| 細江英公《薔薇刑》 |
東京国立近代美術館のコレクション展で、細江英公《薔薇刑》が展示されていました。この写真は、細江英公が作家・三島由紀夫をモデルにして撮ったことで有名です。細江は昨年2024年、91歳でなくなりました。
展示されていた作品は11点、すべて撮影可でした。「写真」をクローズ・アップした写真に撮ってみました。
1.細江英公(1933-2024)
細江の略歴を、《薔薇刑》を発表する前後を中心にみていく。
1933(昭和8)年
山形県米沢市に生まれる。本名は敏廣。米沢は母の実家、東京の家は葛飾の四ツ木白鬚神社。
1945年12歳
米沢に疎開し、国民学校を卒業し、終戦後9月に東京に戻る。
1948年15歳
*パーレット・カメラを買ってもらう。前年より英公をペンネームとして使い始める。父は、白鬚神社の神職を務めていたが、終戦後、神道は戦争協力だと糾弾されて収入の道が閉ざされたこともあり、アマチュアでやっていた写真を仕事にするようになった。
*パーレット・カメラは1925年から1946年ごろまで小西六本店、六櫻社が製造した蛇腹折りたたみ式カメラ。
1949年16歳
高校時代には、父の仕事を手伝うこともあり、写真部と英語部に入り、本格的に写真を始める。
翌年、東京都高校英語弁論大会で1位に入賞。演題は「日本の永世中立」。またアマチュアのカメラクラブにも入り、写真コンテストへの応募を始める。
1952年19歳
東京写真短期大学(現・東京工芸大学)に入学。この頃、画家・瑛九をはじめ、池田満寿夫、河原温などと交流を持ち、瀧口修造、岡鹿之助らを知り影響を受ける。
1954年21歳
東京写真短期大学を卒業。フリーランスの写真家になることを決意する。
1959年26歳
土方巽の「禁色」を見て感銘を受け、交友を始める。土方に写真のモデルになるよう依頼する。この出会いは、細江の最初の代表作となる《おとこと女》の誕生につながる。
もうひとつ、この出会いから、「禁色」公演のパンフレットの写真を見た三島由紀夫(同名の小説『禁色』をすでに発表していた)から自著『美の襲撃』の口絵写真の撮影を依頼された。この仕事をきっかけに三島にモデルとなることを依頼し、《薔薇刑》の誕生につながる。
また、同年、写真家たちによる集団*「VIVO」の設立に参加する。メンバーには佐藤明、東松照明、奈良原一高などがいた。
*「VIVO」
この写真家集団は、マグナムフォトと同様、写真家自身が自分たちの写真作品の使用をコントロールできる(セルフ・エージェント)ようにしようと行動した。1950年代に支配的であった土門拳、木村伊兵衛 を中心とする「リアリズム写真」に対抗して、新たな写真表現(特に「私的」な写真表現、「主観的」な写真表現、写真家が見えるような写真表現)を指向したグループである。「VIVO」自体は結成からわずか2年後の1961年に解散するが、参集した写真家たちの活動は、それぞれユニークで衝撃的な作品を発表し、日本写真界に新風を巻き起こし、大きな評価を得ている。
なお、 「VIVO」とはエスペラント語で「生命」の意味。
1960年27歳
個展「おとこと女」を開催。モデルの一人は土方巽。これにより、日本写真批評家協会新人賞を、また富士フォトコンテスト年間作家賞を受賞する。
1961年28歳
写真集「おとこと女」(カメラアート社)を刊行。
三島由紀夫をモデルとして、半年に渡って撮影する・
1963年30歳
写真集「薔薇刑」初版(集英社)を刊行。本作品により日本写真批評家協会作家賞を受賞。
1964年31歳
市川崑監督の映画「東京オリンピック」のうち、「柔道」「近代五種」を監督。
初めて海外に出掛けアメリカ、ヨーロッパを回る。バルセロナでガウディの建築に出会い、のち、「ガウディの宇宙」 はライフワークとなる。(刊行は1984年)
1965年32歳
土方巽の故郷である秋田に撮影旅行する。のちの写真集「鎌鼬」となる。
1969年36歳
写真集「鎌鼬」(現代思潮社)を刊行。翌年、芸術選奨文部退陣賞を受賞。
1970年37歳
三島由紀夫、陸上自衛隊市谷駐屯地にて割腹自決。
1971年38歳
写真集「薔薇刑」 新輯版 (装幀・横尾忠則、集英社)を刊行。
1975年42歳
東京写真大学短期大学部(現・東京工芸大学)教授となる。また 写大ギャラリーの開設に尽力する。写大ギャラリーは、細江の発案によって、日本初のオリジナルプリントを収蔵、展示を行う常設施設として設立された。
(略)
2024年91歳
死去
2.《薔薇刑》という写真
戦後、写真界では、木村伊兵衛が小型カメラ「ライカ」の機動性を活かし、決定的な瞬間を素早く捉える「瞬間のスナップショット」 を、また土門拳は「絶対非演出の絶対スナップ」をスローガンとして、リアリズム写真が写真界をリードした。これは、戦時中の「日本工房」などでの報道写真、プロパガンダ写真に対する反動から生まれた。
それに対し、細江は、徹底して演出し、ドラマを紡ぎあげていく写真を打ち出した。そうした演出的想像力による写真が、作家・三島由紀夫と出会って作品として形になったのが《薔薇刑》である。
タイトルは、三島が提案した5つぐらいの中から、細江は迷うことなく《薔薇刑》を選らんだ。細江は、この写真の意図について次のように語る。
「《薔薇刑》の底に流れるテーマとして私の頭にあったのは、三島氏の肉体を通して、はじめて「生と死」といった大きなテーマが表現できるのではないか、という野心でした。三島氏はそんな若者(当時、細江は28歳、三島は36歳)の強欲をよく理解してくれました。撮影を続けるうちに私が感じたことは『所有者が愛する物にはその人の魂が宿るのではないか』ということ。そこで三島氏が愛して止まないルネッサンス期の絵画の画集を複写してネガを重ねて一体化した作品を作りました。」
この撮影と、現像・焼き付けなどの暗室作業で、重要な役目を果たしたのが森山大道(1938〜)である。森山は細江のアシスタントになって、最初の仕事が三島の撮影だった。細江がその場で思いついたアイデアを次々に実行していく撮影をフォローし、感度の低い超ハイコントラストのミニコピーフィルムを、さらに感度を落として薄く現像し、複数のネガを合成するフォト・モンタージュや、通常ではありえないような微粒子のプリントを完成させた。
フォト・モンタージュには、イタリアの画家、ジョルジオーネの「眠れるヴィーナス」やボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」が背景に使われている。
作品#5
右手に木槌(きづち)を持った三島は、脚立の上から見下ろす細江を、満身の力を込めて睨(みら)みつけている。 このときに使用したカメラはキャノンL1に25mmのレンズを付けて撮影した。
3.作品《薔薇刑》 1961年 ゼラチン・シルバー・プリント
今回展示されていた《薔薇刑》は11点、全て東京国立近代美術館が所蔵している。
作品1
作品3
4.写真集『薔薇刑』
写真集『薔薇刑』は、初版は1961年に刊行されたが、その後も何度か刊行されている。いずれも稀覯本で、古書価は高いものになっている。
1961年初版:杉浦康平の装幀。集英社より刊行。限定1500部。
1971年新輯版:横尾忠則の装幀。集英社より刊行。
この版の刊行にあたって、次のような経過があったという。
前年、1970年11月25日に三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入し、割腹自殺を遂げるという事件が起きた。細江にとって、まったく予想外の出来事だった。細江はすぐに新輯版の出版に向けた作業を休止した。写真集を出版することで、三島の死を利用していると思われたくないというプライドがあった。 ところがしばらくして、三島由紀夫夫人の瑶子さんから「主人が楽しみにしていた本だから、ぜひ出版してほしい」という電話が入り、急転直下、新輯版『薔薇刑』は陽の目を見ることになった。
1984年新版:粟津潔の装幀。集英社より刊行。
その後も、復刻版も含め、2008年、2015年に刊行されている。
2002年英語版:『Ba Ra Kei: Ordeal by Roses』(2002)
2008年復刻版:『薔薇刑・復刻版―細江英公写真集』(2008)装幀:杉浦康平
2015年 二十一世紀版 :二十一世紀版 薔薇刑』(2015)装幀:浅葉克己
『二十一世紀版』は三島の生誕90年を記念したもので 、細江が選んだ未発表の写真5点が収録されている。
(参考):
図録『写真家・細江英公の世界 球体写真二元論』東京都写真美術館 青幻社 2006年
『日本の写真家32 細江英公』岩波書店1998年
(参照):
東京異空間351:「戦後は続くよどこまでも」展@写大ギャラリー(2025/10/17)
5.篠山紀信の『OTOKO NO SHI』
細江のほかに、篠山紀信も三島由紀夫を被写体として撮っている。三島は、篠山紀信が撮影した宗教画「聖セバスチャンの殉教」を再現した自身の作品を非常に気に入り、これを基にした写真集の刊行を計画した。 モデルのパートナーとして横尾忠則を誘い、写真家として篠山紀信を指名し、自決する1970年11月25日のわずか1週間前まで集中的に撮影が行われた。
当初は1970年に『The Death of a Man(男の死)』というタイトルで薔薇十字社から刊行される予定であったが、三島の突然の自決により出版はお蔵入りとなり、「幻の写真集」とされた。
しかし、三島の死から50年、2020年に、篠山紀信が撮影したフィルムを全て提供し、横尾忠則が、『男の死』を再構成して、超大型版写真集『OTOKO NO SHI』として国内外で初めて刊行された。初版発行部数50部、価格50万円。
この写真集の中で、三島は自らの死を予行演習するかのように、切腹する武士や決闘に敗れた闘士などに扮し、鍛え上げた肉体を披露しながらさまざまな“死”を演じている。
なお、篠山紀信も、2024年に亡くなっている(83歳)。

三島がモデルの「聖セバスチャンの殉教」 
超大型版写真集『OTOKO NO SHI』
細江英公の《薔薇刑》を観られ、そしてなによりも撮影可であったので、作品一つ一つの部分までじっくり見ることができました。
今年、2025年は、三島由紀夫の生誕100年にあたります。そして、昭和100年でもあります。さらにいえば戦後80年です。 さきの細江の尽力により設立された写大ギャラリーでの土門拳などの写真とともに写真史の一端を見ることができました。
(参照):
東京異空間63:二つの写真展を観た~土門拳と奈良原一高(2022/6/1)
また、細江と同じく三島由紀夫を被写体とした写真を篠山紀信が撮っていることも、このブログを整理する中で知りました。







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