宝仙寺 |
写大ギャラリーから宝仙寺にまわりました。昨年は、写大ギャラリーを訪れた後に、成願寺というお寺に初めて行きましたが、宝仙寺は、以前、中野に住んでいたころに、来た思い出があります。それも、門前にある「まっかちん」というお店の看板を見て思い出しました。「まっかちん」とは?
(成願寺については、「東京異空間65:中野・成願寺の仏たち」2022/06/06)
1.宝仙寺
宝仙寺は、中野区でも屈指の広大な寺院で、千年近くの歴史を誇る古刹である。 寺伝によれば、源義家(頼義の長男)によって平安後期の寛治年間(1087~1094 )に創建されたという。
また、宝仙寺は、大宮八幡宮の別当寺となったが、その大宮八幡宮は、父・源頼義の創建による。
義家は、「八幡太郎」と呼ばれるように、この杉並区とその周辺には源氏に関わる八幡宮がいくつかある。
杉並区:大宮八幡宮(源頼義)、井草八幡(源頼朝)、荻窪八幡宮(源頼義)、中野区:鷺宮八幡宮(源頼義)、練馬区:高松八幡宮(源頼義)
八幡神は、武運の神として鎌倉武士に信仰され、この地域には「いざ鎌倉」の際には馳せ参じたという「鎌倉街道」がつくられた。
(なお、井草八幡宮については、「東京異空間95:善福寺公園の桜」2023/04/07)
2.宝仙寺の境内
宝仙寺の伽藍は、空襲により焼失し、戦後に再建されたものである。
・本堂:鎌倉期の不動明王(秘仏)を中心に五大明王像が安置されている。
本堂 |
本堂・山号は明王山 |
本堂・鴟尾 |
・御影堂:弘法大師の尊像が安置されているお堂。
御影堂 |
・三重塔:奈良・法起寺を模した飛鳥様式の純木造建築の塔。平成4年(1992)に再建された。
三重塔 |
三重塔 |
・山門(仁王門):阿・吽一対の仁王像が納められた山門。 戦前までは現在よりも青梅街道に程近い所にあった。
山門(仁王門) |
・六地蔵と見送り地蔵:三重塔の裏に安置されている石仏。 見送り地蔵は、引導地蔵ともいわれ。高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したもの。その縁起によると引導地蔵とは、弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定前々日に刻まれた尊像とされる。
六地蔵と見送り地蔵 |
見送り地蔵 |
地蔵菩薩像 |
・臼塚:江戸時代、中野は神田川を利用して水車で蕎麦を引き、「中野そば」といわれるほどの製粉の一大拠点となったが、その後、機械化により使われなくなった石臼が道端に放置されていた。昭和2年(1927)に、当時の住職が石臼を大切に供養するため噴水として積み上げた。頂上のものは昔、甘酒をすったもの 。
臼塚の下の水辺にはハスの花が咲いていた。ハスは、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」といわれるように、泥沼の水辺から出て美しい花を咲かせることから浄土の花といわれる。
臼塚 |
臼塚 |
ハスの花 |
ハスの花 |
・中野町役場跡碑:明治28年から昭和の初期まで中野町役場が、また昭和7年(1932)に中野区が発足したときには区役所が境内に置かれた。
中野町役場跡碑 |
・八十八大師塔:八十八大師は四国八十八ヶ所に、それぞれ一体の弘法大師を当てたもので、 四段組の石の片面に二十二体の弘法大師を刻み、四面合計で八十八体としている。頂上には虚空蔵菩薩が安置されている。
八十八大師塔 |
虚空蔵菩薩像 |
太師像 |
八十八体・弘法太師像 |
・新四國霊場三千人講中供養塔:この塔は、幕末の四国八十八ヶ所に関する石塔造立に関わった人々によって構成されている 。文久2年(1862) 造立。
新四國霊場三千人講中供養塔 |
・宝篋印塔:宝篋印塔は、本来は中に経典を収めるもので、寛政8年(1796)供養塔として造立。
宝篋印塔 |
宝仙寺の門前には、「まっかちん」という熱帯魚屋さんがあります。中野区に住んでいたころ、子供と一緒に熱帯魚を飼育していましたので。このお店には訪れたことがあります。
ところで、「まっかちん」とは、自分たちが子供のころ、アメリカザリガニを指す言葉でした。なかでも、大きくてまっかなザリガニのことを言いました。なぜ、「まっかちん」というのか、ネットで調べてみました。ウィキペディアには「体色が赤いことからマッカチンと呼ばれた」とあります。ほかには、アメリカだからマッカーサーに因んでいるという説もありました。アメリカザリガニは、戦前に日本に入り、各地に分布したのは、戦後になってからで、マッカーサーの占領時期と重なることから「マッカチン」言われるようになったというのです。実際、「マッカーサー」という呼び方もあるようです。
宝仙寺を訪れて、20数年前に、子供と熱帯魚を飼育していたこと、また、さらに自分の子供のころ、ザリガニ釣りといって、タコ糸にスルメの足をエサにして遊んだことも思い出しました。
熱帯魚店「まっかちん」 |
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