小金井市にある滄浪泉園から貫井神社、さらに国分寺市の殿ヶ谷戸庭園まで歩いてきました。これらの場所には、多摩川が武蔵野台地を削り取っ たことでできた国分寺崖線の「ハケ」による湧水があり、それぞれ「東京の名湧水57選」に選ばれています。
ハケというのは「水がはけ出る場所」に由来すると言われているようですが、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』は、「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」という一文から始まっています。
このハケの湧水により池が造られ、池を中心とした庭が造られています。それぞれの湧水、池、庭、そして紅葉を見て回ります。
1.滄浪泉園
実業家で衆議院議員も務めた*波多野承五郎は、国分寺崖線の上にあるこの一帯に1914(大正3)年に別荘を構えた。1919年には、犬養毅がここを訪れ、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味を込めて「滄浪泉園」と命名した。 なお、滄浪泉園は、1920年代後半に、三井鉱山の経営者である川島三郎が所有するようになり、戦後は、川島家が継承していた。しかし、開発の波が押し寄せ、1975年には高層マンション建設の計画が持ち上がり、市民らによる保存活動が起こり、東京都が買収し、小金井市に管理を委ね、1979年に緑地として開園した。当初は、敷地面積3.3ha余りの庭園が1975年時点で三分の一ほどに縮小してしまったという。
*波多野承五郎(1858-1929)
慶応義塾出身で『時事新報』の主筆、三井銀行理事、玉川電気鉄道取締役などを務め、衆議院議員となる。
(1)門柱・入口
門標は、犬養毅自らの筆によるもので、波多野の友人であった篆刻家・足立疇邨 (ちゅうそん)によって刻まれた。萬成と呼ばれる大きな赤御影石が使われている。
入口を入るとイチョウの黄色い葉が石畳を飾っていた。
(2)東屋
少し下って、開けた所に東屋が設けられている。そこの紅葉が赤く染まって美しい。
(3)水琴窟
すぐ横に水琴窟があり、軽やかな心地よい音を響かせている。
(4)池
燈籠のある道を下っていくと、池に出る。池には落ち葉が広がり、水面は光輝くように見えた。なお、池に名前はついていない。
(5)湧水
ここの湧水は「東京の名湧水57選」に選ばれている。「東京の名湧水57選」は、東京都が2003年に、湧水の保護と回復を図るため、水量、水質、由来、景観などに優れた都内の湧水57か所を選定したもの。
(6)石仏
池の周りの道に、石仏が置かれている。「鼻欠け地蔵尊」は、1666年に庚申講により造られたもので、目や鼻が欠け落ちている。「おだんご地蔵」は1713年に念仏供養のため造られたもので、その丸みを帯びた柔和な姿から、親しみを込めて 「おだんご地蔵」と呼ばれるようになったとされる。
さらに散策路を進むと、角柱型の「馬頭観音」が池の畔に置かれている。もとは笠付角柱型であったが笠が欠けてしまっている。造立年は文化8年(1811)11月とあり、「武列多麻郡貫井村中」の銘が刻まれている。
鼻欠け地蔵尊 鼻欠け地蔵尊 おだんご地蔵 おだんご地蔵 おだんご地蔵 馬頭観音 馬頭観音 馬頭観音
2.貫井神社
滄浪泉園を出て、歩いて10分ほどで貫井神社に着く。
(1)拝殿
由緒は、湧水の地に水神でもある貫井弁財天として祀られ、明治初年の神仏分離で厳島神社に、さらに貫井神社を合祀して貫井神社となった。
貫井神社の拝殿は昭和60年に火災で焼失し、翌年に再建されたもの。
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| 昭和41年の拝殿写真 |
(2)白蛇伝説
境内に住む白ヘビを見ると幸せになれるという伝説があり、巳年である今年(2025年)はメディアにも取り上げられて、参拝者が急増したという。拝殿の壁には白蛇を拝む男性の絵馬が飾られている。
この白蛇伝説には、府中市にある浅間山に、「おみたらし」という湧水があり、その地に大蛇(白蛇)が住んでいたという伝説がある。
「人見村のお婆さんが浅間山に薪取りに行き、松の倒木に腰かけたら,すると松の木が動き出したので、よく見たら大木でなく大蛇だった。この大蛇は、貫井弁天池、井の頭弁天池、浅間山おみたらしの三か所を行き来きしていた。」
蛇は恐れられると同時に神の化身でもあり、水を大事にする信仰と結びついていたことで、こうした伝説が生まれたのだろう。このあたりのハケの湧水を行き来しているというのも信仰の広さを思わせる。
(3)湧水
貫井神社の御神体は境内から湧き出る清らかな湧水で、同社の湧き水が豊富で枯れることがなかったことから「黄金井」(こがねい)と呼ばれ、「小金井」の地名の由来となったとされる。
別の説は、先の白蛇伝説と同じように、浅間山の「おみたらし」の湧水に由来するというもの。江戸時代の文献には「小金井と名付る事は、当処はるか南の方に人見山(現・浅間山) といふあり ・・・天の扶助 によりて自然と清水を得たるは、黄金を拾ひ得しに似たり、故に居村と成て小金井とは名付ぬ」(十方庵敬順『遊歴雑記』) とあることから、当時の地元民にはこちらの説が信じられていたのだろう。
また、「貫井」という名の由来は、貫井神社の湧水が夏は冷たく冬は「温 ぬくい」からであるとする説があるようだ。
ここの湧水も「東京の名湧水57選」に選ばれている。
(4)御神池
湧水が流れ込む池は「御神池」とされる。また「弁天池」という呼び方もされる。
大正12年〜昭和49年には湧水を利用した貫井プールもあったという。長さ50m、幅16.5mの本格的なプールが造られたが、夏でも水が冷たすぎる(水温15℃)ことと、小中学校などにプールが作られるようになったことから、昭和51年に役割を終えて取り壊された。
(5)火除橋
橋の名は、水に関わる神社であることからか。なお、伊勢神宮に「火除橋」があり、文字通り「火を除ける橋」ということ。
3.殿ヶ谷戸庭園(随宜園)
殿ヶ谷戸庭園は、さきの滄浪泉園が実業家の別荘として作られたと同じように、大正時代に三菱合資会社の江口定條がこの地に別邸「随宜園」を建てた。昭和になり、三菱財閥の岩崎久弥の長男である岩崎彦彌太に売却され、和洋折衷の回遊式庭園として完成させた。その際、洋風邸宅(本館)や数奇屋風の茶室(紅葉亭)等を追加整備した。設計は三菱所属の建築技師であった津田鑿(さく)。
当初の作庭は庭師・仙石荘太郎によるものだが、岩崎氏の庭園となったあとも、江口家から続く石川長三郎・宗三親子が担当した。
なお、殿ヶ谷戸庭園には、これまで何度か訪れていて、その沿革などを拙ブログにまとめている。
(参照):
東京異空間108:都会の中の庭園~殿ヶ谷戸庭園(2023/5/4)
東京異空間153:都会の中の庭園Ⅱ~殿ヶ谷戸庭園と国分寺崖線の別荘群(2023/10/24)
東京異空間195:殿ヶ谷戸庭園~花と山野草(2024/4/26)
(1)紅葉亭
紅葉亭は、数寄屋造りの茶室で、特にこの紅葉シーズンに。紅葉亭から眺める庭の景色は、まさに絶景といえる。
| 紅葉亭から眺め |
| 紅葉亭 |
(2)次郎弁天池
次郎弁天池は、庭園の中心をなす美しい和風の池で、湧水を蓄えたもの。今の時期は池の周りの紅葉と、雪吊りも造られ風情ある庭となっている。
(3)鹿おどし
庭園内には、伝統的な「鹿おどし」が設置されている。そこから流れ入る池には金魚が泳いでいて、より一層、日本的風情を醸し出している。
(4)湧水
池のよこから湧水が流れ込む。また紅葉亭の上からの滝が流れ込んでいる。
もちろん、この湧水も「東京の名湧水57選」に選ばれている。
(5)馬頭観音
池から崖を上がったところに馬頭観音が祀られている。表に、「百万遍成就 馬頭観世音」とある。「百万遍念仏」とは、往生、追善、祈祷を目的として念仏を百万回唱えることをいうので、それを成就したことを記念して建てられたのだろう。 1824(文政7)年の建立。
(5)竹の小径
庭園内には、日本庭園では珍しい孟宗竹の竹林があり、竹の青の美しさと紅葉の赤の対比を見ながら、散策を楽しむことができる。
(6)藤棚
藤棚は、庭園が岩崎家の所有だった時代から存在するもので、春には、藤の花が咲き誇る。
(7)萩のトンネル
9月中旬ごろには、萩の花が咲き乱れる「萩のトンネル」が現れるが、すでに枯れてきて、また違う風情がある。
(8)本館
本館は、昭和9年(1934年)に岩崎彦彌太の別邸として建てられた洋館で、建物の前の広い芝生の庭園との風景と調和している。
(9) 吉祥草
出入口の近くに、庭園内に季節ごとに咲く花を飾っている箱庭風のコーナーがあり、今はモミジ、ツワブキとキチジョウソウ(吉祥草)が植えられていた。キチジョウソウの花が咲くと吉事が舞い込むとされ、古くから縁起物として植えられてきたという。さらに実を結ぶのは珍しく、もし見つけたら、間違いなく「運」が向いているといえるそうだ。
| 吉祥草 |
貫井神社の白蛇や、殿ヶ谷戸庭園のキチジョウソウ(吉祥草)の実は見つけられませんでしたが、3つのハケの池を中心とした庭園を観ることができ、来年は、間違いなく「運」が向いてくるでしょう(・・・か?)
それとも、来年(2026年)は巳年から午年になるので、滄浪泉園と殿ヶ谷戸庭園で馬頭観音を拝してきたので、何事も「ウマ」くいくでしょう(・・・か?)
