東館から図書館・八角塔 |
慶應義塾ミュージアム・コモンズで、北斎と国芳の浮世絵を観た後、横にある東館(東門)から、三田キャンパスに入りました。キャンパスには、旧図書館、三田演説館など歴史的な建物や銅像などがあり、塾の歴史の一端をたどることができます。
2.慶應義塾三田キャンパス
そもそも慶應義塾大学の起源は、大坂の緒方洪庵の「適塾」に学んだ福澤諭吉が江戸に出て、築地鉄砲洲に開いた蘭学塾に由来する。安政5年(1858)のときであり、福澤は25歳であった。場所は、いまの聖路加病院の辺りとされる。その後、塾舎を中津藩中屋敷の築地鉄砲洲から芝新銭座に移転し、塾としての基盤を築いた。そのときの年号をとって「慶應義塾」と命名した。しかし、ここが湿地であるため、別の場所に移ることとし、三田にある島原藩の中屋敷を適地として選んだ。この地に移るにあたっては、岩倉具視の後押しがあったとされる。三田への移転は明治4年である。これ以降、「三田」が慶應義塾の代名詞ともなり、いまも大学祭は「三田祭」、OB会は「三田会」と呼ばれている。
ところで、慶應は年号、三田は地名、であるが、「義塾」とは、なんだろうか。それは福澤が、イギリスの「public schoo」 を「義学、学校」と訳された言葉を日本の学塾風に「義塾」と改めたのではないかとされる。
(1)東館(東門)
まずは、先の 慶應義塾ミュージアム・コモンズの横にある東館(東門)から入る。東館は2000年に竣工した建物で、東門のアーケードとなっている。アーケードの上には、ペンのマークとともに、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を意味するラテン語で、「HOMO NEC VLLVS CVIQVAMPRAEPOSITVSNEC SVBDITVS CREATVR」と刻まれている。
東館・三田通りから |
東館・三田通りから |
東館(東門)・アーケード |
ペンマークと「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のラテン語 |
ペンマークと「HOMO NEC VLLVS CVIQVAMPRAEPOSITVSNEC SVBDITVS CREATVR」のラテン語 |
慶應義塾ミュージアム・コモンズから見た旧図書館と幻の門 |
慶應義塾ミュージアム・コモンズから旧図書館・八角塔 |
(2)旧図書館
旧図書館は、八角塔を備え、赤煉瓦の造りは瀟洒で、慶應を代表する建物である。1912年(明治45)に創立50年を記念して建てられた。設計は曾穪(そね)達蔵、中條(ちゅうじょう)精一郎の設計によるネオ・ゴシック様式の建物。開館当初から、一般公開を方針として、開かれた図書館であった。2019年にリニューアルされ、現在は慶應義塾史展示館が入り、「八角塔」という名のカフェもつくられている。もちろん、一般の人も入ることができる。
旧図書館・八角塔 |
旧図書館 |
旧図書館 |
旧図書館・玄関ホール |
旧図書館・階段 |
旧図書館・階段 |
慶應義塾史展示館 |
旧図書館・入口のガラス窓 |
カフェ・八角塔 |
・ステンドグラス
旧図書館の入口を入り、2階に上がる階段の踊り場には、ステンドグラスが飾られている。封建社会を象徴する鎧姿の武将が、慶應のペンマークを手にした文明の女神を迎えるデザインとなっている。下には、「Calamvs Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し)とラテン語で書かれている。このステンドグラスは、洋画家・和田英作の原画に、日本初のステンドグラス作家である小川三知(1867-1928)によって制作された(1915年)。その後関東大震災、戦災による損傷を受け、小川の助手であった大竹龍蔵により復元された(1974年)。
(なお、小川三知のステンドグラス、また後述する朝倉文夫の鳩山和夫・春子夫妻像については、「東京異空間37:権力者の館1~音羽御殿と目白御殿」2021/06/01)
旧図書館・ステンドグラス |
下に「Calamvs Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し)のラテン語 |
旧図書館・ステンドグラス |
・手古奈(てこな)
旧図書館の1階の隅に、大理石の彫像「手古奈」が置かれている。手古奈は、真間(現・市川市真間)に奈良時代以前に住んでいたという女性の名で、万葉集にも謳われた。
この女性像は、日本で最初に大理石彫刻を手掛けたとされる北村四海(1871-1927)によって制作された。 本作は1909(明治42)年の第3回文展出品作で、文展終了後、塾員の仲介で図書館の新築祝いとして寄贈され、竣工後に図書館玄関ホールに設置された。 この彫像も戦争で損傷したが、その痕跡を残して修復された。
手古奈 |
・平和来(へいわきたる)
福澤公園の一角に置かれた子の銅像は、朝倉文夫の作で、戦没した学徒、卒業生を追悼するため有志により寄贈された。1957年設置。
なお、朝倉文夫(1883-1964)は、「東洋のロダン」とも呼ばれ、早稲田大学の大隈重信像を制作したことでも知られている。また、音羽御殿にある鳩山和夫、春子夫妻の像も制作している。
(早稲田大学の大隈重信像については、「東京異空間39~早稲田大学キャンパス」2021/11/06)
平和来・後ろは旧図書館 |
平和来・後ろは東館 |
(3)幻の門
三田通りに面するかつての正門で、南側に正門ができ、また東館が出来たことから、アーケードを通り抜けブリッジをくぐった坂道の現在の位置に移設された。権威や虚飾を嫌う学風を反映した簡素な造りの門が、なぜ「幻の門」と呼ばれるか。はっきりとはしないが、義塾のカレッジ・ソングの一つに「幻の門」というのがあり、「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」の1句にはじまることから塾生の間に広がったとされる。なお、この曲は、塾員・堀口大學が作詞し、作曲は山田耕筰があたっている。
ブリッジの向こうに幻の門 |
幻の門 |
(4)塾監局
旧図書館の右側前に塾監局が建っている。この建物には、事務を扱う組織が入り、「塾監局」というのは、組織名でもあり、建物名にもなっている。一般の大学には見られない名であるが、若き日の福澤諭吉が学んだ緒方洪庵の適塾にあった塾監という管理組織に由来するといわれている。
建物は、1926年(大正15)に竣工し、設計は旧図書館と同じ曾穪達蔵と中條誠一郎によるレンガ造りのゴシック様式である。黄色い煉瓦は、ほぼ同じ時期にフランク・ロイド・ライトにより造られた帝国ホテルの煉瓦に似ているという。なお、部外者は中に立ち入ることはできない。
塾監局 |
塾監局 |
(5)三田演説館
現在の正門(南門)から入ると左側に、三田演説館がある。おそらく、旧図書館とともに三田キャンパスの中で一番よく知られている建物であろう。福沢諭吉は、「speech」を演説、 「debate」を討論と訳し、自ら実演した。その演説館として、明治8年(1875)に開館した。建物は、洋風でありながら外観は木造の瓦葺、なまこ壁という、いわゆる擬洋風建築である。
建物の前に福澤諭吉の胸像が置かれている。この像は、北村西望に学んだ柴田佳石により制作され、昭和28年(1953)に、最初は研究棟の前に設置された。その後、研究棟の建て替えのため、図書館前に移設されたが、また図書館の改修のため、現在の演説館の前に移設された。胸像背面銘文には「独立自尊 一九五三佳石謹作」とある。
なお、制作者の柴田佳石(1900-1968)については、岐阜公園にある板垣退助像を制作しているが、ほとんど知られていない。
三田演説館 |
福澤諭吉胸像 |
正門(南門) |
慶應義塾三田キャンパス内にある歴史的な建物、彫刻作品などを観て、このブログを書くことにより、あらためて義塾の歴史の一端を知ることが出来ました。
大学の横には、「綱坂」という坂道があり、そこを上がっていくと、「綱町三井倶楽部」があります。
「綱坂」・左の壁は綱町三井倶楽部 |
3.綱町三井倶楽部
綱町三井倶楽部は、三井グループの迎賓館として、会員のみの利用となっているため、中には入れないが、外観を観てきた。
この地には、酒呑童子の鬼退治で知られる平安時代の武将、渡辺綱が産湯をつかったという井戸があり、「綱町」という地名の由来となっている。周辺には、慶應義塾大学の他、イタリア大使館、オーストラリア大使館などがある。
建物は、ジョサイア・コンドルによって設計され、ルネサンス様式を基調としている。竣工は大正2年(1913)で、関東大震災による損傷も修復し、戦災も受けずに済んだが、戦後はGHQに接収され、米軍将校クラブとして利用された。その後、昭和28年(1953)に三井不動産に返還された。
また、約1万坪という広大な敷地は、西洋庭園と日本庭園との庭園が9割を占めている。西洋風庭園は、英国式でルネッサンス風幾何学式庭園 となっており、日本庭園は築山林泉回遊式庭園で、多くの石灯籠や名石が配置されている。
日本庭園の部分は、会津藩松平家の大名庭園がもとになっていて、それを大正時代に、茶人・薮内節庵によって設計され、庭師・柴田徳次郎の作庭によって大きく改造されたという。
参考:
『綱町三井倶楽部』 綱町三井倶楽部記念年誌編集委員会 三井不動産 1990年
綱町三井倶楽部・入口 |
綱町三井倶楽部・門 |
三井家の家紋「四ツ目結」 |
綱町三井倶楽部は、会員制であり、残念ながら入ることはできませんでしたが、門からその歴史を感じさせる重厚な佇まいを観てきました。
慶應義塾ミュージアムでの「北斎と国芳」の美術展から三田キャンパス、そして綱町三井倶楽部と、今回も「美術と建築」そして、その歴史を巡ることができました。
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