

「我等が理想」(作詞:堀口大学、作曲:山田耕作)という曲に出てくるフレーズに、 「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」と歌われることから「幻の門」の名が塾生の間に広まったといわれる。




(3)東門

三田通りからこの東門に入ると、凱旋門のようなアーチ状の大きな開口部を持つ階段を上がる。この東館は、2000年に竣工した。設計には、「幻の門」の歴史的記憶が反映されているという。また、赤レンガ造りのデザインは、隣接する図書館旧館のデザインと調和させており、壁面には、ペンマークとHOMO NEC VLLVS CVIQVAMPRAEPOSITVSNEC SVBDITVS CREATVR」(天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず)のラテン語が刻まれている。




北澤楽天展とともに、あらためて慶應義塾の歴史の一端を振り返ることができました。

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