2024年11月30日土曜日

東京異空間251:美術展を巡るⅧ~オタケ・インパクト@泉屋博古館・東京

 

《絵踏》国観

@泉屋博古館・東京

美術展巡りの中で、とくに興味を持ったのは、このオタケ・インパクト@泉屋博古館・東京です。尾竹三兄弟については、美術史においては忘れられた画家と言われていますが、その名前だけは知っていましたので、その作品を観たいと、六本木まで出かけました。

1.尾竹三兄弟

展覧会の構成は次のようになっている。タイトルだけでは謎解きのようで、訳が分からないが、ほぼ三兄弟の明治から昭和にかけての生涯を追っている。

第1章 「タツキの為めの仕事に専念したのです」―はじまりは応用美術

第2章 「文展は広告場」一展覧会という乗り物にのって

第3章 「捲土重来の勢を以て爆発している」一三兄弟の日本画アナキズム

第4章 「何処までも惑星」ーキリンジの光芒

各章ごとに、三兄弟の生涯を見ていく。

第1章 「タツキの為めの仕事に専念したのです」―はじまりは応用美術

(明治前期~30年代まで)

まず尾竹三兄弟とは、次の三人のこと。

長男 尾竹越堂(えつどう)(18681931

三男 尾竹竹坡(ちくは) (18781936

四男 尾竹国観(こっかん)(18801945

新潟に生まれる。紺屋を営む父・倉松は「国石」という号を持つ絵師でもあったことから、兄弟は幼いころから絵を描いていたとされる。しかし、家業が傾き、越堂は富山に移り*売薬版画などを手掛け、弟たちも合流して挿絵を手掛けるなど家計を助けた。この時、兄越堂は20代前半、弟たちは10代であったが、三兄弟にとって絵は生活そのものだった。国観は、12歳のとき、全国児童がコンクルーで一等賞を取るなど早くも才能を発揮している。

タイトルの「タツキの為の仕事に専念した」というのは、国観の言葉ということだが、「タツキ」とは、「手(た)付(つ)き」で、生計を意味する。

*売薬版画薬売りが得意先へのおまけとして配った多色摺りの浮世絵風の版画 をいう。売薬行商といえば、「おまけの風船」があったが、それ以前の売薬土産の代表的なものが売薬版画(富山絵ともいう)である。 明治前期は富山の薬売りも全盛期となっていて、売薬版画は大いに好まれた。

竹坡と国観は、本格的に絵を学ぶために上京した。竹坡は円山派の川端玉章に入門、国観は、小堀鞆音に師事し歴史画を学んだ。

第2章 「文展は広告場」一展覧会という乗り物にのって

(明治40年代~大正初期まで)

上京した竹坡と国観は、日本美術院に参加し、東京美術学校で直接岡倉天心の薫陶を受けた横山大観、菱田春草、下村観山などとともに、天心からその画力を評価された。

しかしながら、明治 41 1908)年の国画玉成会(新派)の審査員指名に際し天心と対立し、指名にもれた竹坡は、懇親会の席で天心を面責し、国観とともに同会を脱退することと なった。

この時期、日本画壇におけるフェノロサ、岡倉の革新派(新派)と伝統的保守派(旧派)の派閥争いがあった。画壇の派閥争いは、1907年に始まった文部省美術展覧会(通称・文展)にも持ち込まれる。

1回文展は1907(明治40)年上野公園の元東京勧業博覧会美術館で開催された。日本画、洋画、彫刻の3部門からなり、日本画では竹内栖鳳(京都)、下村観山(東京)などが評判を集めた。この時、洋画では無名の新人であった和田三造が《南風》で2等賞(最高賞)をとって話題となった。

この文展は、「国が美術を奨励した」と日本の画壇を大いに盛り上げることになり、尾竹兄弟もここに出品し、賞を獲得し一躍人気作家へと成長する。そこで言われたのがタイトルの「文展は広告場」である。これは竹坡の言葉という。その言葉通り、1909年(明治42年)の第3回文展では国観が二等賞・竹坡が三等賞、翌年第4回文展では竹坡・国観が二等賞、越堂も参加した翌年第5回文展では三兄弟揃って入賞という華々しい活躍ぶりであった。

しかし、1913(大正2)年の第七回文展には、極めて挑戦的な二点を出品したが、結果は 2 作品とも落選であった。竹坡の評伝では、この落選は横山大観の「策術」によるものだとされている。

世間の同情をも誘うような落選への義憤からか、竹坡は1915(大正4)年 の総選挙に候補するが、ここでも落選する。このときの借金がのちに竹坡を濫作へと向かわせることになり、その画名を下げることになった。

第3章 「捲土重来の勢を以て爆発している」一三兄弟の日本画アナキズム

(大正時代)

落選続きの竹坡は、門下生たちと「八火会」を発足させ、展覧会を開催する。その後、越堂、国観も加わり、「八華会」、さらに「八火社」として、官展との対抗意識を持って、同じ上野で、同じ開催期間という独自の展覧会を開催し、多くの作品を出品した。ここにおいて、これまでの日本画の枠を大きく逸脱するような前衛的な作品を制作する。1920(大正9)年、第一回の八火社展に出品した竹坡の《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》は、日本画の新しい試みとして評判を得た。また、第一回展の翌月、ロシアから未来派の画家 ブルリュック、パリモフが来日し「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を開催された。竹坡はブルリュック、パリモフを八火社展に招待するとともに席画を交わすなど、大きな反響をを呼んだ。

タイトルの「捲土重来」は「数年来の忍黙不平がここに捲土重来の勢を以て爆発している」と評された言葉だという。評者は、竹坡の置かれた境遇と日露戦争後の日本の状況を重ね合わせているのであろうか。

竹坡《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》宮城県立美術館蔵





第4章 「何処までも惑星」ーキリンジの光芒

(昭和前期・戦前まで)

一時は画壇の寵児となった尾竹三兄弟だが、その型破りの言動から、いつしか中央から周辺に追いやられていく。昭和時代に入ると、越堂は東京府美術館の設立に貢献し、竹坡と国観は官展への返り咲きをを目指して活動している。

タイトルの「何処までも惑星」は、南画家の松林桂月から竹坡にといわれた言葉だという。返り咲きを目指した竹坡の制作意欲は衰えなかったが、帝展には落選している。

また、国観は一貫して歴史画を探求するなど、それぞれが展覧会のために描き、力を尽くしている。

越堂は昭和6年(61歳)、竹坡は昭和11年(59歳)、国観は昭和20年(66歳)に、それぞれ人生の幕を下ろした。

「キリンジの光芒」とは、若くして絵の才能を発揮し、一躍、画壇の寵児となった三兄弟を「麒麟児」として、その光が日本画の歴史にスジを残しているということであろうか。「歴史は勝者によってつくられる」といわれるが、日本画の歴史も同様であるとすれば、尾竹三兄弟がようやく歴史の中に位置づけられることになる展覧会であろう。

2.《絵踏》国観

入口を入ってすぐ右に大きな作品がある。国観の描いた《絵踏》である。この作品のみが写真撮影可であったので、レンズを通してしっかりと観た。

描かれているのは絵踏の様子。女性が置かれた踏み絵をじっと見つめている。そのまわりには役人たちと見守る人たち、総勢41人が描かれている。よくみると、幼い乳飲み子を抱く母親や、白髪の老人から南蛮人(オランダ人)、中国人も描かれている。主人公である女性のうつむき加減で、無表情だが、じっと踏絵を見つめる目はうるんでいるようにも見える。その様子を見つめる人物一人一人の心理描写から、画面全体には重苦しい緊張した空気が張り詰めている。

床に置かれた踏み絵をアップしてみると、聖母子が描かれている。絵のタイトルは《絵踏》である。昔、歴史の教科書では「踏絵」と習ったように覚えているが、「踏絵」と「絵踏」は明確に区別されるという。すなわち、絵を踏む行為を「絵踏」、踏まれるモノを「踏絵」という。

江戸幕府は、鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧し、キリスト教信者を発見するために「絵踏」という制度を、寛政年間(1629年)作り、幕末の安政年間(1858年)まで続けた(最終的にキリスト教禁教が終わったのは明治61873)年である)。

図録の解説によると、国観の描いた、女性の髪形、服装、役人や中国人、南蛮人の人物の服装などは江戸初期のものと考証されるという。また、「踏絵」についても、初期は紙に描かれたもので、その後、耐久性の問題から板踏絵、さらに真鍮製の踏絵となったということを踏まえて描かれているという。しかし、描かれているように日本人の女性が絵踏を行う場に中国人、南蛮人が同席することはあり得なかったとされる。いずれにしても国観の「歴史画」」を探求した大作と言えよう。

この絵は明治41年、岡倉天心を会長とする国画玉成会主催の日本絵画展覧会に出品された。しかし、先に述べたように、国観の兄である竹坡が展覧会審査員の選び方をめぐって岡倉天心衝突してしまう。竹坡は国画玉成会を除名となり、国観も兄に従って脱会する。 そこで、国観が描いた《絵踏》は、覧会の会場から撤去され、結果、展示されたのは開催初日からのわずか4日間だけとなったという。この絵は「踏絵」ではなく「天心」を踏んだともいわれる。そんないわくつきの幻の絵画《絵踏》が、保管していた国観の遺族により、2022年に泉屋博古館東京に寄贈され、修理と表装が施され、本展で初めて展示されることになったという。












3.《大漁図》竹坡

もう一点、こちらは撮影不可であるが、会場前のポスターから写したもので、竹坡の《大漁図》という作品である。先に述べた第3章 「捲土重来の勢を以て爆発している」一三兄弟の日本画アナキズム(大正時代)に属する作品の一つである。

《大漁図(漁に行け)》というタイトルで、サメ、ヒラメ、カツオ、ウミガメ、イセエビ、アンコウなど、無数の魚介類が画面を隙間なく埋め尽くしている。その無数の魚、一匹一匹に目がくっきりと描かれ、目のみが浮き出てくるようで、異様な印象を与える。

船の上では黄色と赤色の褌をした漁師たちが漁に励んでいる。その漁師たちの目は切れ長で、はっきりした目鼻立ちで、どこかエキゾチックな異国の人物として描かれている。

こうしたことから、この絵はインドの細密画に通じるフォルムを持つとされる。この時期取り組んだ竹坡の従来の日本画の枠を超える前衛的スタイルを目指した作品の一つである。

(参考):

図録『オタケ・インパクト』求龍堂 2024




作品を観終わって、尾竹三兄弟、恐るべし、といったところでしょうか。これまで尾竹三兄弟が、日本画の歴史から忘れられた存在になっていたこと、その生涯は、タツキ(生計)のため、展覧会のため、日本画のためであったが、その存在はいつまでも「惑星」であったということを作品を通してみることができました。(会期は12/15まで)




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