芥川(間所)紗織《女(B)》染料、その他・布 1955年 |
3.現代美術(戦後)
敗戦後、人々の価値観も180度変わり、戦争画が避難され、近代美術は現代美術へと進んだ。ここではとくに女性アーティストに注目してみた。
(1)絵画
草間彌生(1929-)
草間彌生 《集積の大地》 1950年:初個展の出品作。場所は松本市第一公民館。
草間彌生といえば、すぐに水玉模様の作品を思い浮かべるが、草間は、幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始め、10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとしていたという。草間は現在に至るまで水玉をモチーフに制作する事が多い。1957年渡米し、ハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」と呼ばれた。1968年には、セントラルパークでのパフォーマンス、ブルックリン橋での裸のパフォーマンス、米国国旗焼却、MoMAの彫刻庭園でハプニング など、草間が仕掛けたハプニングは年に数十回にも及んだ。こうしたパフォーマンスを通じて既成の性にまつわる道徳観やベトナム戦争に加担していくアメリカの軍国主義に揺さぶりをかけたといわれる。
さきに観た「日本現代美術私観」@東京都現代美術館の高橋龍太郎コレクションのはじまりは草間彌生であった。高橋は次のように述べている。
「草間という女神は、三十年前とかわらず私に恩寵を与えてくれたのだ。以来、草間作品が、コレクションを形成していくメインエンジンのように、私を駆りたてるようになった。」(『現代美術コレクター』高橋龍太郎 講談社現代新書2016年)
(参照):
東京異空間237:美術展を巡るⅡ-1~日本現代美術私観@東京都現代美術館
いまでは、草間は、日本の現代アーティストとして世界でも最も評価が高いとされ、作品の値段も高騰しているという。2016年には、文化勲章を受賞している。女性画家として、上村松園、小倉逝遊亀、片岡球子について、4人目の受賞者である。
草間彌生 《集積の大地》 1950年 |
草間彌生 《集積の大地》 1950年 |
片岡球子(1905-2008)
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982
片岡球子は1905年、北海道札幌区(現札幌市)に8人兄弟の長女として生まれた。医師を目指した片岡は勉学に励み、北海道庁立札幌高等女学校の補習科師範部へと進学した。しかし、卒業時に友人から受けた言葉を機に画家を志すことにして上京、東京にある女子美術学校(現・女子美術大学)に入学する。 この時、実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、1926年、同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。
卒業後は横浜市大岡尋常高等小学校に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展には3度落選。院展には入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
また、その型破りな構成と大胆な色使いから、一部の人々からその画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれて思い悩むが、小林古径は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励ました。球子は美しく描くことが全てではないと信じ、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立した。
1955年の50歳の時に転機を迎える。30年近くにわたって勤めてきた小学校教師を定年退職し、絵画の道一筋となった片岡球子は、50歳をすぎてから「富士」を、60歳をすぎてから「面構」といった代表作を生み、更なる画業の資質を開花させ、「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズがライフワークとなった。
100歳を迎え、療養に努めながらも現役を続けていた。 103歳没。
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
片岡球子 《面構 歌川国貞と四世鶴屋南北》 1982 |
芥川(間所)紗織(1924-1966)
《女(Ⅰ)》染料、その他・布 1955年
《女(B)》染料、その他・布 1955年
《神話 神々の誕生》染料、その他・布 1956
《神話より》 染料、その他・布 1956
《黒と茶》 油彩・キャンバス 1962
《スフィンクス》油彩・キャンバス 1964
1950年代を中心に、活動した前衛の女性画家の一人である芥川(間所)紗織というアーティストについては、この作品を観るまでは知らなかった。「芥川」は作曲家・芥川也寸志との最初の結婚時の、「間所」は建築家・間所幸雄との再婚後の姓で、旧姓は山田である。 「芥川紗織」とも「間所紗織」とも呼ばれるが、2つの姓を併記して「芥川(間所)紗織」と書かれることも多い。
「山田」紗織は、東京音楽学校(現・東京藝術大学)で学んだ。戦後に女性を受け入れた東京美術学校と異なり、東京音楽学校は戦前から男女共学であった。紗織は本科声楽部を卒業後、1948年に東京音楽学校で知り合った芥川也寸志と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。彼女の歌が「作曲の邪魔になる」という理由であったという。
芥川也寸志は、作家・芥川龍之介の三男である。夫の也寸志は、早くに才能が注目され、管弦楽曲やオペラ、映画音楽など多彩な作品を手がけて、戦後日本を代表する作曲家になった。その活躍に接しながら、紗織は、いわば「歌を封印したカナリア」となり、自己表現の対象として絵画にのめり込んでいったといわれる。
26歳頃から、女学校時代に描いていた油絵を猪熊弦一郎の絵画研究所で、ロウケツ染めを野口道方に習い始めた。最初に注目されたのは、染色画の「女」シリーズ(1955年)だ。大きな口を開けて笑い、髪を逆立てて怒り、天を仰いで叫ぶ女の顔。それが画面いっぱいに描かれている。
1957年、紗織は離婚し1959年に渡米。ロサンゼルスでグラフィック・デザインを学んだ後、ニューヨークに移り、美術学校に入学した。それまでほぼ独学だったが、米国に来て初めて正式の美術教育を受けた。そして油彩による抽象作品を制作するようになり、画風は染色画から大きく変わっていく。
1963年、建築家・間所幸雄と結婚。
1966年、妊娠中毒症のため病死。
なお、生誕100年を記念して、ここ近美をはじめ、横須賀美術館など全国10の美術館が連携して所蔵作品を展示するプロジェクト「芥川(間所)紗織 Museum to Museums」が行われている。
芥川(間所)紗織 《女(Ⅰ)》染料、その他・布 1955年 |
芥川(間所)紗織 《女(Ⅰ)》染料、その他・布 1955年 |
《女(B)》染料、その他・布 1955年 |
《神話 神々の誕生》染料、その他・布 1956 |
《神話 神々の誕生》染料、その他・布 1956 |
《神話より》 染料、その他・布 1956 |
《黒と茶》 油彩・キャンバス 1962 |
《女(B)》 |
《神話 神々の誕生》 |
芥川(間所)紗織の作品 |
清野賀子(せいの よしこ、1962-2009)
《「The Sign of Life」より 千葉》、2001年
《「The Sign of Life」よりブロック塀 千葉 》2000年
《「The Sign of Life」より 建物 千葉 》 2001年
《「The Sign of Life」より フェンス 埼玉》 2001年
《「The Sign of Life」より 秩父 埼玉 》 2001年
《「The Sign of Life」より 海 青森 》2001年
《「The Sign of Life」より 道 青森 》2001年
《「The Sign of Life」より 愛媛 》2001年
《「The Sign of Life」より 橋 徳島 》2001年
《「The Sign of Life」より 松と桜 神奈川 》2001年
清野賀子という女性・写真家についても、これらの作品を観るまでは知らなかった。これらの写真は、ジャンルでいえば風景写真となるのだろうが、風光明媚な景色を撮ったというような風景写真とは全く違い、この写真のどこがいいのだろうか、と思ってしまうくらいだ。
清野は、1954年、東京生まれ。1987年中央公論社に入社。『マリー・クレール』誌の編集者として活動していた1995年頃より写真を撮り始める。
2009年に自死。
写真集『THE SIGN OF LIFE』では、中判カメラを使用。千葉、茨城、青森、愛媛、徳島など、すべて日本国内で撮影されたが、日本の風景として類型化しているような写真ではなく、人影もなく、一見何の変哲もない日常的な風景の写真である。
二冊目の写真集、『至る所で 心を集めよ 立っていよ』では、35ミリの小型カメラを使用。撮影地は東京で、対象はより身近な風景となり、人物写真もある。けれども、これらの写真のいずれにおいても、スナップショットともプライベートな生活の記録とも異なる。
これまで、いい写真を観て感動するといった固定的な観念を打ち破るような写真が淡々と並ぶ。
《「The Sign of Life」より 千葉》、2001年 |
《「The Sign of Life」よりブロック塀 千葉 》2000年 |
《「The Sign of Life」より 建物 千葉 》 2001年 |
《「The Sign of Life」より フェンス 埼玉》 2001年 |
《「The Sign of Life」より 秩父 埼玉 》 2001年 |
《「The Sign of Life」より 海 青森 》2001年 |
《「The Sign of Life」より 道 青森 》2001年 |
《「The Sign of Life」より 愛媛 》2001年 |
《「The Sign of Life」より 橋 徳島 》2001年 |
《「The Sign of Life」より 松と桜 神奈川 》2001年 |
<追加>《「good day,good time」より 》2003-2007年
海 千葉 |
黄緑色の木 千葉 |
道の上のボート 小田原 |
倒れる鶏頭 小田原 |
芝桜の庭 神奈川 |
蘭の温室 千葉 |
忘れられたソファ 山梨 |
車 山梨 |
紅葉 東京 |
椿 群馬 |
近美のMOMATコレクションにおいて、明治から現代までの日本の絵画、彫刻、工芸、写真などの作品を観てきましたが、戦争画の重みから、現代美術、戦後のとりわけ女性のアーティストの生き方、その作品に関心を持ちました。
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