大阪の日本画・生田花朝<天神祭> |
二つの美術展を観てきました。ひとつは東京ステーションギャラリーで開催されている「大阪の日本画」、もうひとつは静嘉堂@丸の内で開催されている「明治美術狂想曲」です。美術展そのものにも見どころがたくさんありましたが、美術館が入っている、東京駅と明治生命館という建築にも見どころがありました。
1.「大阪の日本画」
近代の日本画といえば、東京、京都の画壇は知られているが、大阪画壇はあまり知られていないのではないだろうか。そうした近代の大阪画壇の画家たちの作品を集めた展覧会が、東京ステーションギャラリーで開かれている。これは大阪中之島美術館からの巡回展である。大阪中之島美術館は、その準備室が出来てから約30年も経って、ようやく昨年、2022年2月にオープンした。今回は、開館1周年記念の企画展である。関東で大阪画壇の作品を見ることはほとんどないが、関西でも、これだけの作品を集めた展覧会は初めてといわれる。この展覧会では、約50名の画家の約150点が展示されていた。
(1)北野恒富(1880-1947)
そうした大阪画壇の中心的な画家として、北野恒富がいる。北野恒富については、2017年に千葉市美術館で没後70年の回顧展が開かれた。これも、大阪あべのハルカスからの巡回展であった。
北野恒富は、東京画壇の鏑木清方と同じように美人画を得意としたが、とりわけ大阪という商業都市において、人々を注目させるポスター原画なども手掛けた。彼の美人画は、「妖しい」あるいは「悪魔的」、ともいわれるが、関西の言葉でいう「はんなり」とした美人画は観る者をひきつける。今回、展示されていたのは<風>、<宝恵籠>、<いとさんこいさん>、<淀君>などで、どれも魅力的な作品で見入ってしまう。
(「はんなり」は、「上品さと気品さを兼ね備えている上、明るくて華やかなさま」 をいう)
恒富は、画業のいっぽうで、野田九浦、菅楯彦らといくつかの美術会、協会などを組織し、大阪画壇をリードするとともに、画塾を主催して、樋口富磨呂、生田花朝など、多くの門下生を育てた。
(2)島成園(1892-1970)
そうした大阪画壇のひとつの特徴ともいえるのが、多くの女性画家を輩出していることである。その中心的な存在が島成園である。
島成園は、大阪・堺に生まれ、20歳のときに文展に入選し、大阪からの若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称された。また、島成園は、その画技と人柄によって多くの女性画家たちに慕われ、大阪における女性画家の先駆者と もいえる存在となった。成園は、つぎのように志を語っている。 「私は何とかして世の中を超越した自由な絵をかきたいと願っ ております。」 『絵画清談』 大正6 (1917) 年
この展覧会では、大阪画壇の女性画家として、生田花朝、木谷千種、橋本花乃、三露千鈴、星加雪乃、原田千里、吉岡美枝、高橋成薇など、多くの画家の作品が展示されていた。こうした女性画家が多く輩出された背景として、島成園のような若手の女性画家が活躍したことから、女性が画塾などに参加しやすかったこと、また富裕層の子女は一般教養として絵を習うことが行われていたこと、さらにたんにお稽古事や趣味にとどまらず、画家として社会的な成功を認め得る文化的土壌があったことなど、大阪には女性画家が育ちやすい気風があったとされる。生田花朝は、「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの」と後年のエッセイで綴っている。
今回、島成園の作品は、<舞子之図>、<祭りのよそおい>の2点であったが、女性画家の作品にも大作が多い、というのも展覧会等に出品し、認められる必要があったためであろう。
(3)矢野橋村(1890-1965)
今回の展覧会では、知らない画家の作品が多く出ていたが、中でも、その作品の力強さに圧倒されたのが、矢野橋村の新南画である。
矢野橋村は、愛媛県越智郡(現・今治市)に生まれ、大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後、南画家を志し、右手一本で創作活動を行った。33歳にして、私立大阪美術学校を設立するなど、南画界の重鎮として活躍し大阪の美術振興に貢献した。その作品は、画面一杯に山々であったり、林、人家などを自由闊達な筆致で描いていくなど、大胆な構図と力強さで、大きなインパクトを与える。また、吉川英治の『宮本武蔵』の挿絵なども描いた。
2.東京ステーションギャラリー(東京駅)
東京ステーションギャラリーは、名前の通り、東京駅の構内、丸の内北口にある。東京駅は、大正3 年に(1914)に完成した。設計は、辰野金吾である。開業後、関東大震災(大正12年)には耐えたが、東京大空襲(昭和20年)により被災し、3階部分を焼失した。その後復旧工事を行い2階建ての姿となる。東京ステーションギャラリーは昭和63年(1988)に開館した。さらに、平成24年に丸の内駅舎の保存・復元工事が完了し、美術館もリニューアルされた。
展示室も、当時の煉瓦の壁を活かした造りになっている。煉瓦の壁には、ところどころ黒いものがある。これは腰壁などをネジやクギで固定するための木のブロック(木レンガ)が、空襲の火災により木が炭化したものである。また、階段の壁を見ると、鉄骨がむき出しになっているところがあり、駅舎が鉄骨煉瓦造であることがわかる。それによって、先述したように関東大震災にも耐えたのである。辰野金吾が、その設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた所以でもある。
いまは、駅前広場も整備され、皇居からまっすぐに行幸通りで結ばれ、東京を代表する景観となっていて、多くの観光客が写真を撮ったりしている。
(なお、東京駅と辰野金吾については、「東京異空間19:日本銀行~東京駅・辰野金吾」2019/12/29)
3.「明治美術狂想曲」
丸の内の明治生命館に、世田谷にあった静嘉堂文庫美術館が昨年10月に移転した。今回、はじめてこの美術館を訪れた。企画展「明治美術狂想曲」が開催されている。
明治に入り、西洋の衝撃を受け、美術においても、美の価値観の変革をもたらした。江戸時代の狩野派を中心とする絵師の失職や刀工など職人的な仕事が大きな変革を余儀なくされた。そんな激動の状況の中で生み出された美術作品を「狂想曲」と、呼んだのだろう。そもそも「美術」という言葉もこの時期に「fine art」を翻訳したものである。
展示作品は、すべて静嘉堂文庫美術館(岩崎家)の所蔵品で構成されている。その明治の「狂想曲」の中から4人の画家をみてみる。
(1)河鍋暁斎(1831-1889)
河鍋暁斎は、葛飾北斎、歌川国芳に続く天才絵師といえるだろう。展示されていたのは<地獄極楽めぐり>という全40図の画帖である。14歳で亡くなった江戸の商家の娘・たつの追善供養のために制作された。阿弥陀如来に連れられて地獄を巡って極楽浄土へと向かう娘の物語を描いており、そのなかには、当時はまだ走っていなかった汽車で極楽に向かうという、まさしく文明開化の時代を反映したファンタジックで、ユーモアもある暁斎らしい絵はインパクトがある。(日本の鉄道開業は明治5年であり、暁斎のこの作品は明治2~5年にかけて制作された。)
その画帖を収める箱の内側には、柴田是真の筆で、娘・たつの影絵が描かれている。このシルエットである影絵は、いわばデスマスクのようなものであったという。 暁斎と是真の共作ともいえる作品である。
(2)柴田是真(1807-1891)
柴田是真は、描くことが難しいとされる漆絵でも巧みな技を使い、見事な作品を多く描いている。展示されている<変塗絵替丼蓋>は、鉢に添えられた蓋10客に、青銅塗、紫檀塗、茶銅塗など異なる技が用いられ、それぞれ漆絵で、リアルな木目を表わしたり、小さな蟻を描いたりと、まさに超絶技巧の作品である。<柳流水蒔絵重箱>は、5重の箱をそれぞれの色合いの漆で塗り、その蒔絵も積み重ねることで絵を構成するというこれまた超絶技巧を凝らした作品である。
(柴田是真については、東京異空間80:「柴田是真と能楽」~国立能楽2023/01/27)
(3)渡辺省亭(1852-1918)・濤川惣助(1847-1910)
展示されていた<七宝四季花卉図瓶>は、渡辺省亭の原図をもとに濤川惣助が「無線七宝」という独自の技法を用いて制作した花瓶である。無線七宝の技法により、図柄の輪郭線がなくなり、それぞれの釉薬が微妙に混じり合い、色彩のグラデーションが生み出され写実的、立体的な表現が可能となった。省亭の下図による濤川の七宝の作品としては、迎賓館・花鳥の間に飾られている作品が有名である。
こうした伝統工芸品は、当時の日本にとって貴重な輸出品であり、殖産興業の一環として、万国博、内国博覧会などに出品された。そうしたことから、省亭は日本画家として初めて洋行留学をしている。彼の作品は来日外国人に好まれ、多くが海外に流出した。海外では評価の高い省亭であったが、明治の後半には次第に中央画壇から離れて市井の画家を貫いたため、 忘れられた画家となっていた。ここ最近は、再評価の機運が高まってきて、省亭の作品の里帰りとともに、展覧会も開催されるようになっている。
(4)黒田清輝(1866-1924)
黒田清輝は、明治の洋画家を代表する画家としてよく知られているが、その黒田の<裸体婦人像>が展示されている。この作品は、当時センセーショナルな事件を起こしたことで知られる。フランスで西洋画を学んだ黒田にしてみれば裸婦像を描くことは、当たり前のことで、美の表現の基本ともいえるものであった。しかし、当時の警察は、劣情を刺激し公序良俗を乱す作品として摘発し、一般観客が入れない特別室で展示することを求めた。だが、黒田は警察の要求を拒否し、あくまで一般公開するという方針を譲らず、結局、腰から下を布で覆うという妥協案となった。そのことから「腰巻事件」と呼ばれることになる。現代でも、芸術か、わいせつか、といった論争が起こるが、これは明治期の美術における価値観の食い違いを示すものとなった。
そんな経緯のあったこの作品を、岩﨑家は購入して撞球室に飾っていたという。岩崎家のコレクションの幅広さというのか、コレクション自体が、明治期における美術に対する評価、価値観の混乱を示しており、まさに「狂想曲」なのであろう。
4.明治生命館
静嘉堂文庫美術館は、これまで世田谷にあったが、2022年10月に丸の内の明治生命館に移転した。皇居のお濠に面して建つこの建物は、戦後、GHQの司令部となったことでも知られている。建物は昭和9年(1934)に竣工し、設計は岡田信一郎(1883-1932)で、顧問として曾根達蔵がついた。なお、岡田が急逝したため、実弟の岡田捷五郎が引き継ぎ 、構造設計は内藤多仲が担っている。
この明治生命館の2階部分は、一般公開(無料)されている。壁、柱などには大理石が用いられ、吹抜けの構造は一階のフロアも見渡せる。会議室、応接室など置かれている家具もクラシックな西洋古典様式のものとなっていて、それぞれに見どころがある。
(岡田信一郎については、東京異空間37:権力者の館1~音羽御殿と目白御 2021/06/01)
(内藤多仲については、東京異空間29:東京タワーと内藤多仲 2020/12/24)
天井・アカンサスの葉模様 |
石膏レリーフ・葡萄と蔦のデザイン |
大理石の柱 |
大理石の柱 |
会議室 |
マッカーサー元帥が出席し演説したという会議室 |
応接室 |
窓の向こうは皇居のお濠 |
5.「美術」と「建築」
東京ステーションギャラリーと東京駅、そして静嘉堂文庫美術館と明治生命館とそれぞれ、「美術」と「建築」の美しさを観ることができる。
そもそも「美術」は「fine art」を西周が翻訳したとされ、また「建築」は「Architecture」を「造家」と訳されていたのを伊東忠太が「建築」に改めたといわれる。
こうした明治期に入ってきた西洋からの概念を翻訳し、日本に浸透していく過程で、さまざまな混乱もあった。たとえば、美術という概念に工芸は入るのか、さらに芸術との違いはどうなのか、日本の伝統的「美」と西洋の「美」との相剋、また、それに伴う技の違い、さらには美に対する価値観の違いなどなど、そうした「狂想曲」が奏でられた。しかし、いま、こうして美術館が、歴史ある建築物に入ることにより、「協奏曲」となっているようにも思える。
東京駅・丸の内のドーム天井 明治生命館・回廊とアカンサスの葉模様の天井
二つの美術館、建築物を観ることが出来ました。東京ステーションギャラリーは久しぶりに行きましたが、東京駅で「大阪の日本画」を観て、これまで北野恒富と島成園以外には、ほとんど知らなかった画家、作品が多く興味がわきました。
また、静嘉堂文庫美術館は、世田谷にあった時には何度か行きましたが、丸の内の明治生命館に移ってからは初めて訪れました。岩崎家(静嘉堂)のコレクションの幅広さに改めて驚くとともに、財閥の凄さにも驚きました。
開催されている二つの美術展と、あわせて歴史的な二つの建築、どちらも美しいものでした。とすれば、美の「四重奏」を奏でていたということでしょうか。
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