「初山滋展 見果てぬ夢」 |
ちひろ美術館に行ってきました。この美術館は近くにあるのですが、これまで行ったことがありませんでした。今回、初山滋展が開かれていることから観てきました。
1.初山滋(1897-1973)
この展覧会は、企画展「初山滋展 見果てぬ夢」として、没後50年となる初山滋の人生を追いながら、童画、木版画、漫画や装丁画、絵本の原画など、多彩な作品が展示されている。
初山滋は、明治30年(1897 )、浅草田原町に生まれ、8歳で狩野派の画家・荒木探令に、12歳で風俗画家・井川洗厓に学び、また着物の模様画工房などに奉公して、伝統的な日本の技を学び、子供向けの童画など新たな絵画を生み出した。
初山滋が活躍した大正期は、日本の絵本の草創期で、羽仁もと子による「子供之友」、鈴木三重吉による「赤い鳥」、さらに「コドモノクニ」が創刊され、武井武雄、岡本帰一、初山滋らが登場した。「童画」という言葉は武井武雄によりつくられ、芸術性の高い童画、絵本雑誌の黄金時代となった。
今回の展覧会で、印象に残った初山滋の作品を、童画、線画、版画、漫画のそれぞれについてみてみる。
(1)童画
童画で印象に残ったのは、「蝶サンウツシマスヨ」。少女がカメラを持って、花に寄る蝶を撮ろうとしている。少女の後ろには黒い犬がその様子を見ているようだ。
この絵にそえられた、初山滋の詩が、その情景を説明してくれる。
蝶さん うつしますよ
そんなに いいキカイぢゃないんです。
丁度 子供に手ごろなキカイだと言って、進級のごほうびに 買っていただいたのです。
この子供の瞳と 寫眞機のレンズとは なかなかいいチャンスをとらへます。いまも花ぞので、蝶さんうつしますよ! と小声で言って パチリ
どこからかきた小犬もうしろから、花ざかりの花園を背景にして 一枚お願ひいたします
よ、といってるんぢゃないでせうか、きっとさうです。
カメラを男の子ではなく、女の子に持たせることにより、よりファンタジックな光景となっているように思う。
「蝶サンウツシマスヨ」 |
(2)線画
一見するとビアズリー風のタッチであるが、初山は、ビアズリーに似ているといわれて、西洋に、そんな画家がいることを知らなかったと言っている。「西遊記」や「アラビアンナイト」の挿絵は、初山の線画によって物語の想像力が膨らむ。「線」について、初山は次のように書いている。
「私の空想、私の夢は、私の筆の線に乗っていろいろの楼閣をきずいてゆく。線と共に― 私の心も、それにつられて、楼閣の中にさそわれまよいこんでゆく。(中略)とにかく東洋風の線が、わたしの童画の中に根深くからみついていて」
モノクロでシンプルだが、その線描は美しく、西洋的な雰囲気もあることから、異国の夢を膨らませる。
*オーブリー・ビアズリー(1872-1898)
英・ヴィクトリア朝の世紀末を代表する画家。ペン画の鬼才といわれた。
(3)版画
初山が本格的に版画と向き合うようになったのは、1930年代の後半、戦時色が濃くなって、子供の本の仕事が減っていった時期である。初山が手掛けた版画は自画自刻自摺と、自らがすべて行い、「彫りすすみ」という木版技法である。一枚の版木で彫りと摺を繰り返しながら多色刷りの作品ができる技法である。
展示された版画の中で印象に残ったのが「こども」と題する作品である。頭にたくさんの花飾りを載せた少女が暗い中を歩いていく、その姿は、月明かりに照らされて対照的に青い水面に映っている。ロマンティックではあるが、少女の姿にはどこか哀し気な様子も。
「こども」 |
(4)漫画
「ペコ・ポンポン」は朝日新聞に掲載された4コマ漫画である。「やたらになんでもたべたり飲んだりしたくなって、そのイブクロのためにいろいろなことになります」と、自らも食いしん坊を自任する初山のペコ・ポンポン紹介の弁である。
また、ペコ・ポンポンの生まれ変わりのような「たべるトンちゃん」では、子ぶたのトンちゃんが主人公。何でも食べるトンちゃんの最後は、「たべる とんちゃん は トンカツや にかはれて ゆき たべられる とんちゃんに なりました。おしまひ ピイ」と、シニカルなユーモアで結ばれている。
こうした作品のほか、自らが装丁した美しい本を造っている。『未明童話集』、『日本童話選集』や童謡楽譜などにみる夢のある絵、そして美しい色、たとえば本の見返しに真っ赤な色の背景に少女を描いている。そんな大胆な本造りである。
初山滋は明治30年(1897)に生まれ、明治、大正、昭和の三つの時代を生きて、昭和48年(1973)に、75歳で亡くなった。明治期には、江戸の職人的な文化が残っていた、というより、行き過ぎた欧化主義に対して復活していたというべきか。そうした、職人的な技法を基に、新たな西洋的画風をも自らのものとして童画を描き、子供たちに夢を与えた。初山が活躍の場を得たのは、大正期のモダニズムの時代であった。しかし、昭和前期になると、戦時色が濃くなり、初山にとって、童画を描けなくなる逼塞した時期となった。敗戦を経て、こどもの本が迎えられるようになった。初山は岩波の子どもの本や教科書などに光り輝くような絵をたくさん描いた。
その生涯は「奇人」ともいわれるほど、自由奔放な生き方であったという。それはすなわち、絵とともに、いつまでも子供らしい夢を見続けた初山滋の見果てぬ夢でもあったのだろう。
2.ちひろ美術館
ちひろ美術館は、いわさきちひろ(1918-1974)が22年間住んでいた練馬区の家の跡を利用して、1977年につくられた世界で初めての絵本の美術館である。ちひろが使っていたアトリエや、大切に育てていた「ちひろの庭」もある。
ちなみに、初山滋も練馬の住民であった。1953年、56歳のときに練馬区向山に転居し、以後20年間この家で暮らし、終の棲家となった。
参考:
『初山滋 永遠のモダニスト』竹迫祐子 編 河出書房新社 新版 2019年
『初山滋奇人童画家』上笙一郎 港の人 2016年
ちひろ美術館 H.P https://chihiro.jp/tokyo/
ちひろ美術館・入口 |
ちひろ美術館 |
階段からちひろの庭 |
ちひろの庭 |
庭の花 |
庭の花 |
庭の花 |
こもれび |
初山滋の作品を観て、子供向けの絵本という枠を超えて、童画から線画、版画、漫画、さらには装丁といろいろなジャンルに日本画的な、そして異国的な幻想も取り入れた美しい絵画に魅せられました。また、初山滋の人生、その生きた時代を超えて、子供たちの夢、そして未来への夢を描いているようにも思えました。
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